甲太郎の言葉の思い掛けない内容に、木崎は応えもなく立ち尽くした。
「あの人の事を思い出しているんですか?」
木崎にしてみれば、余りに唐突な話しに、
僅かの間、思考が停止していただけであった。
それによって反応が遅れただけであったのに、その僅かの間が、
甲太郎に出来る事なら言いたくはなかった人の名をを言わせた。
木崎に「そうだ」と返されれば、やはりと胸は哀しみに痛むであろうし、
「いいや」と返されれば、そんな筈はないと胸が嫉妬で焼けるだろう。
己の心の内が分かり過ぎる程で、甲太郎は声の無い苦笑と、
木崎の耳には届かぬ位の細く微かな溜息を吐いた。
そうして、木崎に絹見と会った時の事を話し始めたのだった。



一方、木崎はといえば・・・。
やはりその名前を聞けば、木崎は驚きとも喜びとも付かない思いに、
一瞬息さえも詰めてしまう程だった。
仕様がないとも思う。
木崎が躊躇無く命を預けるに足る上司と慕い、
早くに亡くした父とはこんな風だろうかと慕い、
そして漸くそのどちらにも勝る強い想いが自分の身の内に、
他にも在るのだと気付いて以来、その想いだけを支えに、
今日まで追い続けていた人の事だったのだから。
それでも・・・そう思う自分が全てではなかった。
その名を聞いた今だからこそ、木崎は絹見の事を思ったのだ。
甲太郎が絹見の名を出さなければ、自分は絹見への想いを、
今夜、こんな風に思い浮かべる事があったであろうかと思わずにはいられない。
何故、こんな時に甲太郎は絹見の名を出したのだろう?と考える自分が居る。
二人だけの、心安かった時間を壊してまで・・・。
木崎の心は絹見へと甲太郎へと、目まぐるしく揺れ動いていた。



さり気ない風を装いつつ、背後の木崎の様子を伺っていた
甲太郎の口元に刻まれた苦笑と細い溜息は、
背を向けたままだったせいで木崎に気付かれる事は無かった様だった。
「今回の任務で、暫く日本を離れていたんですが、
 帰りの船の寄港地が、調度絹見さんのいらっしゃる広島だったもので」
甲太郎の話しに、木崎は嘘だなと即座に思う。
配属先の移動の件といい、それに伴う怪我の事といい、
甲太郎が木崎の為にと吐く嘘の一つだと。
百歩引いて、本当に船の寄港地の一つに広島が在ったのだとして、
それでも甲太郎が絹見と偶然会う等、有る訳がない。
数えるほどの会話や一緒に過ごした短い時間でさえ、
木崎が甲太郎の人となりの一部分であろうとも知るには充分で、
思うに、おそらく甲太郎はわざわざ下船して、
絹見の元へと足を運んでくれたのだろう。
「艦長は、お元気そうでいらっしゃいました。
 私が最後にお会いした時から、全くお変わりない様に見受けられ、
 潜水艦の中から外の勤務に付かれたのですから当たり前の事でしょうが、
 良く日に焼けていらして。
 むしろ健康の面に限っては、陽の光を存分に浴びる事の出来る、
 今の職務は絹見少佐の身体にとっては最良だった様ですね。
 ますます・・・・・」
ふと、甲太郎が口を噤み、僅かの沈黙の後、
甲太郎は徐に木崎の方に身体ごと向き直った。
振り返った甲太郎は薄っすらと微笑んでいたが、
それは先程まで甲太郎が刻んでいた苦笑を知らぬ木崎には、
優しげな微笑に思えた。
「貴方の方から、何か、お尋ねになりたい事はないんですか?」
問い掛けてくる甲太郎の穏やか過ぎる程の声音には、
それでもどこかしら漠然とした寂寥感が漂っている様に感じられて、
木崎は自身にも理由の分からない居た堪れなさに囚われ、戸惑ってしまう。
例えどんな風であろうとも、自分の口から絹見について何事かを尋ねれば、
甲太郎はその心に大なり小なりの傷を負う様に思えて、なかなか言葉が発せない。
どうして自分がそんな風に思うのか分からないまま、
木崎は何度も口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返すばかりだった。
相変わらず、静かに微笑みながら甲太郎は木崎を待っている。
木崎は仕方なく、何とか当たり障りのなさそうに思える言葉を返した。
「・・・・・元気で、あの人が元気で居たんならそれだけでいい。
 それで、充分だ・・・・・ありがとう」



哀れまれたのだ。
同情されたのだ。



甲太郎は、木崎がいつの間にか既に、
自分の寄せる想いに気付いていたのだと思い込んで、
自分に気を使って有触れた言葉で話を終わらせようとしたのだと、
木崎の言葉をそんな風に受けとってしまった。
常日頃、冷静過ぎると言われている甲太郎であったが、
瞬間、我を忘れる程の感情に囚われた。
途端に、甲太郎の手が木崎へと伸ばされる。
それまでの静かな佇まいとは違う、余りに素早い動作に、
居た堪れなさを尚も引き摺っていた木崎は、
一歩たりとも後退る事さえ出来なかった。
軽い音をたてて、甲太郎の白手袋が地面に落ちた時には、
木崎はその小振りな顎を、ガッチリと甲太郎の大きな手に掴まれ、
身動きできない状態に陥っていた。
相手は片手だというのに、睨む様に合わせてくる視線から眼を逸らそうにも、
甲太郎の突然の、その只ならぬ雰囲気に呑まれてしまったのか、
自分よりも高い位置に在る甲太郎の目を、否応なく、見返す事しか出来なかった。
この時の甲太郎には、常識外れのこの行為が、
上の者に対する不敬罪となる事さえも頭には無かった。
欠片ほども無い上の者への謝意の代わりに在ったのは、
好意を寄せる相手からの自分への憐れみや同情に対する
怒りにも似た渇いた衝動だけで、他を考える余裕は無かった。
「・・・・・貴方は・・・・・・・・」
低い、獣の唸りの如き甲太郎の声は、
木崎の初めて耳にする声色だった。
木崎の顎に掛かった手にも尚も力が加わって、ギチリと音さえ聞こえそうな程だ。
痛みからか、木崎の眉が微かに顰められ、
漸く振り絞った気力で自分の顎を掴む甲太郎の手首を両の手で握り、
如何にかして退けようと引き剥がしに掛かった。
けれども自分よりも背の高い相手の手は、木崎も相手と同じ男だというのに、
精一杯の力を込めても外せる気配は無い。
せめてもと同時に顎も首の方から動かしてみたが、
それが甲太郎には木崎が自分を嫌悪しての仕草に見えて、
闇い衝動に拍車が掛かる。
自分の手を退けようとしていた木崎の両の手の手首を、
甲太郎はその大きなもう片方の手で一纏めに掴むと、
思い切り自分の方へと引っ張った。
木崎の身体が勢い良く甲太郎にぶつかったのと、
甲太郎の唇が木崎の其れを覆ったのは殆ど同時だった。
木崎よりも一回り大きな身体が、上から覆い被さってくるような口付けに、
驚きと戸惑いに大きく見開かれた木崎の瞳も、次の瞬きの後、
しっかりと閉じられ、暫く開かれる事はなかった。