藤木久志『雑兵たちの戦場』

 

初めに
 朝日新聞社より1995年に発行された。副題は、「中世の傭兵と奴隷狩り」である。基本的に、読後雑感で紹介している本や論考は、私が大いに感銘を受けたものばかりだが(怠惰な私には、読んでつまらなかった本の雑感をわざわざ書くような気力はない)、『雑兵たちの戦場』は実に興味深く、教えられるところの多い本で、これまで取り上げた本や論考の中では最も強い感銘を受けた。戦国時代に関心のある人にはお勧めである。

 雑兵とは、身分の低い兵卒のことである。戦国大名の軍隊で騎乗の武士は大体1割程度で、残りの9割は次の3種類から成っていた。 (1)騎乗の武士に奉公し、悴者・若党・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍 (2)中間・小者・あらしこなどと呼ばれる、戦場で主人を助け、馬を引いたり槍を持ったりする下人 (3)夫・夫丸などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓。  (1)は戦うことを許された戦闘要員、(2)(3)は戦闘から排除されるという建前であったが、無論実際の戦場でそのような区別が通用したわけではない。本書においては、(1)(2)(3)に加えて、戦場の商人・山賊・海賊達が雑兵と呼ばれている。
 本書では、この雑兵の視点に立って、戦国時代の戦場と戦争の意味、更には戦国時代の重要な側面が述べられている。全体は4部構成(エピローグも含めると5部ということになる)となっており、以下、各章に沿って、順に本書の内容と雑感を述べていく。

 

濫妨狼藉の世界
 戦国時代の戦いの目的は何だったのだろうか。そんな当然のことを今更問う意味があるのか、領土争いに決まっているではないか、との反論がありそうだが、それは「英雄的視点」からの戦争論である。確かに、例えば豊臣秀吉が、国郡境目の争いを止めよ・九州の国分け紛争は自分が裁く、などと言っていたように、戦国時代の戦いが領土紛争であったことは間違いがない。
 だが、雑兵たちの視点に立つと、別の重要な側面が存在した。つまり、「食う(生きる)ための戦争」・「略奪目当ての戦争」ということである。ルイス=フロイスの『日本史』には、
われらにおいては、土地や都市や村落、およびその富を奪うために、戦いがおこなわれる。日本での戦さは、ほとんどいつも、小麦や米や大麦を奪うためのものである、との記述がある。フロイスはポルトガル出身の宣教師だけに、日本に対する誤解や偏見があったことは否めない。だが、フロイス『日本史』も含めて宣教師の書き残した各種史料は、信仰の問題を除けば、概ね冷静公平な記述である、との評価も研究者の間にはある。では、フロイスのこの記述を裏付けるような史料は存在するのだろうか。
 先ず最初に実例として挙げられているのは九州南部の戦国大名島津氏である。島津方の日記・覚書・軍紀には、戦闘に伴う人の生捕りや牛馬の略奪や田畠の作荒しといった行為が多数記載されている。中には、「人を取ること四百人余り」というものもあり、これなどは単なる戦争捕虜ではなさそうである。島津氏と隣接した肥後南部の大名である相良氏の年代記には、「いけ取り惣じて二千人に及ぶ」とあり、島津氏の事例は決して特殊なものではなく、誇張もあるだろうとはいえ、各地の史料からは、戦国時代における大量の人取りが決して珍しくはなく、また容認されていたことが分かる。

 では、こうして連行された人々はその後どうなったのだろううか。わざわざ生捕りをするわけだから、勿論殺害するということはなく、下人や奉公人として働かせることになるのだが、親族のいる者は、身代金の支払いで在所に連れ戻されるということもあった。戦場にはこうした生捕りの人々を目当てとした商人とも盗賊・海賊とも言えるような人々がいて、仲介手数料を取ったり売買したりして利益を得ていた。また、ポルトガルなど「外国」商人により、生捕られた人々が海外へと奴隷または傭兵として売られていくことも珍しくはなかった。こうした「日本国内」の習俗は、朝鮮役の際には朝鮮にも持ち出され、多数の朝鮮住民が生捕りとなり、日本のみならず東・東南アジア各地に売られていった。
 このような人取りや略奪、つまり濫妨の状況は戦場、つまり治安が維持されていない場所で起きるわけで、大名権力も領内での人取りは認めておらず、濫妨の禁止により自らへの支持を取り付けていたところもあり、また、敵対勢力の支配下または両勢力の境界にあるような村に対しても、味方に付けば人取りや略奪を禁ずるといった条件を提示して、自らの勢力下に置こうとすることも珍しくはなかった。だから、秀吉による統一が達成され、「国内」の戦場が消滅すると、広域的な人身売買停止令が発布されることになったが、その後も関ヶ原役や大坂陣の際には、やはり人身売買も含めて濫妨が行なわれていた。
 では、こうした戦場での濫妨、特に奴隷狩りはどこまで遡るのだろうか。また、戦闘に略奪が伴うことは古今東西普遍的であるが、何故それは容認されたのだろうか。中世の「公」的行為であった検断・追捕の際の濫妨は凄まじいものがあり、検断者には濫妨に関して大幅な裁量が認められていた。戦場での濫妨の「正当性」はここに由来するのだが、それだけではなさそうである。日本では飢饉奴隷(飢饉の時に養った者を下人とすること)と犯罪奴隷(重い罪を犯して死刑になるべき者を許して下人とすること)は正当とされていた。両者に共通するのは、そのままでは失われるべき生命を助けるということであり、これは戦争奴隷にも共通する観念ではなかろうか。本来は戦死すべき生命を救うことで、下人とすることが許された、というわけである。

