一体、何が[幸せ]で、何をして[不幸せ]と云うのか?

知ってしまえばもう、引き返す事は出来ない。
知らないままでいる事が、いっそ[幸せ]だという事もあるのだと。

けれど・・・知らずにいる事こそを[不幸せ]とは云わないのでしょうか?





アルフィリンの黄金なす鈴[4]





雨は止む事を忘れでもした様に、今も降り続いている。
先日の会議で気まずい思いをして以来、まともに口を利いていないレゴラスとボロミアにとって、
無理に言葉を交わすのは、如何にもこの場だけを取り繕っている様に思え、
相変わらず黙ったまま、互いに背を向けるようにしながら雨宿りを続けていた。
雨音は単調で、いつの間にか2人はその音に慣れてしまい、
寧ろそれを遮る己達の身動きの物音の方こそが憚られる様で、
遂には息遣いにさえも気を遣わずにはいれなくなった。
今の2人を包む世界は、それ程までに清閑であった。


弱まってもくれない雨足に、流石の大樹の多量の葉を以ってしても、
いよいよ大粒の雨垂れが滴り落ちてくるのを、完璧に防ぐのは難しくなってきた。
そうしてとうとうその一粒が、レゴラスの肩に滴り落ちた。
ピクリと震えて、ホンの少し後退りをする。
すると、思っていたより近くに居たボロミアと肩が触れ合う。
チラリとボロミアの方を見遣ったレゴラスを、ボロミアの方も振り返って見た。
「失礼」の一言さえもないまま、レゴラスは再び身体を少し離れた場所へと移動させた。
けれど雨粒は、レゴラスの後を付いて来る様に落ちてくる。
(まったく・・・)
嫌気がさして溜息を付くレゴラスに、また一粒、二粒と続け様に雨粒が落ちてきた。
ボロミアから眼を逸らせたまま、容易に寒さを感じない筈のエルフが大きく一つ身震いした。
フッと背後でボロミアが笑ったような気がして、レゴラスはもう一度振り向いた。
ボロミアは、やはり笑っていた。
片頬に微苦笑を刻んで。
(笑っている?!私を?!)
微かに肩先が触れ合っただけでうろたえている自分の事を笑われたのだと思い、
レゴラスの白い頬に朱に染まる。
今度はボロミアの方がうろたえた。
「あ・・・いや、その・・・・貴方を笑ったのでは・・・」
口重なボロミアはどう説明すればいいのかと、一旦言葉を切った。
(じゃあ、一体何を笑っていたっていうんですか?!)
心の中で叫び、レゴラスはボロミアを少し睨む様に見詰めながら、彼の次の言葉を待った。
再び、微苦笑を浮かべてボロミアが話しだした。
「私は、余程貴方の御不興を買ってしまったのですな。
無理もございませぬ。
あの時の私は、今となっては、恥じ入るしかございませんが、
あの場に居られた全ての方々に、無礼で、不遜な態度をとってしまいました。
貴方に厭わしく思われても仕様のない程。
それで自嘲したのです。
決して貴方を笑ったのではございませぬ。
ですが重ね重ね、御気分を害してしまったので有りますれば、どうぞ御容赦下さい」
そう言ってボロミアは姿勢を正すと、レゴラスに向かい、深々と頭を垂れた。


それは、新鮮な驚きだった。
(この人は・・・)
この様に低姿勢で折り目正しい言動の出来る人だったとは、正直、レゴラスは思っても居なかったが、
知り合ってからの期間の短さや、これまでの経緯、
何よりも初対面の場での慇懃無礼なボロミアの態度を考えれば
無理も無い事だとは云え、せめて僅かなりとも言葉を交わし、同じ時を過ごして居たならば、
相手の人となりを理解するのは容易い事だったかも知れない。
思い返してみれば、レゴラス自身も、相手ばかりを非難出来る立ち振る舞いではなかった気がする。
今更ながらにその事に気付き、慌てて自分も謝罪の言葉を口にしようとしたが、
何故だか言葉に詰まって、結局はただ黙って頭を下げたままのボロミアを見詰める事しか出来なかった。
対してボロミアは、レゴラスの沈黙をどう取ったのか、
心持ち身体を起こしてレゴラスの表情を伺う様子をみせたが、
次の瞬間にはふぅと溜息を一つ吐いて、姿勢を元に戻す。
レゴラスは、居た堪れず視線を足元へと落とし、
ボロミアはまた身体ごと視線を辺りの景色へと戻した。


たった一言。
「私の方こそ・・・」
それだけで、隣に居るボロミアとレゴラスの関係は今より遥かにより良い物へと変わっただろう。
けれどもレゴラスはその機会を逸してしまい、彼もまたボロミアと同じく、
ボロミアに対して背を向ける格好で、今尚降り続く雨のカーテンへと視線を移しすしかできなかった。


尚低く、更に重みを増した雨のカーテンは、レゴラスの心をも覆い尽くしてゆく。
不意に、後悔にも似た思いが湧き上がってきた。
(私が、あんな表情をさせてしまった・・・)
視線を落とす間際に見た、ボロミアの困り切った様な、
どこか少しだけ寂寞とした笑顔がレゴラスの胸に突き刺さっていた。
(私は、どうしてしまったんだろう?)
自分自身の思考と態度に、不審が募る。
そもそも、レゴラスは自分でも余り口数の多い方だとは思っていない。
第一に、これまでレゴラスが生まれ育ってきた環境では、
他種族との接触は出来うる限り避ける様にと示唆されており、
同族のエルフ同士であれば、言葉なぞ、口にせずとも
充分に互いの意思の疎通には不自由を感じる事は無かったのだ。
そんな己が、初対面の相手に、場を弁える程の心の余裕も無く取り上せてしまうとは、
未だに信じられずにいる。
今もそうだった。
(相手に対して物怖じする私など知らない)
先達や父王を始め、歳の上下、そして貴賎を問わず、どのような立場の者であっても、
レゴラスは相手を敬い、慮り、臆する事無く接してきた。
それが、こうして先の無礼を詫びる人の子に対しては言葉一つ返す事も儘ならずに思い惑っている。
(本当に、私はどうしてしまったんだろう?)
再度、胸の奥で自分自身への不審を問うた時、またも浮かび上がってきたのは、
先程のボロミアの笑顔だった。


−ズキリ−


レゴラスは身の内に、嘗て一度たりとも知らない痛みを覚えた。


(この痛みは、何なのだろう?)
(この痛みは、誰の為のものなのだろう?)
(この痛みは、私を何処へ連れて行く?)


(痛みの訳を知った時、私は何処へ行くのだろう?)


知ってしまえばもう、引き返す事は出来ない。
知らないままでいる事が、いっそ[幸せ]だという事もあるのだと。


けれど・・・・・
一体、何が[幸せ]で、何をして[不幸せ]と云うのか?
知らずにいる事こそを[不幸せ]とは云わないのでしょうか?


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