鈴木眞哉『謎とき日本合戦史』

 

 講談社より2001年に発行された。本書は、鈴木氏の一連の著作、つまり、『戦国合戦の虚実』(講談社1998年)・『刀と首取り』(平凡社2000年)・『鉄砲と日本人』(筑摩書房2000年)等々の集大成といった感じで、日本の戦史を見ていくことにより、日本に「白兵主義時代」があったという広く浸透した見解が批判されている。以下、先ず概略を、次いで雑感を述べていくが、先ずは用語の確認である。
 白兵とは、刀の付いた武器の総称で、刀兵・鋒兵・刀鋒兵の三種類となる。明治になってから日本で作られた用語である。刀兵は斬撃用で、刀剣がその代表である。鋒兵は刺突用で、鉾や槍がその代表である。刀鋒兵は斬撃と刺突の機能を兼ねたもので、日本には適切な例はないが、欧州にはハルベルト(矛槍)といったものがある。この白兵を用いて接近して戦うのが白兵戦(闘)で、白兵戦こそ戦闘の基本という考え方が白兵主義である。白兵に対する用語は火兵(火器)で、火薬の力を利用する武器の総称のことである。射撃こそ戦闘の基本という考え方は、火兵主義と呼ばれる。火兵登場以前にも弓や石など飛び道具は使用され、これを主武器とする戦い方を遠戦主義と云う。
 軍忠状とは、元来は、合戦に参加した者が後日恩賞を得るために自分の戦功を指揮官に申し立て、確認の判を受けた上で返却して貰うものだったが、後には主君の方から報告を求めるような形式が一般的となった。軍忠状は鎌倉時代末頃より始まり、南北朝時代に盛行し、戦国時代にもずっと続いている。名称は、太刀打注文・手負注文など様々だが、本書では「軍忠状」で統一されている。感状とは、主君や指揮官から戦功を立てた者にお褒めの言葉を記して与えるもので、中には負傷した状況に触れているものもある。

 

 1909年の『歩兵操典』の改正により、日本陸軍は火兵主義から白兵主義へと転換した。改正『歩兵操典』では、白兵戦は古来より日本人の得意なところだとされていた。明治以降の日本の戦史研究でも、開始・終了時期についての見解に相違があっても、日本に白兵主義の時代があったことを否定したものは殆どなく、事実、各種軍記によると、中世の日本では白兵戦闘が盛んだったように思われる。だが、軍記は、誇張した表現やある種の定型的な文句が頻出し、当時の戦闘の実像を窺う史料としては必ずしも信頼できない。では、実際の戦闘の様相はどのようなものだったのだろうか。以下は、この問題についての検証である。

 武士登場以前については、戦闘方法はよく分からず、遠戦主義だったと速断はできないが、白兵主義の痕跡を認めることもできない。次に武士登場以後についてだが、そもそも武士とは、弓馬の芸(馬上からの射芸)を生業とする芸能人であり、騎馬弓兵であった。10〜11世紀にかけての戦闘方法は、騎馬兵による弓矢を用いた遠戦が主体だった。この時代についても、刀剣が主武器だったとの見解もあるが、それは、後世になって二本差が武士の身分標識となったことと、弓矢よりも刀剣の方が多く残存していることとに由来した誤解である。弓矢が主武器という傾向は、所謂源平合戦の頃も変わらなかったが、戦闘が大規模化したので、その分騎馬兵の比率は小さくなった。
 南北朝時代となると、騎馬兵の比率が一層下がり、更に騎射も次第に衰退してくる。だが、弓矢は依然として主武器で、徒歩の弓兵が大きな役割を果たすようになる。これを証明するのが軍忠状である。軍忠状には負傷者の負傷原因や負傷部位まで記している例も少なくないから、当時の戦闘の様相を知る手掛かりとなる。1333〜1387年の軍忠状を検証すると、負傷理由の86.4%が弓矢によるものである。これに、石による負傷も加えると、負傷の9割近くが遠戦によるものとなる。戦死者の数は、負傷者597名に対して54名だから、仮に戦死要因を全て白兵によるものとしても、南北朝時代における遠戦の圧倒的優位を否定することは到底できない。実際には、戦死者は負傷して動けないところを討たれた場合が多いから、戦死者も遠戦で負傷した場合は多かったと思われる。