 日本中世の人身売買については一応は知っていたが、本書を読むまでは、ここまで普遍的なものだとは知らなかった。秀吉の人身売買停止令にしても、西欧勢力が欧州の奴隷売買の習慣を日本に持ち込み、九州「征伐」の際にそれに気付いた秀吉がその停止を命令したものだと考えていたし、また秀吉はその時カトリック教会の危険性を見抜いた、と思っていたのだが、全くの的外れだったようである。考えてみると、既に『後漢書』に生口160人を献上との記事があるわけである。何だか日本は人身売買とはあまり縁がないかのように思ってきたが、全くの幻想だったようである。

 

戦場の雑兵たち
 「食う(生きる)ための戦争」の実例が、上杉謙信の軍勢である。謙信軍の場合、関東出兵は、晩秋に出掛けて年末に帰る冬型(短期年内型)と、晩秋に出掛けて年を越し、春か夏に帰る冬春型(長期越冬型)が多い。一方、北信濃や北陸への出兵は、特に決まった傾向がない。謙信の本拠である春日山城からの距離は、関東の方が北信濃や北陸よりもずっと遠く、また後者は前者と比較して領国化が進展していたようである。だから、関東への出兵は容易ではなかった筈だが、そこに一定の傾向が認められるのは偶然ではない。
 では、その理由は何かというと、「口減らし」である。当時二毛作のできなかった越後では、年が明けて春になると、畠の作物が獲れる夏までは、端境期といって深刻な食糧不足に悩まされた。端境期は越後だけの問題ではなく、中世を通じての問題でもあり、端境期の死亡率は高かった。これは日本だけでなく中国も同様で、中国で端境期の飢えが克服されるようになったのは18世紀の終わり頃らしい。
 戦場は、端境期の飢えを凌ぐための出稼ぎの場でもあった。上杉軍の兵が人身売買を行なっていたことは史料に見えるが、人身売買や作物も含めての物品の略奪により、戦国時代の人々は飢えを凌いでいたのである。そうすると、兵農分離も、単に武士の側からの問題ではなく、百姓の側からの問題としても考えねばならない。つまり、百姓はいつ戦場での略奪なしで食べていけるようになったのか、という視点である。

 雑兵の中でも、最初に述べた(1)(2)のような奉公人は流動性の高い存在でもあり、主人を替えること、そして鞍替えの相手が敵方であることなどは、全く珍しくはなかった。故に、武士の間で、奉公人の帰属を巡る紛争が絶えず、そのため戦国大名の法には、この紛争についてのものが多い。こうした奉公人は、稼ぎ、つまり略奪の場である戦場を求めて移動していたのである。
 このような雑兵たちは、村々からの出稼ぎ者だけではなく、悪党・忍びの者・海賊・商人などがいた。彼等の中には、一人で複数の立場を持つ者も珍しくはなく、いわば略奪や人取りの専門家であった。彼等は強かで、必ずしも特定の大名にのみ仕えるというわけではなく、敵対勢力の狭間で、両方に通じて稼いでいたのであり、これは商人の場合特に顕著な傾向である。大名権力も、治安の維持を乱す者として弾圧しつつも、戦闘の際など、何かと彼らを利用していた。

 戦国時代においても端境期の飢えは未だ深刻な問題で、戦場は口減らしの場でもあり、そこでの略奪により人々は飢えを凌いでいたとの指摘は、何とも衝撃的である。英雄・群雄からの視点では分からない戦国時代の側面である。戦国時代は活力のある発展期として認識されているが、それでもやはり貧しさと残酷凄惨さを否定することはできず、食う・生きるために必死になっている人々の姿は、飽食の時代と地域に生きる私には、本書にでも出会わない限り、想像することもできなかったかもしれない。

 

