地下壕掘削の経緯を説明する日高さん
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2007年6月10日 雨のち曇 高尾山近くにある「浅川地下壕の見学ツアー」に参加しました。 雨の中を40人弱の方々が参加されました。 ご案内は「浅川地下壕の保存をすすめる会」事務局長・日高忠臣さん。 【地下壕掘削の経緯】 アジア・太平洋戦争末期、1944年7月にサイパン島の日本守備隊が全滅。これを機に米軍B29が日本本土への空襲が可能になり、日本の軍司令部は本土決戦を決定し日本全国に地下壕を掘り軍事施設を隠す計画を立てました。 浅川地下壕もこの計画のひとつとされました。イ地区、ロ地区、ハ地区のうちのイ地区は優れた掘削技術により昼夜3交代の突貫工事で進められ、わずか6ヶ月で幅4m高さ3m、総延長42kmを完成させました。 |
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地下壕の構造を説明する日高さん .
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【イ地区が地下工場に】 一方、1944年11月からB29による本土空襲が本格化され、11月24には武蔵野市にあった中島飛行機製作所が大規模な空襲を受け、このエンジン工場の疎開先として浅川地下壕が選ばれ6月から生産開始されましたが敗戦まで2ヶ月で10台のエンジン生産ににとどまりました。 【見学の感想】 日高さんの丁寧なご説明で良く分かりましたが、実際に壕に入って驚いたのはこの山全体が岩で出来ているのでした。そのため、この掘削は全てダイナマイトの爆破で作られ、しかも正確な設計図どおりに碁盤の目のように作れれている事に驚きました。ただし、現在の持ち主の関係で碁盤の目状態のところまでは見学できず、入口から195mのところで引き返さねばならないことが残念でした。 尚、中には照明の設備はなく、懐中電灯持参、軍手をして、貸与されたヘルメットをかぶっての見学でした。 また、 今は東京大学地震研究所がこの壕の中に地震計を設置していることから「地下壕の見学は月一回と決められています。
<余禄> 中島飛行機製作所はご存知、日本陸軍の名機「隼」を生んだ会社で、航空機エンジン工場としては日本最大規模、戦時中は全航空機エンジンの27%を生産していました。零戦のエンジンもこの会社の「栄1号」です。戦後は富士精密と富士重工に分社され、富士精密はプリンス自動車になり、その後日産自動車に合併吸収されました、富士重工は今では「スバル」ブランドの自動車会社に生まれ変わりました。 「隼」は糸川英夫氏が若い頃設計したもので、戦後、氏は日本初のロケットであるペンシルロケットを開発し、その後の固体ロケットは富士精密⇒プリンス自動車⇒日産自動車に引き継がれました。その後日産はゴーン社長の改革で航空宇宙部門を石川島播磨重工業に売却してしまい、IHI エアロスペースという会社になりました。 |
今回の見学で驚いたことは @山全体が岩で出来ていること A掘削したトンネルが正確であったこと であった。