原勝郎『日本中世史』

 

初めに
 ヤフー掲示板日本史カテの中世史の諸問題トピにて投稿したものをまとめるとともに、加筆修正した。私が所有しているのは東洋文庫版(平凡社1969年)で、引用する場合は同書より行なった。

 

『日本中世史』は1906年の発表だが、日本中世史という枠組みでの時代史としては初めての著作で、日本史学史において大変重要な位置を占めている。日本中世史という枠組み・概念は、この著作に始まるとさえ言えるかもしれない。

同書は、日本史に西欧的な歴史発展を見出し、それを時代史にまで高めたという点で画期的であり(ただし、未完に終わっている)、後の日本の歴史学界に多大な影響を及ぼしたが、本文中にはそのことは明示されておらず、平安時代の東国の様子が、タキトゥス『ゲルマニア』に描かれている「独逸人種の部落」に擬えられている箇所(P67)が、それを示唆するくらいである。しかし、そもそも中世史という枠組みは、西洋近代史学による時代区分の三区分法の一つなのであり、それを日本史に適用しているわけだから、題名がその重要な意図を示しているといえるだろう。

タキトゥスは『ゲルマニア』にて、新興のゲルマン民族の溌剌さを、爛熟し退廃しつつあるローマ帝国の風潮と対照させている。『日本中世史』にてローマ帝国に擬えられているのが平安時代の朝廷であるのは明らかで、高度文明が爛熟し退廃した朝廷(都)と、粗野だが健全な東国という対比、後者が日本の独立・健全化の原動力になる、という見解が『日本中世史』の重要な主題となっている。

 

 

執筆の動機
 執筆の動機は序に述べられている。まず、従来の日本史において、古代(原文では上代)の記述が詳細なのに対して中世以降のそれが簡略だと原は述べ、その一因は、中世には古代と違って六国史のような根本的に依拠すべき国家編纂の史書がなく、研究が困難な点にある、と指摘している。もう一つの要因は、原の日本史観を知るうえで大変重要だと思われるので、以下に引用する。

王朝に於いて致せる文物の発達は、武家時代に至りて一旦衰運に向ひたりと考ふるが為にして、換言すれば鎌倉時代より足利時代を経て徳川時代の初期に於ける文教復興に至るまでの歴史は、本邦史中に於ける暗黒時代にして多く言を費すを要せざるものなりと思惟するに因る。余竊かに考ふるに然らず。此の如き断定はこれ上代に於ける支那渡来の文物の価値を過大視せるより来れるものにして、其実当時に於ける輸入文明の文明は、決して充分に同化、利用せられたるものにあらず。(P6)

 

 このような理解のもと、原は続いて日本中世史についての基本認識を述べている。

鎌倉時代は之を平安時代に比して文学の或る方面に於て若干の遜色あるは争ふべからざる事実なるも、単に此一方面のみの退歩を以て国家社会一般の進歩を没すべきにあらず。即此時代が本邦文明の発達をして其健全なる発起点に帰著せしめたる点に於て、皮相的文明を打破して之をして摯実なる径路によらしめたる点に於て、日本人が独立の国民たるを自覚せる点に於て、本邦史上の一大進歩を現したる時代なることは疑ふべからざるの事実なりとす。而して足利氏中世以後の群雄割拠の時代に至りても、王室の陵夷、政綱弛廃、生民の疾苦、及び文学の衰微等よりして之を観察するときは、実に本邦史上無比の暗黒時代なりと雖、其此の如きに及べるは多くはこれ前時代に胚胎せる所のものゝ発現せる結果にして、必しも深く此時代をのみ咎むべきにはあらず、否吾人は却へりて日本国の、大体に於て此間に顕著なる発達を致せるを認め、徳川時代の太平も実に其余恵なることを信ぜむと欲するなり。(P6〜7)

 こうした基本認識を受けて、原は執筆動機を次のようにまとめている。

而して吾人が今此書に於て武家時代を闡明せむと力むる所以の者は、此比較的等閑に附せられたる時代の真相を究めて、以て従来の本邦史の缺欠を補はむと欲するの微志に出づるなり。(P7)

 原の基本的な認識はこの序にて概ね言い尽くされていて、以下本文にて具体的な事例が述べられ、上述の基本認識が論証されているので、その具体的な記述を見ていくことにする。

 

 

