招じ入れられた玄関ホールに、この邸の主である西宮元駐米大使とその細君が、
他の招待客との挨拶を交わしながら浅倉達の事を待っていた。
「大使」
いまだに浅倉は、西宮の事を以前の役職で呼んでいるらしい。
その呼び掛けに微苦笑で応えた西宮が、細君の腕を取って近付いてくる。
「やぁ・・・と、天下の海軍大佐を相手にいつまで気軽に声を掛けてもいいものかと、
 いつも考えているんだがね。
 君がいいと言うものだから遠慮なく声を掛けさせてもらうとしよう。
 待ち兼ねたよ浅倉君、よく来てくれたね」
握手を交わしながら嬉しそうに西宮が笑い掛けるのに、浅倉も笑顔で返した。
「お招きいただきまして、ありがとうございます。
 これでも急いで出てきたのですが・・・・・。
 遅くなってしまって、申し訳ありません。
 奥様には久し振りにお会いできましたが、
 相変わらず若々しく、お美しくていらっしゃる」
今度は西宮の隣で機嫌良くと2人の遣り取りを聞いていた細君の桂子の手を取って、
恭しくその手の甲に唇を押し付けた。
この様な西洋式の挨拶に対して、西宮の駐米大使時代、同行していた桂子には
然程驚く事でもなかったらしく、寧ろ当たり前とでもいう態度でその挨拶を受けた。
「本当にお久しい事でしてよ、浅倉様。
 私(わたくし)、変わってません?
 何時お会いしても、私を喜ばせて下さるんですのね。
 朝倉様こそお元気でいらしたのかしら?」
「日々忙しくはしておりますが、お陰様で身体の方は健康そのものです」
「今日はゆっくりしていってくれるのだろうね?
 妻も君と話が出来ると、楽しみにしていたんだよ」
「朝倉様は色々と興味深いお話をご存知とか?
 主人に聞いて、楽しみにしておりましたのよ」
「今日くらいはゆっくりしたいと、私も思って出掛けて参りました」
浅倉の言葉に、西宮と桂子が顔を見合わせて嬉しそうに笑う。



「あら?」
今更の様に桂子が上げた声に、西宮が「ん?」と小さく首を傾げた。
「珍しい事」
「どうしたね?」
「だって貴方、浅倉様に張り付いていらっしゃる方が、
 今日はいつもの方の他にお一人増えていらっしゃるのよ」
云われて西宮が浅倉の背後を見遣れば、確かに。
いつも見慣れている浅倉の影の如く控えている青年の他に、
もう一人、見た覚えの無い青年が控えていた。
「浅倉様、こちらどなた?
 ご紹介いただけないのかしら?」
桂子の無邪気な問い掛けに浅倉は頷き、僅かに身体をずらして、
静かに後ろに控えていた甲太郎が夫妻によく見えるようにした。
「今回の晩餐会、久々の事でもありますし、
 何より時期が時期です。
 普段、私の警護には土屋がいますので、何の心配もしていないのですが、
 一応と思いまして・・・・・」
そこまで言うと、浅倉は甲太郎に一歩前に出る様にと顎で促し、
甲太郎も大人しく其れに従った。
「今日は大使に無理に招待状を一通お願いしたのですが、
 それはコレの為に、用意していただいたものでして。
 ウチの新人の高宮です。
 高宮、ご夫妻にご挨拶を」
甲太郎はその場の雰囲気を察し、最敬礼での挨拶は避け、
代わりにきっちりと深く、お辞儀をした。
「高宮甲太郎です。
 今晩は、大佐の警備の為とはいえ、
 私の如き無粋な者までお邪魔致しまして、
 本当に申し訳ございません」
それ以上無駄な事は話さず、必要最低限の挨拶だけをして口を閉ざした。
しかし、それでもどうやら西宮は甲太郎の事が気に入ったらしい。
ニコニコと笑いながら、甲太郎に向かって手を差し出してきた。
「初めまして、西宮です。
 浅倉君にとって、いつもの土屋君も頼もしい存在ではある様だが、
 君も勝るとも劣らぬ資質の持ち主のようだね。
 あの浅倉君が、連れてくる位だから。
 いや、本当にこうして知り合えて嬉しいな。
 警護の合間では何だろうけど、
 是非、少しくらいは楽しんでいってくれたまえ」
「ありがとうございます」
心からに思える歓待の言葉に、甲太郎も素直に差し出された手を握り返した。
「浅倉様が羨ましいわ」
桂子がまた、唐突に言った。
「私が?」
何故?と尋ねる浅倉に桂子は応えた。
「だって、いつもお傍に置いていらっしゃる土屋さんは見目麗しい殿方で、
 私、常から羨ましく思っておりましたのに、
 その上にこちらの高宮さんもとても素敵な方なんですもの、
 こんなに素敵な方達に守っていただけるなんて・・・・・。
 私だけでなく、世の女性にとっては羨ましい限りじゃありませんの」
誰に対してなのか「ねぇ?」と言って、口元を手で隠して桂子がコロコロと笑う。
「御用の節は、何時でも仰って下さい。
 どちらでもお気に召した方を奥様の元へ向かわせます」
「本当に?!
