小路田泰直『日本史の思想』(後編)
日露戦争後、アジア主義は凋落し、日本をアジアの盟主として位置付ける膨張主義的な大アジア主義へと転換していったが、一方で、民族自決の原則を強制する「パクスアメリカーナ」も成立しつつあった。本来は民族自決の主張であったアジア主義がいとも簡単に膨張主義的な大アジア主義へと転換したのは、国家が、一度動員した国民の排外的感情の暴走を抑制する能力を持たないからであった。何故国家が抑制能力を持たないのかというと、国家自体が近代社会を創出するに際して、排外主義の統合効果を過剰に利用し過ぎていたからだった。
近代日本は、何か公的事業を行なう際、関係する諸利害を、個々の利害を越えた一つの利益(公益または国益)に統合していく仕組みとしての立憲制の創出に最終的には失敗し、その失敗を補うために、天皇の超越性を演出したが、天皇の絶対性には天皇不執政の原則と天皇親政原理の矛盾が付き纏う。従って、如何なる水準であれ、近代日本社会の統合には、共通の他者を排除することによって生まれる共同体意識=排外主義を利用することが求められた。故に、例えば市制を施行し(1888年)都市団体を創出するために、都市住民の農村に対する排他性を利用することが不可欠であった。日本の近代都市が、将来の都市化を見込めば、当然あらかじめ政治的傘下に収めておくべき周辺農村を敢えて政治的傘下に収めようとはせず、社会資本整備を遅らせ、際限なきスプロール化を招いてしまったのは、そのためだった。排外主義を内蔵してしまった国家に、排外主義の暴走が食い止められなかったのは必然的だったのである。
アジア主義凋落の跡を埋める思想には、門戸開放体制(パクスアメリカーナ)に順応すべく、日本という国家を、日本列島と日本文化によって先天的に限定された存在として論じることと、日本人をより積極的な政治主体に変え、政治に強い指導力を生み出すことを可能にすることが要求され、これに応えて影響力を強めたのが、広い意味での日本主義であった。それは、日本という国家の存在根拠を、一人一人の国民の皇祖皇宗の「建国当初の抱負」に対する自覚と共感に求める思想で、万世一系の天皇の血統に日本国の正当性を求める一種の名分論だった。
だが、日本主義は二つの点で従来の名分論とは根本的に異なっていた。一つは、民族存在の事実ではなく、一人一人の日本人の主体的な共感に国家を基づかせようとした点である。もう一つは、祖宗の遺訓を万国に通じる普遍的真理と認識していた従来の名分論に対して、それを日本社会の中で日本人にのみ理解できる特殊日本的な真理と認識した点である。従って日本主義は、植民地支配の根拠を、従来のアジア主義のように敢えて歴史に求めることを拒否する思想だった。従って、日本主義は、極端に権力・同化主義的な侵略主義に発展する可能性も、石橋湛山の小日本主義のように反植民地主義に発展する可能性も持った思想だった。日露戦争後、アカデミズムの世界では、アジア主義から日本主義への移行が確実に始まっていたが、アジア主義が一旦広まった後だけに、日本主義の確立はなかなか困難だった。
そこで、日本主義確立のために先ず取られた方法が、日本の歴史を純粋な日本史として描き、東洋史への埋没から救い出すことであった。内藤湖南が、日本文化の起源とその根本を知る為にはどうしても先づ支那文化を知らなければならぬ。今、歴史といふものを日本の歴史だけで打切ってしまって、その以前の支那の事を知らぬといふと、日本文化の由来を全く知らぬことになる、更には、大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です、と述べたようなアジア主義の呪縛から日本史を解き放つための方法は、三つあった。