平安時代の評価
 上述したように、平安時代に続く武家時代は、其文物典章に於て、遠く前者に及ばざりしことは、固より明なり(P9)とされ、武家時代の始まりである鎌倉時代は、本邦文明の発達をして其健全なる発起点に帰著せしめた(P6)と評価されているが、これは原の日本史観のみならず、その基本的な価値観をも窺わせる記述となっている。

 原によると、古代日本の華麗なる文化・制度は中国由来のものだが、中国文化はその時点で2000年の歴史があったのに対して、日本文化はまだ根が浅かったため、中国渡来の文化・制度をじゅうぶん咀嚼できずに消化不良を起こし、その伝播範囲も極めて狭かった、ということになり、また、

抑も邦国の健全なる発達には、国民の平均智識の増長を必要とすること明にして、仮令一部の人民の進歩如何に秀絶なるも、また其発達の傾向如何に良好なるも、若し国民の多数の之に伴ふこと能はずして、遥に其後へに落ちむか、或はこれ学芸の進歩には裨補あることあらむも、一国社会の発達には却りて往々にして有害なることなきにあらず。(P14)

とのことだから、古代は華麗な文化を生み出したものの、一方で日本社会全体は不健全な状態に陥ってしまった、というわけである。都は桎梏的文明の為めに、漸く萎靡柔懦の浸潤を蒙(P16)り、

此の如き境遇に在りては、人生の意義なるものも、極めて浅薄なるものなれば、人々皆時に及びて歓を尽くし、欲を肆にせむとするに忙はしく、夜祭会飲の事は、屡禁断を加ふるも其効なくして、盛に酒饌を供し姦事酔乱、男女別なく上下序を失ひ、闘争は頻りにして、淫奔相追へり。(P17)

というような有様で、民衆は困窮していた。こうした社会の下で花開いた文化は、華麗なものとして高く評価されてきたが、原によると、それは必ずしも妥当ではないということになる。

 

次に平安文化への原の評価だが、これはかなり厳しいものがある。皮相的・局所的で、社会の健全な発達には有害だったとの認識からすると当然ともいえるが、以下に具体的な記述を引用する。

藤原氏極盛時代の文学の今日に現存して、我国古文辞の典型たるもの其少きにあらずと雖、源語といひ、将栄華といひ、必竟ずるに、宮廷の奢靡と、露骨なる情事との記述にあらざれば、多くは無意義なる年中行事の説明なるのみ。後日鎌倉より足利時代に亘りて、源語を崇拝し、強ひて之を神秘ならしめむとすること行はれ、従ひて彼の雲隠れの如き種々の付会説も構成せられたることあるも、源語著作の本来の目的の、果して諷刺に存せしや否やは、頗る疑似に属するものにして、吾人の見を以てすれば源語の企図するところは、寓意に在りといはむよりは、寧専ら写実に存するものゝ如く、景物を描写して凄腕の極致に達せるの点に於ては、前後之に比肩すべきもの少きも、人生の深義を剔出して之を明ならしむるは、これ紫式部の長ずるところにはあらざるなり。清少納言の枕草子の一篇、軽妙洒脱にして、寸言機微を穿つもの多きは、優に時流を抜けるものなりと雖、要するにこれ個の才慧に倣れる女性が、大に時代の外に超出するにもあらずして、然かも一種の側面観をなしたるに過ぎざるものなり。男性の文字も亦其特質に於て、女性と大差あることなく(P43〜44)

以下、当時の諸学問が四六駢儷体のためにゆがめられてしまったこと、日記には見るべきものがあるが、これも当時は自己の追憶というよりは年中行事の備忘録的性格が強く、公開を前提としていたため真意を吐露することの憚られたことが指摘されている。

 原の平安時代評価は、中国に由来する皮相的な文化が都を中心として局所的に栄えたが、その文化と担い手は質実剛健なところがなく堕落・腐敗したところが多分にあり、日本全体の社会の健全な発達には有害であった、というものであった。

 このような原の認識は、儀式や享楽にあけくれ、無為と退廃の中で行く手を見失った都の貴族(橋昌明『武士の成立 武士像の創出』P1)という戯画化された従来からの平安貴族像の延長にあり、受け入れられやすい素地があったが、また同時に、そのような概念を補強する役割も果たしていたのである。

