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第0章 まえがき

 今から思うと、あのスイスの山旅は夢のような出来事だった。あれは楽しく、面白く、そして今までの自分の登山にとって最高の一瞬だった。

 時は今を去ること5年前、元号が昭和から平成に変わって半年。日本は空前の好景気、バブル経済がまさしくその絶頂期を迎えようとするそんな時代だった。

第1章 出発まで

◎マッターホルンへのあこがれ。

マッターホルン

 僕が最初にマッターホルンに登りたいと思ったのは、もう随分と昔の話で山登りを始める前の事だった。チョコレートかなんかの包み紙にあったのを見て、行ってみたいな、登ってみたいなと思ったのが、最初かもしれない。

 そんなわけだから、山登りを始めた当初は、いつかはマッターホルンと思っていたように思う。

 またその頃、僕は深田久弥氏の文章にも魅かれていて、深田百名山の完登もまた目標であったから、マッターホルンと深田百名山を全部登ったら、もう山登りをやめてもいいとさえ思っていた。

 が、いつしか僕の山登りは、歩くことが中心の山登りばかりになり、マッターホルンへの道は遠くなっていった。

 学生時代に、ヨーロッパを旅する機会があり、その時に真っ先に行ったのは、もちろんツェルマットであった。僕はそこで毎日ハイキングざんまいをしながら、マッターホルンを眺めていた。その時も頂上に登りたかったが、そんな技術もあるわけもなく、またいつかはと思ってツェルマットを離れていったものである。

 それ以後も細々と山登りを続けていたが、岩登りなどをするわけでもなく、相変わらずマッターホルンは夢の彼方の世界だった。

 そんなときに入ったのが、会社の山岳部であり、ずっと単独で歩いていた僕はそこでいろいろと教えてもらった。そして入部して2年目、その年の夏合宿に、マッターホルンへ行こうと言う話が持ち上がったのである。

◎チャンスがやって来た!

 まだ自分には、マッターホルンなどスイスの山に登る実力はない。また次回と言うことにしようかとも思った。が、チャンスは滅多にやってくるものではない。この機会を逃すと今度いつ行けるかわからない。

 清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、一大決心をして、マッターホルン合宿に参加することにしたのであった。

◎メンバー

山行メンバー
 メンバーは、総勢7人、「7人の侍」とは誰も呼ばないが、山登りにかけては、一癖も二癖もある連中である。

 今回のツアーの言いだしっぺかつ推進役、チーフリーダーのKさん(当時35才)、サブリーダーのHさん(当時35才)、食料・撮影担当がYさん(当時42才)。

 会計担当がMさん(当時34才)、そして監督がOさん(当時46才)、とO夫人。

 最後は僕。一応役割は通訳という事になっているが、これは学生時代、人の倍は英語、独語の授業を受けた実績をかわれたものであろう。

◎トレーニング

 スイスに行くにはまずパスポート取得。そして東京へ行き、旅行会社を回って、飛行機の交渉。その合間には、もちろん山でトレーニングだ。

 まずゴールデンウイークには北鎌尾根に行った。その年は例年になく残雪の多い年で、北鎌尾根は取り付きからずっと雪。「独標と槍の穂先しか難しいとこないで」と経験者に言われた事とは裏腹に、ずっとアンザイレンせねばならず、苦労させられた。しかし、この時の経験が、スイスに行くときに大いに役に立った。

 6月には、高所訓練という事で、富士山に登った。実際には1日富士山に登ったくらいで、高所訓練になるわけがなく、高いところでも大丈夫と、安心しにいったようなものだ。

 6月と言うのに雪が多く、6合目から上は真っ白だったが、登るとき誰もサングラスをかけなかったので、全員が雪盲になってしまうと言う情けない事態になってしまった。帰りの車では運転出来る者が誰もいず、大騒ぎだった。おかげで、スイスでは皆、サングラスを手放さなかった。

 その合間には御岩山で、岩登りの練習だ。僕は、技術的に最初からガイド登山に決めていたので、もっぱらコンティニュアスで、スピーディに登ることを練習した。

◎休暇

 サラリーマンが、海外の山に行こうとすると、まず問題になるのは休暇である。ヒマラヤ遠征のように、何か月も休むわけではないが、その当時は、たった10日あまりとは言え、連続休暇を取るのはかなり遠慮がいった。当時は趣味のために長く休むのは一般的ではなかったように思う。

 今は結構気軽に長期休みが取れるようになって来たのを思うと昔日の感がある。

 自分の場合は、職場が変わったばかりで、逼迫した仕事もなくわりと楽に休みを取れたのが、幸いだった。

◎出発準備

 結局、旅行会社は山岳ツアーを専門にやっているE社に頼み、飛行機のチケットや宿の手配、ガイドの手配を頼んだ。旅行会社に頼んだと言っても、添乗員がついてくれるわけでもなく、宿は現地に到着した最初の1泊だけで、後はフォローなしの完全にフリーな旅だった。

 皆のスケジュール、飛行機の予定など調整して、結局日程は、7月13日出発、7月24日帰国という12日間の計画になった。

 旅の目的は、もちろんマッターホルン。

 出来ればその他にもいくつかの山を登りたい。もし天気が悪かったりすると、帰国する日までツェルマットで粘り、マッターホルン登頂のチャンスを狙おうと言う、マッターホルン計画だった。

◎そして成田へ

 1989年7月13日、タクシーに乗り自宅を出発。鹿島からメンバーを次々に拾っていって、成田へ。久しぶりに胸が高なるのを感じる。いよいよマッターホルン遠征隊の出発である。

 これから12日間、何がおこるのかわからないが、とにかく旅は始まったのである。


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