戦場の村−村の城
 では、中世の人々は、このような濫妨、つまり物品の略奪や人取りに対して無力だったかというと、そうではない。中世は自力救済の時代とされている。人々は、自分の安全は自ら守ったのである。中世には、普段から食糧や家財の一部を山間の村や寺社へ預けておく財産保全の習俗が広く行なわれていた。
 また、いざ戦闘が発生した際には、民衆が逃げ込む場所も確保されていた。その一つは領主の城であり、そのため、城の維持管理は民衆の義務であるとされていた。もう一つは民衆が独自に用意した避難所で、これは山に備えられた場合が多く、避難する際の用語として「山上がり」や「小屋上がり」があるが、中には本格的な防御施設になっているものもあった。また、寺社に逃げ込む場合もあったが、これは寺社がアジールとされていたからである。大名権力に断りのない「山上がり」や「小屋上がり」は敵対行為と見做されたが、兵粮や礼銭などを払えば敵対行為とは見做されなかった。
 敵対勢力の境界に位置する村や町は頻繁に襲われるため、双方に半分ずつ年貢を納めることで安全を保障されることもあった。また大名権力も、村人が山などに籠ったままでは収入に響くので、積極的に身の安全を保障したり、減税を約束して荒れた耕作地の復旧を勧めた。

 戦国時代、民衆がどのように戦禍を避けたかというのは興味深い問題だが、避難所が領主の城や防御設備も時としてある独自の施設ということになると、何故日本で囲壁集落がなかったのか、という大問題への一つの回答が導かれるようにも思われる。山がちで複雑な地形の日本列島では、居住地域よりも遥かに防御に適した地形が身近に豊富に存在したのであり、そこに立て籠もる方が、集落に防御施設を備えるよりも効果的だと考えられたのかもしれない。

 

戦場から都市へ−雑兵たちの行方
 社会の底辺に生きていた雑兵たちにとって、戦場は明らかに生命維持装置の役割を果たしていた。戦国時代の戦争は、相次ぐ凶作と飢饉と疫病によって地域的な偏りを生じた中世社会の富を、暴力的に再分配するための装置であった。では、秀吉の統一とその後の朝鮮役での敗北により戦場が消滅した時(関ヶ原役と大坂陣はあったが、もはや恒常的な戦乱状態は訪れなかった)、戦場を稼ぎの場とし飢えを凌いでいた雑兵たちはどこに向かったのだろうか。
 それは、各地の巨大な普請場(大規模公共事業)と鉱山(16世紀後半以降、技術革新によりゴールド・シルヴァーラッシュが起きた)であった。戦場を閉鎖して平和を保ち続けるために、日本社会は大規模な公共投資(社会の富の再配分)を強いられたのである。だが、これは一方で深刻な問題を惹起した。つまり、村落の過疎化と都市への流入、そして都市の治安悪化である。秀吉の「身分統制令」はこうした状況に対応したもので、農民の土地緊縛策というよりは、寧ろ都市流入阻止を主眼に置いたものであった。
 大規模公共事業の行なわれる都市には、周辺村落から人が殺到し、大名側は、これを日用(日雇い)することで作業に当たらせたが、日用の手配は民間の口入屋が行ない、彼等は武家や町方に奉公して働いた。大規模公共事業では、武家の日用が大きな比重を占め、上からの割り当て人夫は日用を雇って凌ぐというのが、江戸の初期にはすっかり定着していた。だが、それでも全員に働き口があるわけではないし、待遇に不満な者も出てくる。そうした者達の中には、嘗ての戦場のように都市で略奪を行なう者も出てきて、都市の治安が悪化したというわけで、秀吉はこれに対して盗賊停止令などをでしている。

 秀吉による統一後の各地での相次ぐ巨大な普請については、富の蓄積・経済発展の成果である、と考えてきたのだが、新たな生命維持装置の創出・富の再配分との指摘は、なるほどと肯かされた。不況の現在、深く考えさせられる問題である。

 

エピローグ−東南アジアの戦場へ
 稼ぎ場を失った雑兵たちの行き先は、「国内」の巨大な普請場と鉱山だけではなかった。既に戦国時代より、「日本人」は奴隷・傭兵として東南アジア(だけではないようだが)に売られていったが、「国内」の戦場の閉鎖と西欧諸国の植民地争奪戦の激化により、16世紀末以降それは盛んになった。日本は西欧諸国にとっての戦略拠点・兵站基地となり、武器・奴隷・傭兵が東南アジアに渡っていき、植民地争奪戦で大いに活躍した。山田長政は実在しないそうだが、無数の「山田長政」が存在したのである。
 徳川政権は、当初はどの国とも、基本的に対外友好・機会均等・取引自由の外交方針を維持していたが、やがて国際紛争に巻き込まれることを避けるために、唐突に武器・奴隷・傭兵の禁輸令を出した。これは、徳川の平和の裏で、東南アジアに放出された日本の戦争エネルギーの大きさの証明であった。

 戦国時代の戦闘についての意味は、「英雄史観」だけでは甚だ不充分である。雑兵たちの視点に立った時、新たな戦争の意味、そして戦国時代の様相も見えてくるのではなかろうか。また、「日本国内」だけで戦国時代を考察することもできないのであり、東南アジアにおける西欧諸国の動向など、「海外」の情勢と大いに密着して、「国内」の歴史も動いていたわけである。

 

 

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