[水泡(みなわ)なす、もろき命] サイドストーリー


昭和17年の12月も暮れようとしていた。
前年の同じ月の初め、大日本帝国は大国を相手に未来の見えない戦いへと突入。
以来、戦時下特有の緊張感が人々に圧し掛かる毎日だった。



けれども、人々は日々の暮らしを営み続ける。
平時と戦時の大差はあっても、一日一日季節は過ぎて行き、
暦も一枚一枚と捲られていった。
巷に、暮れの挨拶が普段の其れよりも数段押さえ気味ながら交わされ始めた頃、
高宮甲太郎海軍中尉は上司である、同じく海軍大佐浅倉良橘から一通の封筒を手渡された。
あて先も、差出人の名も無い白い封筒。
甲太郎は数瞬それを見詰めていたが、徐に視線を上げた。
以前に一度、甲太郎は似たようなシチュエーションで手酷い目に遭っていた。
目の前の、澄ました顔で豪奢な椅子に座って足を組んでいる男が図った謀のせいで。
それでも油断のならない上司は、一応は甲太郎の事を気に入り、
その技量の方も買ってくれているらしい。
ともなれば、今度の件に関しても最初から疑ったり、構えたりせず、
広い心で信頼して話を聞かなければならないだろう。
そう思った甲太郎は、半分仕方なく、半分は諦めの気持ちを持って、
どっしりとした佇まいの、磨き上げられた上司の机の前に立って
次なる上司の言葉を待っ事にした。



「其れは私にとって[恩人]で在られる西宮元駐米大使のご自宅で行われる、
 年末恒例の晩餐会の招待状だ。
 以前は先生のお人柄も有り、大層な規模で催されていたのだが、
 この御時世に何事かと怒鳴り込んでくる輩もいるやも知れん。
 だからこそ今回も身内だけで、ごくごく小さな規模で開催される事となった。
 私は何としても出席せねばならんし、となれば護衛も必要だ。
 ああ、勿論土屋は連れてゆくよ」
ならば、護衛は充分ではないか。
常に浅倉の傍近くに在る存在。
今も浅倉の背に、ひっそりと寄り添い立っている。
甲太郎の視線が、一瞬だけ土屋へと流れた。
その相貌を侮れば、次の瞬間には咽喉笛に冷たい刃が突き付けられている事だろう、
冷たく、冴えた美貌の海軍少尉。
甲太郎が言葉にせずに思っていた事を、上司は感じ取ったのであろう。
「『なら、何故自分まで供をしろと?』と思ったようだな?」
尋ねられた甲太郎は、正直に頷いた。
どうせ、自分の考えている事など、聡過ぎる程の頭脳の持ち主の浅倉には
とっくに見通され、隠したり、言い訳したりするだけ馬鹿をみるのだと分かっていたから。
「コレだけでも・・・そう、充分に事足りるだろう」
チラと自分の背後を見遣る浅倉。
「けれども、何事も用心に越した事はない。
 大切な作戦を抱えている身だからな、簡単に暴漢等に襲われて死ぬ訳にはいかんのだ。
 私の、この足の事もある。
 お前にも供をしてもらうぞ。
 だからこその招待状だ。
 先生に、わざわざ無理を言って用意していただいた。
 それが無い限り、絶対に、たとえ誰であろうと会場には入れない事になっている。
 必ずそれを持参するように。
 会場へは、此処から私と一緒に車で出てもらう事になる。
 いいな?」
話しの最後には疑問符が付いている口振りだったが、それは建前であって、
結局のところ、否の返事は許されない事は甲太郎にも分かり過ぎる位分かっていた。
「喜んでお供します」
敬礼でそう応えると、浅倉は心底嬉しそうに頷いた。



浅倉個人の執務室を後にした甲太郎は、
もう一度手持ったままの封筒を目の高さまで持ち上げて、
改めて繁々と眺めてみた。
良く見れば件の時の、色気も素っ気も無い白い安封筒とは違い、
梳き込みの入った滑らかな手触りの封筒に、中西のイニシャルの[N]の字が
微妙な光の加減で透けて見える。
調度廊下には誰も居ない。
行儀の悪い事ではあったが、軍衣の内ポケットからペーパーナイフの代わりになりそうな
細身の金の楊枝を取り出し、その場で開封してみた。
内には箔押しの豪奢なカードが一枚。
開いてみれば晩餐会の日時や会場が、流暢な字で記されていた。
ざっと目を通し終えた甲太郎は、カードを元の通りに封筒に仕舞うと、
その一角を顎の窪みの辺りに当て、思案する様に、
その視線を廊下に作られた窓の外に広がる師走の街並みへと向けた。