 原のこうした認識については、現在では必ずしも妥当なものとはいえないかもしれないが、その後の日本の歴史学に与えた影響には大きいものがあった。それは、単に従来の通俗的観念に合致したものだったからというだけではなく、西洋史学の概念を日本史に適用した高度な歴史叙述となっていたことと、現在にも通用する鋭い見解の秘められた生命力の強い著作だったからでもあるだろう。

とくに『源氏物語』についての見解は、後世の過剰なまでに思い入れのある解釈について警鐘を鳴らしているともいえ、示唆にとんだ内容になっているように思われる。ただ、そのような思い入れを排した『源氏物語』の解釈と位置付けは、惰弱な平安貴族像の修正を迫るという意味で、原の当初の意図とは異なるものになるのかもしれない。

 

 

社会の一新
 平安時代の不健全な社会を一新したのは、東国における幕府の開設だったが、原によると、それが東国において起きたのは、以下のような理由のためだった。

 

 中国文明の皮相的な浸透により腐敗・堕落した都を含む近畿が社会一新の原動力にはなりえないということは、原の一連の見解からも容易に想像がつくが、西国も、都に近いためにその悪影響を蒙り、同様に社会一新の原動力にはなりえなかった、との評価になる。九州は、都から離れているということもあって別世界を形成し、中央の政局に深く関わることがなかったことと、中国にもっとも近いだけに、ある側面では都よりも中国文明の影響を受けること大だったため、やはり同様に社会一新の原動力にはなりえなかった、というわけである。

 東国は、これら他地域と比較して、中国文明の影響を受けること少なく、粗野ながらも健全さを保っていて、社会一新の原動力になりえた、ということになる。しかしながら、東国がその社会的使命を自覚して行動に移すには、単に粗野で健全であるだけではだめで、ある程度の教養の発達が必要となる。

 原は、東国に教養の発達をもたらしたものとして、宿衛のために上京した武人・相撲人や、都から東下してきた官人・僧侶が挙げているが、それだけではなく乳母による家庭教育も挙げており、これが重視されている。当時、貴族層にも乳母による家庭教育はあったが、それは主に知識・教養の伝達に留まったのに対して、東国武人の間では、武芸も含めて全人格的な教育が行なわれ、都からの諸々の刺激と合わせて、武士道が形成されるに至った、というわけである。この武士道は、忠義と滅私奉公を根本とし、日本における道徳の発達に大いに効果があったと高く評価されている。

 

 しかしながら、この鎌倉幕府の開設も、当初から朝廷(都)に取って代わろうという目的があったわけではなく、東国武士の本願は朝廷の束縛から逃れることにあり、故に、東国武士に強く支えられた鎌倉幕府の長である源頼朝は容易に都に接近することができず、そのために平氏の二の舞を演じずにすんだが、兵権を握った以上、次第に幕府に政治の実権が移っていったのは自然の理だ、と原は指摘している。

 原によると、平氏は前九年・後三年の役のような郎等と艱難辛苦を共にする軍事行動を経験していなかったため、源氏と比較して郎等との関係が緊密ではなく、故に、保元・平治の乱を経て実権を握ると、郎等から遊離して藤原氏の模倣をするに至り、それが没落の要因になったわけである。

 

 ここまでが『日本中世史』巻一の内容で、この後の展望は、未完に終わった続編(未定稿本)にて述べられている。

次第に朝廷の実権を奪っていた幕府に対する朝廷の反撃が承久の乱だったわけだが、原によると、その要因は朝廷側だけではなく幕府内部の対立にもあり、その対立とは新旧主義の衝突ということになる。旧主義とは鎌倉時代当初の、都の文化に接しつつもその腐敗に感染しておらず、自由と名誉を重んじた粗野な武士気質のことである。しかしながら、幕府開設以降、次第に都の文化が東国にも浸透し、幕府の長たる将軍もその風に染まるようになり、ここに旧主義の武士団との対立が生じ、彼ら旧主義武士団の不満に乗じて幕府の実権を握ったのが北条氏だった。

 承久の乱により、政治の実権はほとんど幕府に移るが、以後も天皇が国家元首であることに変わりはなく、天皇にして其大権を実行し得る如く朝廷を作り、此機関を動かすことを得ば、幕府なるものは何時にても消滅に属すべきものたるの原理は、争ふべからず(P182)だったわけである。

 

 

