自分って、結構豪胆だと思っていたのに、 目の前のその人が畳の上から静かに立ち上がっただけで、 ドキンと心臓が跳ね上がってしまった。 「お茶を、入れてくる」 そうしてそれだけ言って、部屋から出て行く、 滅多にお目には掛かれない普段着姿のほっそりとした後ろ姿を見送った。 「あッ!!お構いなく、直ぐに帰りますから!!」 我に帰って慌てて叫んだ時には、その姿は閉じた襖の向こうに消えていた。 動揺の余り、公の場での会話の時みたいな敬語使いになってしまったのに気付く。 バツの悪い顔で振り返れば、和室に敷かれた布団の中から、 同僚が苦笑交じりにアタシを見上げていた。 「・・・・・や〜何かゴメンねぇ?」 居た堪れずに、アタシはとりあえずの言葉を口にした。 「何ですみれさんが謝んの?」 「だって〜何かさ〜やっぱり来るべきじゃなかったって言うか・・・・・」 襖の外の廊下の気配を伺いつつ、アタシはしどろもどろの言葉を呟くばかり。 「そんな事ないよ。 書類、持って来てくれて助かった。 どうしても今度の出勤時には完成させてなきゃならない書類だったから」 「あ〜ん〜まぁね、そう言ってくれるとホッとするんだけど・・・・・」 「ホントだよ、ありがとう」 そう言った後、同僚はケホッと一つ咳をした。 同僚は、日頃の無理が祟って風邪を悪化させたのだった。 余りの高熱に、「どうせ署に居たって使い物にならないのなら 君なんて粗大ゴミだよ、ゴミッ!!」と、「帰らない」「大丈夫」を繰り返す部下に、 心配している心の内を隠し、罵詈雑言の挙句に早退させたのは万年課長。 しょんぼり帰って行く後ろ姿を皆で心配しつつ見送ったのは一昨日の事。 で、今朝ほど署に電話があって、その電話での依頼のブツを片手に、 同僚ご指名のアタシが署の皆からのお見舞いのメロンと花をもう片方に持って、 (お見舞いの定番っつったらコレよね?)、 以前にお邪魔した事のあるアパートではなく、新しく引っ越したという部屋へ、 住所を書いたメモを片手に来てみれば、其処はアパートなんぞではなく、 周りの洋風の建物の中、一際目立つ純和風の一軒家で、 「って事は・・・・・何人かで共同で暮らしてるとか??」なんて驚きはしたものの、 同僚ならそういうの似合いそうと暢気に玄関を潜ったのだけれど。 ビックリした!! だって、だって、だって!! 出て来たのがあの人だったんだもの!! あんまり驚いたもんだから、玄関先での遣り取りなんて憶えちゃいない。 訳も分からない内に同僚の自室とやらに案内されて、今に至っているわけよ。 「大丈夫?」 一つ目の咳のその後、立て続けに続いた咳に心配になる。 苦しそうに咳き込む同僚は、こんな時まで他人に気を使う人で、 アタシにうつすまいと背を向けていて、少しでも楽にならないかと、 懸命にその背を撫で擦ってあげた。 「・・・・・も大丈夫」 どうにか咳が収まってアタシを見上げてきた涙目の同僚は、 普段が元気いっぱいなだけに痛々しさが増して見える。 赤い目も頬も、まだ熱が下がりきっていない事を知らせていて、 積もり積もったオーバーワークが快方の妨げになっているのが容易に窺えた。 と、カラリと襖が開かれた。 ハッとして振り向けば、あの人が心配そうに敷居の向こうから顔を覗かせた。 「大丈夫か?」 「ん、大丈夫」 「そっか・・・もう直ぐお湯が沸くから、お茶、持って来る」 ホッとした顔で同僚を見ていると思ったら、後の方はアタシに向かって言ったらしい。 目が合ってしまった。 「あ、すみません」 慌ててしまって、思わず詫びの言葉が出てしまった。 クスリと笑うと、あの人はまた静かに襖を閉めて行ってしまった。 足音が、充分に遠ざかって行ったのを確認して、 「はぁ〜心臓に悪いよ〜」 なんてついつい愚痴ってしまう。 「こんな事だって知ってたら、来なかったのに〜!!」 普段の豪胆なアタシは何処へやら?