 まぁ、嬉しい♪
 どうしましょう、貴方」
「おいおい、浅倉君。
 ウチのは本気にするよ。
 第一、君達が困るよねぇ?」
君達と言われた土屋の方は、いつもの調子で無表情のまま、
返事の一つさえ返しはしない。
その反応も分かっていたのだろう、まるで気にする風でもなく、
桂子の方は甲太郎の方に話しかける。
「本当に、よろしいの?」
少女の笑顔の問い掛けに、根がフェミニストの甲太郎は否とは言えず、
横の浅倉を一度見て言った。
「大佐の仰るとおりに。
 奥様が私でよろしいとお思いなら、喜んで」
「まぁ、どうしましょう♪」
小柄な身体をピョンピョンと跳ねさせそうな勢いで喜ぶ妻を、
西宮が笑って眺めている。
「改めて・・・私、桂子です。
 どうぞよろしく」
そう言った桂子は、浅倉との挨拶の後だったせいか、
思わず右の手の甲を差し出し手しまったのだが、
ハッと気付いて固まってしまう。
この時代の男性の誰もが、女性に対しての西洋式の挨拶への返礼を
浅倉の様に返せる訳ではなかった。
寧ろ、海外での経験や生活の中でこの様な習慣の無い者達には
その行為自体を妙に気恥ずかしいモノと思っていたり、
女性を卑下してみていたりして返さない事の方が多かった。
一度出した手を引くのはどうしたものかと、流石に桂子も思い悩んだが、
甲太郎に恥を掻かせるのもどうかと思い、桂子は差し出したままの手を
出来るだけさり気なく引いて収める事にした。
が、引き戻される筈の桂子の右手は、男性にしては小柄な夫の其れより
一回りは大きな手に取られてしまった。
強引と感じる程ではないが、しっかりと握られた自分の手の甲に、
目の前の青年の唇が静かに押し当てられるのを、桂子は呆然と見詰めていた。
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
桂子の手の甲から顔を上げた甲太郎は、浅倉並のスマートは挨拶を返して微笑んだ。



甲太郎の柔らかな笑顔に、些かぽぅとなった傍らの妻に苦笑しつつ、
西宮が皆を促した。
「さぁ、そろそろ場所を移そうか。
 立食だがね、食事も用意してあるんだ」
「大使ご自慢のワインも?」
「それこそ[このご時世]だからね、大した物はないがね、
 そこそこの物はあるよ」
「それだけでも来た甲斐がありそうだ」
「じゃぁ、行こうか」
西宮の合図で、一同が他の招待客達が待つホールへと向かい始める。
「高宮君」
西宮が甲太郎の名を呼んだ。
「はい」
「早速ですまないが、妻のエスコートを頼めるかね?」
「は?」
「どうやら妻は、大層君の事が気に入ってしまったらしいのでね」
「・・・・・」
揃ってニッコリと笑う西宮夫妻を見て、どう返事をしたものかと考えていると、
再び浅倉が話しに入ってきた。
「大使、奥様。
 御二人には、大変申し訳ありませんが・・・・・
 今夜コレは、あくまで任務で此処に来ておりますので、
 また、別の機会にでも」
話の途中、自分に寄越される浅倉の視線の意味を察し、
甲太郎も夫妻に頭を下げた。
「申し訳ありません」
「や、コッチこそすまなかったね。
 私達の方こそ、君の立場も考えずに。
 桂子さん、もう好い加減飽き飽きだろうがね、
 今夜も私のエスコートで勘弁してくれないかな?」
西宮は言って、片腕を差し出した。
桂子も気分を害した風でなく、ニッコリ笑うと夫である西宮の腕に
自分の腕を絡ませた。
「夫婦で我が儘言ってごめんなさいね。
 でも、高宮さん。
 約束、お忘れにならないでね。
 また是非、お会いしましょう♪」
別れ際、桂子は甲太郎に微笑掛けていった。
見送る甲太郎に、浅倉が言い付ける。
「お前は少し離れた所から辺りを警戒していろ」
「はい」
「では、頼んだぞ」
「はい」
夫妻の後を追い、浅倉は土屋のみを従えて人込みの中へと消えていった。