 この傾向は応仁の乱でも変わりはなく、相変わらず遠戦優位だったが、軍忠状と感状を検証すると、遠戦による負傷理由は72%と、南北朝時代よりも低下している(1467〜1637年の間)。鉄砲による負傷は全体の2割弱だが、鉄砲伝来以降に限定すると、約4割となり、その分弓矢や石による負傷が減ってくるから、鉄砲が主武器になっていことが窺える。また、鉄砲伝来前後で白兵による負傷と遠戦による負傷との比率に特に違いはなく、鉄砲伝来により白兵戦から遠戦へと傾向が変わったわけではない。
 南北朝時代と比較して戦国時代(江戸初期も含む)の方が遠戦による負傷理由が低下したのは、一つには槍が広く普及したためであったが、他には、首取が盛行したことが挙げられる。首を取るには接近しなければならず、このことが、一見すると白兵戦が盛んだったかのように錯覚させる一因となっている。この他に白兵戦が起きる場合は、伊勢長島の一向一揆を織田信長が鎮圧した事例のように追い詰められて止むを得ない時や遭遇戦など、特殊な状況だと言える。
 戦国時代の軍隊は、各領主または主人から給与を得ている者が自費で揃えた軍隊で、そのため損害を避けることが優先された。そのような条件では、無理押しして大損害を出しても作戦目的を遂行するといった行為を実施するのは難しく、遠戦優位となったのも無理はない。また、戦国時代後半、具体的には長篠の戦いの頃まで騎馬戦闘が主流だったという見解も誤りで、当時は下馬して戦うことが普通であり、長篠の戦いを境に騎馬から鉄砲へといった「戦術革命」があったわけではない。

 江戸時代になって泰平の世となると、白兵主義が浸透する基盤が次第に成立してきた。それは、一つには泰平の世となり実戦から遠ざかり、軍記などでしか戦闘の様相を知ることができなくなったためであり、もう一つには、日本刀が崇拝されるようになったからである。刀剣は、戦場に最も多く持っていかれる武器でありながら、有用性は低く、負傷理由でも刀剣によるものは少ないのだが、江戸時代後半になって剣術こそ武芸の代表格と認識されるようになつてきたのである。
 白兵主義が一気に盛んとなったのは、幕末になって列強の脅威が身近なものとして受け止められるようになってからだった。多くの有識者が、攘夷論と関連させて、日本人は白兵戦が得意で外国人は苦手だから、白兵戦に持ち込んで撃退してしまえ、と根拠もなく論じた。だが、幕末の白兵主義は列強の火力の前に敗れ去り、遠戦(火兵)主義が主流となった。そとて、列強と白兵戦を交える機会がなかったためか、列強の白兵志向に目を向けることはなかった。
 幕末当時の日本の軍事技術は列強と比較して大幅に遅れていたが、そこは後発組の強みで、試行錯誤することなく成果だけを得ることが可能だったので、最新式の武器を装備することもできた。その結果、幕末〜明治にかけて日本は本格的な火兵主義の時代に突入した。無論、戦国時代にも鉄砲の役割は大きかったが、それは火兵主義ではなく、遠戦志向が白兵志向より遥かに強いことを示すに留まっていた。幕末〜西南戦争までの間、数々の戦闘の勝敗を分けた大きな要因は火力の強弱だった。

 日本が白兵主義へと転換した契機となったのが、日露戦争だった。この時初めて、日本は列強の強烈な白兵志向と直接対峙することになる。日露戦争では、屡々日本側から銃剣(白兵)突撃が行なわれた。長い白兵主義の伝統があったロシアではなく、日本がそうしたのは、一つにはロシアが強固な陣地に拠っていたからだが、銃剣突撃がどの程度有効だったかは疑問で、日露戦争の負傷要因の大半は小銃によるものだった。
 だが、日露戦争の結果を見ても、列強は依然として銃剣突撃の有効なことを確信して白兵主義は捨てず、列強の軍事制度を模範とした日本陸軍の中で、白兵主義への比重が高まった。これには他にも理由が考えられ、一つは、経済力の劣る日本は装備を充分にできない(実際に日露戦争でも銃弾が不足してしまった)ので、銃剣突撃に頼らざるを得ないという点である。もう一つは、白兵主義の伝統の長いロシア軍の銃剣突撃に、屡々日本軍が為す術なく退却してしまったことに衝撃を受けた日本陸軍首脳部が、国民に何とか自信を持たせようとして、白兵戦重視を打ち出したという点で、更に日本陸軍は、古来より日本人は白兵戦を得意とし伝統としてきた、と吹聴した。
 こうして、日本には外来の白兵主義が定着したが、本場の列強では、第一次世界大戦の結果、もはや白兵主義が成り立たないと認識した。ところが日本は、直接欧州戦線の惨状を体験しなかったからなのか、それとも国力に余裕がなかったからなのか、依然として白兵主義を捨てなかった。白兵主義と必勝の信念により戦争を勝ち抜こうとした日本軍は、満州事変後は日本刀への執着を強め、日本刀と銃剣を用いて勝ち目のない突撃を頻繁に行ない、国内では、遂には民間人に竹槍を持たせて戦わせようとまでした。白兵主義と必勝の信念の行き着く先は、戦術思想の放棄だったのである。

 

 古来より、日本では戦闘は遠戦志向で、白兵主義の時代は近代までなく、その近代の白兵主義も、外来のものだったとの指摘は、随分と説得力があった。日露戦争後の日本軍の迷走からは、後発組だった近代日本の悲哀のようなものが読み取れるが、それを単に感傷主義に留めるのではなく、冷静に検証して教訓とすることこそ、現代の我々にとって必要なのだろう。

 

 

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