だ。 それまでの正座を崩し、座布団にペタリとお尻を付けて座り込む。 「ホント、ごめんね」 布団から片方の手の部分だけを出した同僚は、 その手を自分の顔の真ん中に持って行くと、詫びるみたいにしてみせた。 「でもさ、すみれさんだから頼めたんだよ」 「え?」 冬の夕暮れは早く、まだ三時を少し回っただけだというのに、 外の陽は夕暮れの色を刷き始めていて、また熱が上がり始めたのか、 薄っすらと赤かった同僚の頬を、一層赤く染めて見せる。 「どういう事?」 「一緒に暮らす切っ掛けくれたの、すみれさんなんだ」 思っても見なかった言葉に、私はパチパチと目を瞬いた。 「アタシが?」 「うん」 「切っ掛けなの?」 「うん」 「・・・・・へぇ〜、そぅなんだ・・・・・」 それだけ言って、アタシはまたパチパチと目を瞬くばかりだ。 「入るよ」 暫くして廊下から、静かな声がした。 「ど、どうぞ」 同僚の代わりに、アタシが応えた。 スルリと開いた襖の影から、茶器の載った盆を持ったあの人が姿を現した。 じっと見るのもどうかと思って俯いて、それでも目の端にシッカリとその姿を捕えて、 アタシは自分の前に差し出されたティーカップに、 御揃いのポットから、綺麗な赤い、良い香りのする、 それだけでもう充分に特選の茶葉だと分かる紅茶が注がれるのを見ていた。 「紅茶でよかったのかな?」 聞き慣れない柔らかな声音に、顔を上げてしまった。 一瞬、シマッタ!!と思ったが、次の瞬間にはそんな事忘れ去った。 あの人は、こんな貌をしていたっけ? あの人は、こんな表情を見せた事があったっけ? あの人は、こんな柔らかい雰囲気の人だったっけ? と、様々な思いに頭の中が埋め尽くされてしまったから。 「好みを聞かなかったから」 と言いつつ、目の前にレモンのスライスしたのの載った小皿やら、 これまた御揃いのシュガーポットやらが並んだお盆がアタシの方へと寄越される。 「ただ、このお茶はストレートで呑むのも結構美味いんだ」 そう言いながら、ふわりと微笑むものだから、 アタシはまたまた敬語になってしまった。 「わ、私好きです、紅茶!! 紅茶党なんです!! じゃ、お奨めに従ってストレートで頂いちゃおっかな♪」 どうにか途中で気付いたアタシは、言葉遣いをいつもの調子に修正し、 ソーサーごとカップを持ち上げ、唇を寄せる。 が、慌てたアタシは舌を火傷してしまった。 「アツッ!?」 「すみれさん、大丈夫?!」 「恩田君、大丈夫か?!」 途端に傍の二人から、同時に声が掛かる。 「らめ〜(涙)火傷しちゃっら〜」 情けない声が出てしまう。 「氷でも持ってこよう」 身軽に立ち上がると、再びあの人は部屋を出て行った。 「んん〜ゴメンねぇ、あの人使っちゃって〜」 唇から小さく舌を突き出して冷ましながら、アタシは同僚に謝った。 「何だか今日のすみれさん、謝ってばかりだね」 笑う顔が、さっきよりチョッピリ元気そうに見えて安心する。 だから少〜し意地悪を言ってみる。 「言ってなさいよ〜元気になって出てきたら、 存分にランチ・・・いや、ディナー奢らせてやるから」 「え〜勘弁してよ〜」 結構本気の泣きが入る。 「何よ、アタシには感謝してもし足りない位でしょ? 今のところ、まだ何が何やら分からないけど、 何たって、アタシは君やあの人にとっての[女神]みたいなモンなんでしょ?」 「はぁ?[女神]ぃ?」 「そっ♪[切っ掛けの女神]、んねっ?」 その時には、同僚の言う[切っ掛け]とやらが何を指しての事なのか、 どうやら思い当たる事を思い出しつつあったアタシ。 [切っ掛け]とは多分あの時の事だろうと中りを付けたアタシは、 ジンジンと痛む舌先を意識しながらも、数ヶ月前の事を思い返し始めたのだ。 あれは・・・・・ 「俺、好きな人がいるんだよね」 イキナリ同僚が言った。 そう確か、その言葉が始まりだった。 /NEXT |