紐緒 結奈 |
私がはじめてひとりでゲーセンへ行ったのは小学2年のときであった。 当時の新作ゲームはパックランド。そんな時代であった。 また、当時は現在と違い1台の作品の稼動期間が非常に長かった。 長いものでは10年くらい稼動していたような気がする。(ポールポジションUとか) 中学3年のときにはあの”ストU”がリリースされる。 高校生になるとバリバリの格闘ゲーマーとなり、そこそこの勝率を残していた。(激強というほどではなかったが) 平行して、高校時代の私は舞佳さんもビックリというくらいのバイト人間でもあった。 現に、高校3年のときなんて所得税取られてるし。(雇用がパートタイマー扱いだった) そして、大学へ入学。 しかし、そこに待ち受けていたのが学業とバイトの両立が出来ないという壁であった。 1月平均120時間以上バイトに時間を取られていたため、 勉強に時間を当てることが当時の未熟な自分(いまでも未熟ですが)には出来なかったのだ。 留年のピンチに立たされた私はやむなくバイトをやめることを決意。 結果的には”あと1単位落としていたら留年”という土壇場のところで留年をまぬがれた。 このような背景があり、大学1年のころは格闘ゲームをあまりやっていなかった。 もちろん全くやっていないということではなかったが、プレイ頻度がかなり低下していた。 そして、バイトをやめたことにより、一気に単位を稼ぐことが出来た。 もっとも成績は決して良いとはいえず、はっきりいって悪かったが・・。 そして、余った時間で格闘ゲームを・・・。 ところが、ゲームシステムやつまらない対戦者(要するに待ち)が多くなっていると感じた。 自分の全盛期の頃はそういったプレーヤーを実力で打ち破ることが出来ていたのだが、 そういったこともその頃には出来なくなっていった。 自分がプレイできるゲームはレトロゲームくらいしかその頃の自分にはなかった。 そんな折、大学の同じクラスの友人からふとした拍子に”ときめき”を借りた。 はじめこそ、すこしずつプレイする程度だった。 しかし、そんな状況を一気に打破するきっかけとなったのが、 他ならぬ紐緒 結奈嬢であった。 しかし、この頃はまだプレステ版のときめきをたてつづけにプレイする程度であった。 しかし、私がレトロゲームをやるためによく行っていたゲーセンで (要するにトライタワー(以下タワー)のことです)、とあるロケテストを目撃する。 そのゲームがあの”おしえてユアハート”(以下、おしユア)であった。 この頃の私は既にゲーメストを購入しなくなっていたのだが、 このゲームが気になって、おしユアの記事が載っているナンバーのみ購入。 そして、1997年5月(だったっけ?記憶が確かじゃないです)に、おしユアが登場。 最初のうちは攻略がわからず、ただ適当にやるだけで、周辺ギャラリーのうわさなどを情報として攻略していた。 ところが、そうしているうちにおしユアの常連メンバーがいることに気がつく。 というのもそれ以前はタワーには平日しか行かず、行く時間も昼間のみであったこと。 また、当時は景品ものがあまり好きでなかったため、ゲーセンの1Fを通過していたのだ。 最初のうちは、挨拶程度であったが、時期を追うごとに、おしユア攻略の話が活性化していった。 さらにこのメンバーたちとする話はそれだけにとどまらなかった。 コンシュマーのときめきの攻略やときめきに対するみんなそれぞれの考え方、などなど。 こう表現すると何でもないようだが、その話の時間の長さが半端じゃなかった。 そして、このときめきの土壌が思いもよらないくらい、多岐にわたる派生をしてしまうのである。 以下はその代表レイ。 1997年8月。 この頃になるとなつコミの話が出てきた。 私はビックサイトと同じ江東区に在住していながら、当時コミケの存在を知らなかった。 1997年8月15日。はじめてなつコミに足を運ぶ。 これが私の同人のはじまりである。 この会のなつコミは、友人と一緒について見てまわるくらいしか出来なかった。 その後、一般参加をメインとしつつ、トータルで4度のサークル参加。 これに関しては、多くを語る必要はないだろう。 ひとつだけいえば、幾多のイベント参加をこなし、現在では 自分独自のサークルのまわりかたを身につけている。 また、お世話になっているサークルさんも多数あります。 私の同人の形態を大まかに説明すると、 「件数は少ないが、交流あるところは交流が深い」といえるでしょう。 1998年はじめ〜なかば。 この頃、格闘ゲームをすっかりやらなくなっていた私は、 カプコンがポリゴン格闘ゲームを発表することすら知らなかった。 ひとりの友人がやっていて、見てて面白かったのは”私立ジャスティス学園”。 もうこれは”隠れアキラの2プラトン”につきるでしょう。 私は元ネタとなっているエ○ンゲリオン(笑)のシーンは知らないのですが、でも面白かった。 それ見たさにわりとこのゲームやりました。 1998年5月 友人に誘われ中友子様が出演している 劇団S.W.A.Tのお芝居”幕末ジャイアンツ”を観劇に行った。 本物の中様を目の当たりにしてパニックに近い状態だったことをおぼえています。 いまでは、中様以外の劇団の方数名にも顔をおぼえていただいていていると同時に、 中様には楓嬢の顔もおぼえていただいています。 それ以降は劇団S.W.A.Tのお芝居は全て見ているので、これも影響は大きいですね。 1998年の秋頃。 ときめきと同じ会社でもある(いわなくてもわかってるわい) コナミのコミカル音ゲー”ポップンミュージック”(以下ポップン)が発表される。 ビートマニアは一般世間をも騒がせたのでさすがに知っていましたが、 ポップンのことは知りませんでした。 ビートマニアそのものには興味なかったので、情報を仕入れようとしなかったんですね。 ところが、その年の終わり頃、とある友人がポップンミュージックをやっていた。 そして流れていた曲があの”TATAKAE GAMBLER Z”であった。 あれは衝撃的でした。あまりの面白さに、 ”ゲーセンを飛び出して、駐車場のフェンスにしがみついて大爆笑してました”。 (ホント) その後、自前という技を引っさげ、各方面に存在を認知していただいている。 2000年のなつコミであちゃこさんとの合作で自前本を出してもいる。 また、マラソンポップンという技も身につけ、これは私自身の体力強化にすこしだけ役立っている。 さらに現在では片手プレイヤーとしてもそこそこやっている。 ちなみに、ここだけの話ですが、自前には後継者候補がひとりいます。(ホント) まぁ、細かく説明すれば枚挙に暇がなくなってしまいますが。 1999年6月6日(とりあえず晴れ) 最も影響が大きいのは実はコレかもしれない。 ただし、この日から何が変わったのかということはここではかけませんが。 21世紀になって。 クイズマジックアカデミー、アイドルマスター、麻雀格闘倶楽部・・・etc 紐緒さんがいなくてもプレイ自体はしていたことでしょう。 しかし、1プレイヤーとしてオリジナルのポリシーを持っているのは、紐緒さんの影響に他ならない。 (どういう影響かはそれぞれのページで述べていくことにします) 最後に改めまして、紐緒結奈様。 いつもありがとう。貴女は私の精神的支えとなっているだけでなく、 私の活動の中心でもあります。 また、現在の多岐にわたる人脈もすべてあなたに出会ったことによる結果です。 これまで本当にありがとうございました。 これからも引き続きよろしくお願いします。 |
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そうね、かえりましょ。 それじゃ、そろそろかえるわよ。 さぁ、かえるわよ。 |