一つ目は、既に津田が指摘したように、常識的に考えると日本が最も深刻に中国文明の影響下に置かれたと思われる古代において、外来文化の影響が実は小さく、所詮は表面的な影響に過ぎなかったことを発見することだった。二つ目は、中国文明の影響を長期間色濃く受けた中央貴族の歴史ではなく、中国文明の影響を殆ど受ける筈のない地方(関東)武士、またはより下からの民衆の歴史として、日本史を描き直すことだった。日本中世史の創始者とされる原勝郎は、関東武士の世界の中に歴史発展の原動力を見付けたのである。三つ目は、現代日本の古典を古代ではなく中世に求めることで、これにより外来文化をひたすら受け入れて発展してきた古代貴族の歴史と切り離して、地方の武士や民衆を主体とした内なる国民形成史を描くことができた。とはいえ、このように日本史を東洋史とは無関係な純粋な日本史として描くことは、史実の壁があり容易ではなかった。そこで日本主義者達は、更に二つの方法を選択した。
一つは、「歴史は現代史である」という立場での方法、つまり、歴史を現代の歴史研究者の主観に完全に従属させる、という方法だった。この立場を推し進め、歴史を敢えて実証から解放し、理論へと飛躍させることによって、歴史を客観的な史実をありのまま記述する学問から、歴史家の主観によって過去を主体的に(従って未来への実践を視野において)統合する叙述の学問へと変貌せしめるのに功があったのが、内田銀蔵と平泉澄であった。この立場では、「我等紛れもなき日本人」の描き得る歴史は、必然的に「桜咲く日本の国土の上に幾千年」刻まれてきた歴史としての日本史しかなくなるのであり、如何にアジアから多様な影響を受けようとも、国土に限定された日本史が正当なものということになるのである。所謂皇国史観は、この方法の歴史的帰結であり、一種の戯画化であった。
もう一つは、日本史を、予めその普遍性が約束された西洋史の方法に沿って描くという方法だった。そうすれば、日本史に普遍性が宿ることになり、普遍的なものは自ずから自己完結性を帯びるからである。この方法は、近代日本の歴史学が西洋歴史学を範としたためか、広く行なわれた。一見すると西洋史とは無縁に見える津田史学にしても、中国やインドの文化・思想が国民の実生活から遊離していたと主張していたのに対して、西洋文化は国民の実生活に密着したことを認め、西洋思想は日本人にとって決して異国の思想ではない、としていた。
だが、日本主義を確立するには、日本史を自己完結的に描くだけでは不充分であった。何故ならば、一つには、帝国主義的膨張を続ける日本という現実の下では、アジア主義の方が受け入れられやすかったからである。もう一つは、如何に日本史を東洋史から切り離して描いてみても、その虚偽性が明らかだったからである。そこで、日本主義を確立するには、国家を先天的に空間的に限定することの必然性を哲学的に論証しなくてはならなかった。その課題を担ったのは、「場の論理」を確立した西田幾多郎と、『風土』を書き風土論を確立した和辻哲郎だった。
和辻は西田哲学の影響も受けつつ、国家や社会が固有の時間(伝統)と空間(風土)によって限界付けられた存在だと主張した。それは、一つには、日本という国家を、どこまでも日本列島とそこに育った文化によって限定された空間として捉え、アジア主義と決別して日本主義に哲学的基礎を与えるためであった。もう一つは、津田のような極端な事実歪曲を行なうことなく、日本人がいかに深くシナ文化を吸収したにしても、日本人はついに前述の如きシナ的性格を帯びるには至らなかった、という津田同様の結論に到達するためだった。文化における風土の規定性を言うことによって、如何に日本文化が中国文化やその他の外来文化の影響を受けようとも、その固有性を語ることができたのである。和辻は津田の古代史理解を批判したが、それは和辻が希代のコスモポリタンだったからではない。善き日本主義者たらんとすれば、外来文化の影響を正当に評価した上で日本主義を主張しなければならないのである。
