木崎は思った。 自分は、何故直ぐに、「違う」と言えなかったのか・・・・・。 甲太郎が、最初にその存在を知った時から 気になって仕方なかった大きな黒目がちの瞳が、 大きく見開かれて見上げてきた。 澄んだその瞳は、「何を言っているんだ?」と言っている様にも見えたが、 木崎を見下ろし、一つ、二つと瞬きをする間に、 甲太郎は、自分が自分にとって都合のいい考えに、考えにと、 向かっているのに気付いて居た堪れなくなった。 思考を振り切るつもりで視線を背ければ、何時しか演奏も終わっていたのだろう、 微かに漏れ聞こえていた音楽も途絶え、聞こえなくなっていた。 木崎が思い出していたのはやはり絹見の事だろうと思えば、 今更の心の痛みに嘆息するしかなく、 それをまた、木崎にどうしたのかと気遣われるのにも耐えられそうに無く、 甲太郎は木崎からするりと身を離した。 追いかけて来る木崎の瞳。 相変わらず、大きく見開かれたまま。 瞳に甲太郎の後ろ姿を捕えたまま、木崎は思い返す。 確かに以前、木崎は甲太郎に抱き止めてもらった時に絹見の事を思い出した。 大切な人だと自覚した途端に、惜別の間も与えられる事無く離れてしまった人の事を。 けれども、今、この時まで、木崎は絹見の事を一瞬たりとも 思い出したりする事はなかった。 今夜、会場でその存在に気付いてからずっと、 思っていたのは、目の前の暗い飴色の瞳で微笑んだ青年。 会場に入った途端、華やか過ぎる場所に、 木崎は自分だけが場違いではなかろうかと身が竦んだ。 同道の、上司と同僚以外に知った者とて居ない事と 上流の社交の場での立ち居振る舞いの不慣れによる心許無さ。 その二人さえ、始終木崎の傍に居てくれるわけではなかった。 彼等には彼等の、この晩餐会での[社交]というものがあって、 顔を繋ぎ、会話や表情の端々から、微妙な情報を仕入れる為に 会場中を卒なく回らなければならないのだから。 そんな中、唯でさえ、自分が[元伊16潜水艦の乗組員]で、 しかもあの[腰抜け艦長]の副官で在ったという事を知っていて、 悪意を寄せてくる者が、大湊の庇護の元でさえ今はまだ確かに居て、 軍令部でも謂れのない侮辱や嫌がらせを度々受けている日常に、 確かに以前ほどのダメージを受ける事は稀になっていても、 普段より尚の事効果的に悪意を示せる格好の舞台であろう今夜の晩餐会では、 身を、心を守る為に、知らぬ内に気負い、必要以上に神経を尖らせていたのだろう。 自覚の無い疲労による溜息が漏れそうになった、そんな時に、 思いがけず見知った者を見付け、安堵の余り掛けしまった声。 掛けてしまってから思い至る。 相手が振り向いて此方を見るまでの人間違いではなかったかという不安と、 相手が声を掛けたのが木崎だと認識してから寄越すであろう反応を思い、 その僅かな間にさえ気を揉んでいた。 そうして振り向いた人が人違いでは無かった事に ほっと気付かれない程度に小さな息を吐き、 半年前に会った時には存在した白い包帯が無くなっているのを確認し、 何より、表情や眼差しに、自分に対する負の感情が伺えない事が嬉しかった。 軽い挨拶の言葉の後に浮かんだ甲太郎の笑顔は、 [翠山]に泊まった翌朝に木崎に向けられた、 根の部分の優しさが伺える様な笑顔だったから。 高宮甲太郎が浅倉大佐の腹心の部下の一人として、 若いながらに荷の重い任務を任されているというのは噂だけではないらしく、 結局はまた、半年近くたった今日まで、 木崎が甲太郎の姿を見掛ける事は無かった。 極偶に、上司や副官との会話の中にその名が紛れ込むのを拾い聞く位だった。 いつも、その名は徐に木崎の耳に飛び込んでくる。 そうしてその度に、長い事、木崎は甲太郎の事を考えてしまう。 例えば、今、こうして日々に目標を持ち、前を向いて生きて行けているのは、 思えば全て甲太郎の御蔭の様に思えたし、 実際、今の場所で最善を尽くしつつ、絹見を待てと言ってくれたのは甲太郎だった。 