染田秀藤『インカ帝国の虚像と実像』
読後雑感は久しぶりの更新となる。この間も本はわりと読んでいたのだが、なかなか雑感を書く気力が湧かなかったのである。
さて『インカ帝国の虚像と実像』だが、1998年に講談社から講談社選書メチエの一冊として刊行された。帯には、ヨーロッパが創った虚像を暴く、とあり、表紙には、最新の史料により錯綜するイメージを解きほぐし、真のインカ像に迫る、とある。
従来の強大な帝国との印象を最新の史料により覆すとのことなのだが、インカ帝国には文字がないので、どんな史料を用いるのだろうと興味をもち、読んでみようとの気になったのである。ちなみに、アンデスの住民はインカ帝国をタワンティンスーユと呼んでいた。コヤスーユ・アンティスーユ・チンチャイスーユ・コンデスーユという四つの地方からなる世界という意味である。
まず、従来のインカ帝国像がどのような史料により築かれてきたかというと、それはクロニカである。15世紀後半〜17世紀半ばにかけて、アメリカ大陸と先住民インディオに直接関わったり関心をもったりした、探検者・征服者・植民者・植民地官吏・先住民のキリスト教化(精神的征服・魂の征服と呼ばれる)を使命とした宣教師などが、さまざまな立場から、アメリカ大陸についての視点を書き残した。それらの記録文書はスペイン語でクロニカと総称され、クロニカを著した人はクロニスタと呼ばれているのである。
直接目撃したということは、重視されたが必要条件だったわけではなく、間接的に得られた情報だけに依拠して書いた渡航経験のないクロニスタもいた。クロニカは、インディオから直接または間接に聴取・収集した雑多な情報(インディオの言説)が取捨選択されて編纂・翻訳された記録文書で、さまざまな立場からさまざまな対象が書かれていたのであり、その内容は千差万別であった。したがって、同じ出来事について述べたクロニカ同士でも、記述に大きな相違が生じることは珍しくなかった。
クロニカは大別すると、個人が自発的に書いたものと、王室・植民地当局・修道院などの要請や命令を受けて作成されたものの二つになる。それぞれの最初の例は、前者はクリストバル=コロンの『航海日誌』、後者はコロンの第二次航海(1493年秋に出航)に随行したカタルーニャ生まれの宣教師であるアウグスティヌス会隠修士ラモン=パネーがコロンの要請を受けて作成した『インディオ古来の信仰ならびに習俗に関する報告書』(1498年頃脱稿)である。
クロニスタたちの多くは、文字文化を絶対的な価値基準として異文化を解釈したため、いかに先住民の言語を習得して彼らから聞いた話をカスティーリャ語(後のスペイン語)にてそのまま翻訳して記述したと主張しても(たとえば、パネーなど)、そこに文字をもたなかった当時の先住民への偏見が大いに混在することは否定しがたく、そうした偏見がクロニカの読者によって増幅されていくこともけっして珍しくはなかった。またそうした記述は、植民地主義と密接に関連し、植民地支配を正当化する欧州の言説と不可分な関係を築いていくのである。
こうした理由のため、クロニカの記述は事実にそぐわないものや偏見に満ちたものとなることも珍しくはなかったが、インカ帝国に関する初期のクロニカの場合は、反対意見も根強かった南方(ペルー方面)への遠征を続行するためもあって、誇張された記述となる傾向があった。資源が豊富で文化的水準が高く、統治機構の発達した「南方の偉大な国」というわけである。偉大な国であればこそ征服する価値があるし、また征服した暁には名誉になるというものである。
また少なからぬクロニスタには、インカ帝国は連続した単一王朝と認識されていたが、それは多分にインカ帝国の一部の支配層の言説の受け売りであり、こうした認識も、強大なインカ帝国像の形成の一因だったといえる。もちろん、インカ帝国は抑圧・専制的で野蛮であり、先住民の文化水準も低かったとの言説が、征服事業の正当化を図るスペイン側から提示されてはいたが、さまざまな利害関係からスペインを批判する必要のあった他の欧州諸国には受容されなかった。
では、こうしたインカ帝国像はどこまで妥当だったのだろうか。従来のインカ帝国像が本格的に見直されるようになったのは、第二次大戦後のことである。それは、従来よく引用されてきた諸々のクロニカの厳密な史料批判と、従来はあまり着目されていなかった史料の読み直しと、人類学・考古学的成果によってなされてきたのである。「従来はあまり着目されていなかった史料」の一例は、インカ帝国に征服されたルカスナ地方(チンチャイスーユ)の王族の出自と称するフェリペ=ワマン=ポマ=デ=アヤラが、独学で習得したスペイン語で、スペイン国王フェリペ三世に宛てた、スペインによる征服の不当性と過酷な植民地支配への批判を述べた書簡である。その書簡にてワマンは、スペイン人クロニスタがアンデスの歴史をもっぱらインカによるアンデス支配から書き起こしたことに激しく異議を唱えた。
こうした再検討の結果、新たなインカ帝国像が提示されるようになった。単一王朝説への疑問が提示され、二つの系統の王が共同統治したとする双分王朝説が新たに提唱されたが、まだ決定的な証拠はなく、結論はでていない。また王位継承については、スペイン人クロニスタたちは世襲による嫡男相続と考えていたが、どうもそうではない可能性が高く、そもそも正妃・側室や嫡子・庶子の区別がなかったことが指摘されるようになった。つまり、インカ帝国には確たる王位継承制度がなかった可能性が高いのである。地方支配についても、専制的で強力なものではなく、地方の支配層に配慮し、彼らの要求を満たせなければ王位も危ういという、インカ帝国の王権の脆弱さをさまざまな資料は示唆している。
読み始める前は、どのような史料によって新たなインカ帝国像を提示するのかと思っていたが、実に正統的なやり方で、派手さはないものの、堅実でよい。あるいは地味に見えるのかもしれないが、こういう地道な作業を通じて、歴史学の発展があるのだろう。インカ帝国には文字がなかったので、根本的な史料の多くは、情報源たる先住民が直接に記したものではなく、スペイン人が聞き取り取捨選択して書き残したものということになり、この点が、「先住民」による文献史料の豊富な地域と比較して、研究を困難にしているように思える。したがって、慎重さがより要求されるなど苦労は多いのだろうが、その分だけ、成果が出た時の喜びも大きいのかもしれない。