時代が逆行したかの様な外の言語や文化の排斥が絶対の中でその調べは、
硝子張りの温室に佇む二人を、尚の事現実離れした思考へと誘っていった。
耳慣れないながらも心地の良い調べに、
木崎は音の入り込んでくる温室の出入り口の方に顔を向け眼を閉じ聞き入った。
僅かに首を傾げた横顔。
ウットリと夢見る様な表情。
心安く有るのか、口元さえも柔らかく綻んで見える。
その様子を見下ろす甲太郎の表情も、普段の、
何処か張り詰めた物を感じさせる表情ではなく、
眼の前に在る人の、今の心の内の良さが伝わったかの様な柔らかな表情だった。
やがて最初の曲が終わったのか演奏が途切れ、木崎の眼が開いた。
慌てて数度眼を瞬くと、自分を見下す甲太郎の視線に気付き
恥ずかしそうに笑った。
「ダンスはお好きでしたか・・・・・
 それなら、こんな所にお連れしてしまって申し訳ない事をしました」
心から済まなそうにしている甲太郎に、木崎は小さく首を振る。
「いや、構わない。
 さっきも言っただろう。
 まず育った環境が環境だ。
 こんな世界とはまるで無縁だったし、
 俺は知ってのとおりの叩き上げの軍人だ。
 そんな無骨な俺がワルツなんぞの上品な踊りなんぞ踊れないさ。
 せめて良いトコ夏に踊る[盆踊り]位のもんだ」
木崎は言うと、腕組みをしてにこりと笑ってみせた。
その笑顔に甲太郎は、何を思ったのか
徐に姿勢を正すと木崎の真正面に立った。
どうしたのかと訝し気な視線の木崎に、
この温室に入って以来の柔らかな表情に笑顔を添えて、
甲太郎は深々と腰を折って優雅に一礼して言った。
「一曲、お相手願えますか?」
とんでもなく突拍子もない申し出に、
何か基本的に間違えちゃいないかと思う事さえも忘れ、
木崎は胸の辺りで組んでいた腕の片方を解き、自分自身を指差した。
「俺か?」
「ええ、貴方に申し込んでるんです」
何の事も無さ気に甲太郎は微笑んでいる。
「いや・・・俺は・・・その・・・・・」
やっとこれはヤッパリおかしいだろうと、
遅まきながら気付いた木崎は必死に断りの理由を探す。
「そう!!
 俺はほら、さっきも言ったとおり、こんな上品な踊りは踊れんし!!」
「大丈夫ですよ、私がお教えて差し上げますから」
「いや、そういう問題じゃないだろ」
そこでやっと、一番の事訳を思いついて安堵する。
これなら絶対にとおるという事訳を。
「俺は男だぞ、お前と同じ男だ。
 ダンスってもんはそもそも、男女で踊るもんだろ?
 足の位置だとか、男と女じゃ違うんだろう?」
「大丈夫」
そう繰り返して、甲太郎はまた微笑む。
「だから・・・・・」
事訳を、言い募ろうとする木崎に甲太郎が先に畳み掛けてきた。
「木崎さんが思っていらっしゃるより、簡単なものかもしれませんよ。
 まずは男性パート、女性パート等と難しくは考えずに、
 私に付いていらっしゃるだけでよろしいですから。
 それに、大湊中佐の傍にいらっしゃるとなれば、これから先、
 これ程の規模の物は無くとも、何時、何処で役に立つかわかりませんから、
 憶えておかれて無駄にはならないと思いますよ。
 そうだ・・・奥様や、もう少し大人になって年頃になられたら
 お嬢さんにも教えて上げられたら良い。
 きっと喜ばれると思いますよ」
「ウチのヤツや娘に[ワルツ]何ぞを踊る日が来るとは思えんが・・・・・」
と思っている間に、ズイと甲太郎が間合いを詰め木崎の前に立った。
タイミングを計った様に、離れた本館ではまた新しい曲が奏で始められたらしい。
温室にも音が流れ込んできた。
「さぁ・・・」
差し出された掌を、木崎は俯いた視線で捉える。



唐突に胸に浮かぶ。
つい今し方まで、その掌は自分の肘の辺りを掴んでいた。
その掌の温もりを、自分の掌でも知りたいと。
理由など分からない。
けれども甲太郎の掌に視線を落としていた木崎は、誘われるまま、
胸に浮かんだ想いのまま、黙ってその掌に己が掌を重ねた。



どれ程の時間が経っただろう。
運動神経に優れていたのが良かったのか?
それとも教師が良かったのか?
どちらにせよまだ然程の時間が経っていないにも関わらず、
木崎は甲太郎にぶら下がった様な状態ではあるものの、
どうにか辛うじて[ワルツ]らしき物を踊っていた。
未だに、自分が男性パートを踊っているのだか女性パートを踊っているのだかは
まるで分からなかったが、何とか甲太郎の足が腫れ上がって動かなくなる前に
それなりの形が出来上がった事にはホッとしていた。
音楽は続いている。
憶えたばかりのステップとリズムは、それでも木崎に心地良さを齎していた。
本館から離れたせいの低く優しい調べと
周りを取り巻く夜目にも美しい薔薇の花々、
上げた眼の先の零れんばかりの夜空の星々。
男の木崎でさえ、その雰囲気に酔った。
本当に、酔った様に蕩けかけた思考のまま、何時しか木崎の足が止まり、
目の前の濃紺の軍衣の胸元に頭を預けた。
途端に、それまで香しい薔薇の香りに混じって気付かなかった香りが
その存在を主張してきた。
煙草の香り。
[翠山]に泊まった翌日、二日酔いと体調の悪さを忘れ、
いきなり立ち上がって立ち眩みを起こして倒れそうになった木崎を、
咄嗟に抱き止めてくれた甲太郎の胸元でも、同じ様に煙草の匂いを嗅いだ。
その時の事を思い出した。
あの時は偶然だったが、またあの時の様に背中に腕を回し、
抱き締めてはくれないものかと、眼を閉じ、想いに入り込んでいた木崎に
それまで黙ったままだった甲太郎が言った。
「また、あの人の事を思い出しているんですか?」
弾かれた様に見上げた先、変わらぬ甲太郎の微笑の中、
その瞳だけが哀し気な色で木崎を見下ろしていた。