こうして日本主義は完成したが、植民地帝国日本の現実とアジア主義のナショナリズムの根強さが、その定着を妨げた。アジア主義は、日露戦争後に膨張主義的帝国主義の代名詞に転換していき、それは国内社会の同権化を目的としていた。故に、アジア主義は大衆に浸透してその命脈を保った。これに対して、「建国当初の抱負」に対する自覚を持たせることに主眼を置く日本主義は、社会契約論にも似たエリート主義的思想で、大衆には受け入れられなかった。明治以降の日本は、名望家(市民)社会の建設に挫折し、社会の大衆化と権力の「一君」化が先行した、エリート主義があまり強固な基盤を持つことのできない社会だったのである。
アジア主義が日本主義と比較して強靭だったのには、もう一つの理由があった。第一次世界大戦後、アメリカ型消費文化が世界的に広がる中、日本社会のアイデンティティを保とうとすれば、アメリカ型消費文化に対抗可能な「物質文明」を構想する必要があったが、そのための想像力の源は、日本主義ではなくアジア主義に求めなければならなかった。何故ならば、日本主義は祖宗の時代の文化という、捉えようのないものを理想化する思想であり、アジア主義のように固有の物質的表象を持たなかったからである。日本主義者達は、日本社会に「公共性の観念」を確立することを最大の現実的関心とし、そのためには公共財の荘厳化を図る必要があったが、以上の理由で、国家が公共財の荘厳化を図るべく新たな伝統文化の「創造」を企図した時、日本主義ではなくアジア主義に依存せざるを得なかった。人々の内面に「公共性の観念」を喚起できない日本主義は、容易に戦前期日本社会には定着しなかったのでる。
だが日本主義は、第二次世界大戦後に定着した。その理由は、一つには敗戦により植民地帝国としての現実が失われたためであった。もう一つは、象徴天皇制の成立により天皇親政の原則と不執政の原則との矛盾が取り除かれたためであった。最後に、アメリカの核の傘に入ったことにより、国家水準での強固なアイデンティティ確立の必要性が取り除かれたためであった。敗戦は、日本社会に日本主義の受け入れられる素地を築いたのである。
故に、戦後歴史学は戦前期歴史学以上に日本社会の自明性を前提に形成され、単一民族説が一般化した。戦後歴史学の出発点が、嘗ての原の試みを敷き写すが如く、草深い東大寺領黒田荘に住む武士や民衆史として中世を叙述した石母田正の『中世的世界の形成』から始まったことは、その象徴であった。故に、戦後歴史学は、網野善彦らによって、その日本主義と農本主義とを激しく攻撃されているのである。
社会現象を大きく政治と経済に分けると、経済に「物語」(虚構された社会像)は必要ないが、政治にはそれは必要である。「物語」によって観念化され、一旦現実から遊離させられた社会を前提にしなければ、つまり、あるがままの社会を前提にしたのでは、政治は成り立たないのである。経済の基盤は人間の多様性そのもので、経済社会に立ち現れる諸個人は、全て個性的である。
一方政治の基礎は、人間の多様性そのものではなく、抽象・非個性化された平等な個人の集合体としての社会である。その証拠に、大抵の国において、各国民は平等に一票ずつ選挙権を持っている。政治は、例えば貧富の差の拡大といった、経済の齎す差異化作用に相抗して、社会の均質化を保持するための人間行為なのである。故に、政治には、多種多様で差別し差別される人間を、平等な人間として立ち上げる虚構が必要なのである。そしてその虚構を構想するために、社会を同等の個人の共同体として描く、ある種の「物語」が必要なのである。
しかし、本質的に多様性と差別性を帯びていて、故に社会的分業と文明が成立した人間社会を、同等の資格を持った個人の集合体として描くことは、容易ではない。古代以来、社会の紐帯として、西洋においては「愛」が、東洋においては「孝」が語られてきたが、社会がそれらによって満たされたことは一度もなかった。常に「性悪説」と「法家の思想」が社会を担保し続けてきた。戦後歴史学は、人間を本来的に共同体的な動物と見做し、本源的共同体を想定するところから歴史叙述を始めてきたが、それは、過去をともすれば近代の反対物として描こうとする近代人の錯覚に過ぎなかった。人間は、本来多様で公益なしには生存できない動物だった。
