「招待状は、忘れずに持ってきただろうな?」
軍令部の玄関先、車寄せで浅倉が聞いてくる。
甲太郎と上司である浅倉の2人は、
西宮邸で催される晩餐会へ向かう為の車が廻されてくるのを待っていた。
時節柄、そもそも[晩餐会]というものを催す事自体が憚られるはずで、
ゲストとして招待された二人の服装も、本来ならば着用するはずの礼装ではなく、
今夜は普段と変わらぬ濃紺に黒の縁取りが施されている
第一種軍装姿に止めてあった。
但し、双方供に短剣だけは装備していたし、
部署柄、短銃も密かにその身の何処かしらに所持しているはずだった。
先の問い掛けに、甲太郎は自分の胸元を軽く叩いて見せた。
「よろしい」
浅倉はそれだけ言うと、甲太郎から視線を外し、真っ直ぐに前を向いて車を待つ。
半歩下がって控えていた甲太郎の耳に、
軍令部玄関前に敷き詰められた砂利を踏み締めながら近付いてくる
公用車の車輪の音が聞こえてきた。
姿が見えた、と思うと直ぐに車は2人の前に到着して止まった。
上官たる2人の為に車のドアを開けようと、
急いで運転席から降りてこようとしていた運転手を
甲太郎は視線で抑え、自分が自ら動き、浅倉の為にドアを開いた。
ドアに手を掛けたまま、上司の浅倉が乗り込むのを待っていたが、
不自由な足を引き摺る様にして車に乗り込もうとする朝倉を手伝う。
やがて浅倉が座り心地を確かめるように何度か身じろぐ所までを黙って見詰め、
納得した浅倉に最後に愛用の杖を両手で差し出す。
「すまないな」
珍しい上司の謝意の言葉に、
「いえ」と応えつつも僅かに甲太郎の片方の眉が上がる。
その細やかな変化でさえ、上司は見逃さなかった。
「なんだ?私が礼を言うのがそんなに珍しいか?」
内心、何と聡い事かと思わずにはいられなかったが、珍しいといえば、
いつも[浅倉在る所に土屋在り]と言われる程の上司の[影]が居ない。
その事の方が珍しく、甲太郎は素直にそれを口にした。
「土屋少尉は・・・?」
「ああ、アレなら心配はいらん」
車中の浅倉が薄っすらと微笑んだ。
と、爆音が響く。
急いで音のする方を見遣ると、其処にはサイドカーに跨った土屋が居た。
「アチラの方が良いのだそうだ。
 さ、そろそろ出ないと間に合わない。
 行くぞ、乗り給え」
「はい」
甲太郎は浅倉側のドアを閉め、急いで反対側に廻って自分も車へと乗り込んだ。
直ぐに公用車は軍令部玄関の車寄せを離れ、門を潜り、師走の街中へと乗り出した。



その先導を司る様に、前を土屋の運転するサイドカーが独特の爆音を響かせながら、
軽やかに走ってゆく。
街は戦時中の制約で乏しい光の中、
そろそろ職場帰りの人波も一段落しつつあるようだ。
甲太郎は、車窓から外の景色を眺め遣りながらそんな事を考えていた。
間もなく車は、街中の景色を後方へと押しやり、
街灯の明かりの一つさえない暗闇の中に続く道を奔る。
西宮邸は山手に在るらしく、暗闇の中とはいえ慣れた眼で見れば、
車の周りが背の高い木立に囲まれているのが窺い知れた。
それからどれ位走ったのだろうか、
車が幾分かスピードを落とし大きく右折したのが分かった。
「そろそろ着くぞ」
暗い車内で、殆ど言葉を交わさなかった浅倉が呟いた。
それまで身を凭せ掛けていた後部座席で姿勢を正し、
身の内から招待状を取り出したのが、カサリと紙の鳴った事で気付かされた。
甲太郎もそれに倣う。
当然の様に、浅倉は手にしていた招待状を甲太郎の方に寄越す。
自分の分も、甲太郎に提示せよという事なのだろう。
甲太郎は黙ってそれを受け取った。



突然、視界が光に包まれた。
切れた木立の中に西宮邸が瀟洒な姿を現した。
西洋式のモダンな建物の其処此処から、ふんだんな光が溢れ、零れている。
昨今、珍しい光景だ。
車寄せは、先に着いたらしい招待客達の車で順番待ちの状態らしい。
けれども大して待つことも無く、甲太郎達の乗った車の番となったらしく、
車寄せへと招き入れられた。
軍令部での玄関先とは違い、甲太郎や運転手が降りて開くまでもなく、
西宮邸の使用人が慣れた仕草で恭しくドアを開けてくれた。
足の不自由な浅倉の事を考え、
普段なら先に甲太郎が降りて上官の事を待っていなければならないところだったが、
この場合に限っては、甲太郎は自分側のドアを開けて降り、
先程同様、上司の乗降を手伝う事にしていた。
が、車を廻ってみれば、当然の事の様に上司の傍らでは土屋が手を貸していた。
そこで甲太郎は、責任者と思われる使用人に自分と大佐の分の招待状を差し出し、
到着の手続きを終わらせる事にした。
「浅倉様と高宮様までいらっしゃいますね」
招待状の表書きを読んだ責任者が問い掛けてくる。
車から降り、居ずまいを直した浅倉が鷹揚に頷き返す。
チラと責任者の目が、礼を失しない程度に浅倉の傍らに控える土屋へと注がれる。
無言のまま、土屋も自前の招待状を取り出し責任者へと差し出した。
「土屋様ですね?」
念の入った事だ。
分かりきった事だろうに、責任者は土屋へも確認を怠る事はなかった。
確認の問いを向けられた土屋も、黙って頷く。
責任者は、もう一度己に確認するかの如くに一つ頷き、そして言った。
「ようこそおいでくださいました。
 主が待ち兼ねております。
 どうぞ、こちらへ・・・・・」