背景
 ここまで、未完に終わった続編も含めて、原勝郎『日本中世史』について述べてきたが、ここで拙いながらも私なりに原の見解をまとめると、以下のようになる。

 古代日本は中国文明を輸入し、律令国家体制と、一見すると華麗な文化を築いたが、中国文明の影響は皮相・局所的であり、社会全体の健全な発達には有害であった。都の貴族層は腐敗・堕落して実務能力を喪失し、その文化も堕落して見るべきものは少なかった。このような不健全な古代社会を一新した鎌倉幕府の基盤は、他地域と比較して中国文明の影響が小さく、粗野でありながら健全さを保持していた東国社会にあった。このような日本史の流れは、ローマ帝国の腐敗・崩壊と野蛮視されていたゲルマンなどの粗野な民族との勃興という、西洋史の古代から中世への展開に擬えられる。

 

このように、日本史に西洋史と類似した歴史展開を見出したのは何も原の独創ではなく、ほぼ同時代の19世紀末〜20世紀初頭に同様の見解を提示した研究者は、内田銀蔵・福田徳三・中田薫・三浦周行など、他にも複数いる。このなかで、原に大きな影響を与えたと推測されるものとしては、内田銀蔵『日本近世史』(1903年)が挙げられ、これも日本史学史において大変重要な位置を占めている。

内田と原は東京帝国大学の同期生で、その頃より交流があっただろうから、相互に見解を披瀝し、議論することもあったのだろう。両者は後に、開設したばかりの京都帝国大学史学科の教授(内田は国史、原は西洋史)となったが、共に在職中に若くして亡くなった。因みに、『日本近世史』も未完に終わっている。

こうした見解がほぼ同時期に発表されたのは、日清・日露戦争の勝利や産業の発展や憲法発布など、日本がアジアで唯一近代化に成功し列強入りしつつあるという時代背景があったのだろうと推測されるが、原が東国に日本の健全な発展の原動力を見出したのは、原の経歴とも関係がありそうだ。

原は、戊辰戦争で敗者となった旧南部藩士の長男として1871年に盛岡に生まれ、盛岡中学→一高→東大→一高教授→英米仏三国への留学(1906年)→京大教授という経歴をたどったから、人生の大半は東国で過ごしたことになり、東国への高い評価と京都への低評価の一因をここに求めるのはそうも不当な推測ではなかろう。原の京都への低評価は、京都に移住してからも変わらなかったようで、京都を嫌い、その土地と人とを罵倒し続けたが、京大と同僚には愛着をもっていたそうである。

 

 日本史に西洋史と類似した歴史展開を見出す(共に封建制度を経験)という見解は、多くの批判を受けつつも、現在でも広く浸透した見解となっており、19世紀末〜20世紀初頭における原や内田らのこうした見解を日本中世史の古典学説と呼ぶ石井進氏は、戦後歴史学に多大な影響を与え、明治以来の日本中世史学の最高傑作と評価する、石母田正『中世的世界の形成』において、古典学説の最良の部分が再発見・継承された、と述べている(「中世社会論」)。

原のこうした見解の影響は、日本史だけではなく、たとえば東洋史においても、宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』(1940年発表)に見られるように、少なからずあったように思われる。原の晩年に京大の学生生活を送り、講義を聴講した宮崎氏は、卒論執筆の頃より、素朴主義の民族と文明主義の社会という構図に関心があったそうだ。

 

 また、中国からの影響の軽視は、ナショナリズムの高揚と日清戦争の結果に見られる中国の没落という時代の流れを背景にしたものといえそうで、堕落・腐敗し没落しつつある貴族と、新たな時代の担い手として勃興しつつある東国武士とを、対照的な存在として描くという従来の通俗的歴史観念を高度な学問水準にまで高めたという点でも、原の功績・影響力は現在でも大きいといえるだろう。

もちろん、原の認識に様々な問題点があることも確かで、たとえば中国文明・文化の日本への影響は、古代よりもむしろ中世以降のほうが強いだろうし、惰弱で実務能力を喪失した平安貴族像というのも、現在では基本的には否定されている。

しかしながら、そのような欠点を補ってあまりある生命力を同書がもっているのも確かで、歴史観・人生観を形成するうえで参考になる記述が散見される(たとえば、P159の偽善についての見解)。およそ古典とはそのようなもので、現在の学問水準からは多くの誤りが認められるとしても、なおも読み継がれていく魅力のある、示唆にとんだものを多く含む生命力の強い書物なのだと思う。その意味で、『日本中世史』は、単に日本史学史上に重要な位置を占めている書物というだけではなく、立派な古典でもある、ということになろう

 

 

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