当時の映画は時々フィルムが切れたり、発火したりハプニングが多かった。夏は冷房もなく大きな扇風機一台が後からぶんぶん音を立てて風を起こす。後部座席では騒音で映画の台詞が良く聞こえないくらいだった。
こういう環境でも映画は心を育んでくれるよい学校でもあった。その映画に「二十四の瞳」があった。主人公の大石先生が結婚して島を出て行く場面の撮影に相模湖が使われたと聞きこの映画への関心が一層深まった。又このドラマが将に我々八王子市立第八小学校の小宮分教場で学んだときと状況がよく似ておりこの映画が自分達のドラマのように感じた。そのときの生徒数が二十四人だったので、私が成人してから「四十八の瞳の会」を創設した。私達の大石先生(古世古和子先生)はその後童話作家になられて「私達のこと」をその作品に残された。
その当時、野外映画会というのがあって野外に白いスクリーンの布を張って夕方暗くなってから上映するというものだったがテレビもない時代には大きな娯楽であった。進駐軍が来てからアメリカ映画が上映され恋愛ものではキッス場面は付物だ。近くのおばさんが「アメちゃんはすぐに接吻していやらしいね」などというのを聞いて、自分はそう思わなかったので「少し進んでいるなあ」となんとなく優越感を感じたものだった。
その後、天然色(カラー)映画が出来たが、しけた国産映画はパートカラーという全体が白黒で肝心な場面だけカラーになるというものが多かった。アメリカさんのものは総天然色で感激した。大学生になった頃、スザンヌ・プレシェットとトロイ・ドナヒュー演じる映画「避暑地の出来事」がビクター・ヤングの名演奏と共に青春真っ只中の私の心を「美しい青春の世界」に引き込んだ。
一九六〇年代は映画全盛で美しい映画音楽と共に「切ない恋のドラマ」が観客を魅了した。映画音楽を中心に思い出すと、エデンの東、慕情、旅情、鉄道員、日曜はダメよ、シェーン、荒野の七人、野生のエルザ、ロミオとジュリエット、ウエストサイド・ストーリー、太陽がいっぱい、とどれも音楽がドラマ以上に印象的だった。
テレビが普及するに従い映画は下火となり急速に良い映画が上映されなくなった。それが最近になって又映画の人気が高まってきた。それは、テレビでは味わえない大画面と音響効果による迫力だ。映画は昔十六ミリフィルムから三十五ミリ、七〇ミリへと倍々ゲームで大型化しサウンドトラックも一本から、二本、七本とステレオ臨場感を増す技術が急速に進み、ドルビー・ステレオなる大発明も手伝い劇場でなければ味わえないような迫力を満喫できる。その効果を十分に活用したものが、所謂スペクタクルものだ。ベンハー、天地創造、ドクトル・ジバゴ、タイタニック、蒼き狼、など思い出される。
日本映画といえば黒沢明監督作品だが、最近は日本映画でよいものが多く出るようになった。北野タケシ監督初め若手監督が活躍して心に残る映画も多い。シャル・ウィ・ダンス、父と生きて、三丁目の夕日、バルトの楽園、博士の愛した数式、佐賀のがばいばあちゃん、知覧特攻隊、などがある。
私の一番好きな映画は「サウンドオブミュージック」だ。この時代はミュージカルものも多く上映された。メリーポピンス、王様と私、ウエストサイド・ストーリー、
ロミオとジュリエット、などいまでも音楽が快い。
ジュリー・アンドリュースの丘の上での美声で始まるこの映画は史上最高のロングランで、その舞台となったオーストリア・ザルツブルクでは今でも「「サウンドオブミュージック・ツアー」なるものが観光客の人気を保っているくらいなのだ。私も数年前にこのツアーに参加したが、この映画の名場面を撮影した場所にバスで次々と連れて行ってくれる。私はこの映画のビデオを家で二度もしっかり鑑賞をしてその映像を脳裏に叩き込んでからツアーに参加した。
ザルツブルクの中心街でツアーバスに乗ると好青年のガイドさんが英語で案内してくれた。最初は疑問を持たなかったがここはドイツ語圏なのだ。しかも、この映画の舞台はザルツブルクだが、製作はアメリカ・ハリウッドなのでドラマは全て英語で話されていることを思い出した。この青年は美声でまず「ドレミの歌」を歌い、観光客に一緒に歌うことを手招きで示した。すると全員が歌いだした。そうだ、この映画は英語なので、説明も歌も全て英語でしてくれたのだ。お陰で説明内容の七〜八割方は理解できて、深く思い出に残る旅となった。
マリア先生が子供たちを連れて歌う場面のレジデンス広場、ミラベルガーデン、エーデルワイスを家族で歌ったホール、ナチスに追われ隠れた墓地、トラップ大佐の邸宅、リースルが雨の日に彼と踊るガラスの東屋、子供達と木登りした並木道、そしてマリア先生が結婚した教会、と懐かしい場所に誘ってくれた。このツアーにより一層「私の好きな映画ナンバーワン」にランクされた。