では、共同体の「物語」は如何にして作られたのかというと、それは共同体の歴史を語ることによってであった。その理由は、一つには、「体験」=過去の共有が、人間が相互に同胞として理解しあうための最も大きな手掛かりになるからだった。もう一つには、一君万民式に人々の平等を確保しようとすれば、「先王制作の道」であれ「祖霊」であれ、歴史の中に居場所のある何らかの絶対者を想定せねばならなかったからである。故に、社会を同胞社会として描く「物語」の中心には、どうしても歴史的な語りがなくてはならなかった。
こうした事態は近代になっても変わらなかった。近代になると、「先王制作の道」や「祖霊」を証明するための歴史ではなく、国民の歴史が描かれるようになるが、それも、主権者たる国民を絶対者の地位に置くためのものであった。故に、歴史をどう描くかは、いつの時代にも政治の最大の関心事だった。歴史学=歴史観の変遷(史学史)と政治の変遷(政治史)との間には、密接不可分の関係があるのである。
本書は、政治動向と歴史思潮の移り変わりとを相互に関連付けて近代日本を概観しており、大変示唆に富んだものである。一般に、戦前は神憑り的で非科学的な皇国史観が一世を風靡し、戦後歴史学は戦前期歴史学と一線を画して科学的な研究成果を積み重ねてきた、などと言われているが、事はそう単純ではない。皇国史観を生んだ日本主義は、実は戦後になって却って定着したのであり、戦後歴史学は日本主義に基づいたものであった。日本主義者の代表的存在である津田左右吉は、戦後になって反動化したとして戦後歴史学の主流からは大いに非難されたが、その研究内容自体が否定されたわけではなく、戦後歴史学は津田史学を実証的・科学的として高く評価し続けてきた。
その戦後歴史学が厳しく批判したのが、2年前(1999年)話題となった西尾幹二氏の『国民の歴史』で、私も評判になったので読んだことがあった。同書は一般では賛否両論といった感じだったが、歴史学界では概ね評判が悪く、戦前の皇国史観の焼き直しとの批判も少なからずあった。『国民の歴史』批判派に言わせると、西尾氏は科学的な研究に立脚した戦後歴史学の成果を無視している、ということになり、戦後歴史学と西尾氏とは対極に位置するかの如き感があった。
ところが、『国民の歴史』の内容は、実は津田左右吉の主張と大いに共鳴するところがあり、徹底した日本孤立論を主張している。確かに、『国民の歴史』は戦後歴史学の提示した歴史像とは、一見すると大いに異なるのかもしれないが、実は同根から生じたという側面が多分にあった。戦後歴史学の側からの厳しい批判にも関わらず、一般の間で『国民の歴史』がそれなりに高い評価を受けたのは、戦後歴史学への不信・不満があるからだ、との評価もあり、確かにその指摘にも妥当性はあろう。だが、より根本的な問題は、両者が同根から生じたものだということで、故に、戦後歴史学の側が『国民の歴史』を徹底的に批判することは困難なのではなかろうか。
戦前・戦中・戦後を通じて、津田の歴史観・思想は首尾一貫していた。ところが戦後歴史学は、津田が戦後になってマルクス主義の台頭に脅威を覚えて国体護持論を主張すると、津田は反動化したとして厳しく批判した。こうした事実の中に、戦後歴史学の重要な問題点と、『国民の歴史』が国民の間で一定の影響力を有した理由が見えてくるのではなかろうか。
私は中学生の頃、日本人単一民族説は寧ろ戦後になって常識となったのだ、と何かの本で読んで、疑問に思ったことがある。日本人単一民族説は、皇国史観が一世を風靡した戦前の方が明らかに受け入れられやすいように思えたからである。そうした疑問点も含めて、本書は近代日本の政治動向と歴史思潮の変遷を、その社会的背景と共に実に上手く説明しており、近代日本史学史についての議論に有益な提言をしているように思われる。