そして、遂に甲太郎の血の繋がらない 妹だという少女の面差しの女(ひと)の言葉によって 確証された、甲太郎が木崎の為にと影に日向にしてくれている事に対しての、 甲太郎自身が身を切る事で払う負債の数々。 自分如きに、どうして此処までと思えば、 何故かしら肝心の所で、自分自身で考えに蓋をしてしまって そこから先には進めなかった。 自分が、突拍子も無い考えに行き着いてしまう様に思えて。 それでも真摯に自分の心の内を覗いてみれば・・・・・。 「貴方の傍から、あの人を連れ去ったのは私です」 そんな風な事を言っていた様な気がする。 その存在を綺麗さっぱり忘れ果てていた木崎に、 甲太郎は自分の事をそう言って思い出させた。 潜水艦に、単身乗り込んできた時の事を。 確かに、あの時から以後、木崎は絹見と二度と見(まみ)える事は適わなくなった。 けれども、それが甲太郎のせいだなどと思ってはいなかった。 甲太郎だとて上からの命令を果たす為に、 伊16を訪れたのに違いなかったのだろうから。 偶然にも甲太郎が受けた命令が、 木崎と絹見を離れ離れにするものだったというだけの事だ。 第一、絹見を連行する甲太郎を逆恨みする程、 その時の木崎と絹見の間には何も無かった。 言葉で想いを告げた訳でも、告げられた訳でも無く、 在ったのは、唯一度きりの堅い抱擁と口付け。 その意味を問う前に、絹見は木崎の前から消えた。 以後の木崎は、自から告げなかった後悔と、今更の思慕と、 もしかするとそれ以上の妻や娘に対する後ろめたさに寝食を忘れ、 心身ともに弱り切ったその身を、更に折り合いの悪い上司や部下が苛んだ。 心の内を誰に吐露する事も無く、かといって自分自身でもどうする事も出来ず、 このまま暗い淵に沈んでしまおうとしていた木崎を引き上げ、 あまつさえ希望を捨てずに、何れ来るその時の為に、 準備を怠る事無く先を見ていろと指し示してくれたのが甲太郎だった。 それは、もしかすると木崎に対する甲太郎なりの 罪滅ぼしの為の手段の一つだったのかもしれない。 それから、今も尚憶えているのは身の置き所の無い程の痛みと苦しみ。 配置換えの為に、自ら志願する形で赴いたという危険な任務。 不在の理由が其れと知った時の、悪寒を伴う身を引き絞られる様な感触。 夜目にもハッキリと浮かんだ甲太郎の身に有った包帯の白さを、 包帯だと、怪我をしているのだと、それが恐らく十中八九間違いなく、 自分の為に負うた傷なのだと思い至った時の、震えるほどの不快感。 あんな思いは、もう沢山だと思った。 他人が自分の為に、傷を負い、命を危険に晒す。 ・・・いや、高宮甲太郎が傷付き、命さえ落とすかもしれないと言う事が、 何より耐えられないと思った。 確かに自分は家族への思いは別として、想いを寄せていたのは絹見だけだった。 ついこの間までは、確かに。 ・・・・・なのに、今夜の自分は目の前の青年だけを思う事に心を占められていた。 そして木崎は漸くそこまで思い至り、愕然とする。 背後の木崎の様子に気付く事も無く また、らしくもなく振り向く事さえ出来そうになかった甲太郎は、 ポケットの白い手袋を取り出すとそれに眼を落としたまま言った。 「音楽も一段落した様ですし、本館の方に帰りましょう。 そろそろあちらでも、私達の事を探しているかもしれません。 お互いに、今夜は上司のお供として招かれていたのに、 私がこんな所にまで連れてきてしまって。 大湊中佐もなかなか厄介な御仁ですが、 浅倉は遙かその上をゆきますからね、 上司が機嫌を損ねないうちに戻りましょう」 何かを言い掛ける様に、甲太郎の背後で、木崎が大きく息を呑む。 それを察した甲太郎は、木崎よりも一瞬早く先手を取って、 何時までも甘い期待を抱き続けようとする自分の心を 屠る為にも、何より木崎が喜ぶであろう名前を口にした。 「先日、絹見さんにお会いしました」 木崎は思った。 自分は、何故直ぐに、「違う」と言えなかったのか・・・・・。 |
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