見上げる空。
風が走る。
雲が飛ぶ。





何故、忘れていたのだろう?
人の子の、瞳の熱さを知った時の事を。
あの時から、始まっていたのだ。





アルフィリンの黄金なす鈴[3]





彼の瞳の先に見えていたものは?

その先に、見えていたのは明るい日の光に照らされた未来か?
(恐怖に彩られた星明り一つ無い、暗い闇の未来?)



彼の耳にしていたものは?

いつの日にか帰還する、故郷の民の歓呼の声か?
(忌まわしき物に飾り立てられた偽りの囁き?)



彼の胸一杯に溢るる程に満ちていたのは?

懐かしさに、涙さえ零れそうな遠い日の記憶?
(忘れようにも忘れられない、焦土と化した祖国と同胞の流した血の匂い?)



彼の逞しい大きな掌で守っていたものは?

領民のささやかながらも喜びに満ちた日々の暮らし?
(待ち望んだ明日は永遠に失われ、人々は生きる意味さえ忘れ果てているのに?)



嗚呼・・・・・

人生の終焉を穏やかに迎えるべき老人の

生れ落ちたばかりの垢なる和子の

闘いに身体ばかりか精神の自由さえ無くした戦士の

夫や息子や恋人を亡くして絶望に打ちのめされた女達の

累々と横たわる屍の中

彼の剣と楯はその手から滑り落ち

跪いたその腕に抱(いだ)かれるのは

見開かれた瞳に映るものは最早無く

開かれた口からは微かな息さえ漏れもせず

氷の如き幼子の冷たき骸





『神ヨ  ワタクシハ  ナゼニ  ココニ  在ルノデス?』

『神ヨ  ワタクシハ  イツマデ  コノ地獄ヲ  見ネバナラナイノデス?』

『神ヨ  ワタクシハ  ナンノタメニ  生キネバナラナイノデス?』





庭園での一件の後、レゴラスは双子の姿を見掛けなかった。
父君のエルロンド卿の命により、先発して探索を続けているアラゴルンたちの元へと
あの後直ぐに旅立ったらしい。
もし今、彼等に会えたとしても、彼等の『何故?』に対する
答えらしい答えを見付けだせていないレゴラスとしては、
むしろその『不在』が有難く思えていた。





そして、人の子とは・・・。
御前会議以来、先日レゴラスは人の子と初めて会話らしい会話を交わした。
別に、これまで相手を避けていた訳ではなかったし、意識している訳でもなかったけれど、
きっかけも掴めなかったし、正直、何処かしら互いに会議の時の気まずさが残っていたのかもしれない。
口を利き、会話を交わすという雰囲気のではなかったのだ。
本来レゴラスは余程相手を気に入るか、気が向かない限り、
自分の方から人に話し掛けたりする方ではなかったし、
(ただ、歌はよく口ずさむけれど)
人の子の方もまた、気の利く話し上手というタイプではなく、
むしろ無骨で、口下手な男らしかった。
互いに共通の話題も分からず、偶然、館の回廊や庭園、食卓で会った時に
儀礼上の挨拶を交わすか会釈をする程度でしかなかった。





そんな二人が口を利いたのは、穏やかな気候の裂け谷には珍しく、
エルフ達には何の影響も無いものの、裂け谷に滞在中の他の種族の者達には
肌寒く感じる、どんよりと雲の多い、間もなくの冬を感じさせる空が
木々の間から見え隠れしている日の午後だった。
未だ、旅の出発の日時は定かでなく、谷に残った者達は其々の時間を
思い思いに過ごしていた。
レゴラスはといえば、一人で谷のかなり奥深くまで散策の足を伸ばしていた。
一人でゆっくりと考え事をする時間が欲しかったし、
この数日間、エルロンド卿の放っていた探索の者達の出入りの激しさから、
旅の始まりが、いよいよ近まってきた事を感じ取っていたので、
この谷への訪問の次の分からぬ身に、出来うる限り、
谷の美しさや静けさを、目に、耳に、心に刻んでおこうと思い立ったからだった。
裂け谷にしか居ないという鳥の囀りを聞き、何処までも高く聳える金と赤の木々を見上げ、
ひっそりと木陰に咲いた花々を愛で、目の前を飛んでゆく名も知らぬ蝶を追ってみた。
満ち足りた時間の中で、レゴラスは失念していた。
頬に当る物に、初めてハッと気付いて両掌を空へと向けながら
自分も顔を上げて空を見る。
先程からどんよりと留まっている様に見えていた雲は、ますますその色を濃くし、
今や手の届きそうなほど低い所まで垂れ込めていて、
その間からは、見る間に大きな雨粒が次から次へと音を立てながら下界へと降り注ぎ始めた。
せめてここが館の庭園の中であったなら、東屋なりとに駆け込んで雨の過ぎるのを待てるのだが
如何せん、ここは裂け谷の中とはいえ館からも庭園からも遠く離れた森の中、
雨を避ける為の屋根のある建物は、粗末な小屋さえ見つからない。
その間にも雨はレゴラスを、辺り一体を濡らしてゆく。
もう一度、レゴラスは急いで辺りを見渡してみた。
せめて一時、雨を凌げる場所がないかと。
そうして見付けた。
どれくらい離れているだろう?
雨に煙って見え辛いけれど、レゴラスの居る場所から少し行った所に立つ、
広い森の中でも一際背の高い木が。
その高さに見合うだけの太い幹と、広く張った枝葉で、レゴラスを雨から遮ってくれそうだった。
躊躇せず、レゴラスはその木に向かって駆け出した。
近付くにつれ、雨のカーテン越しだった木がはっきりと見えてくる。
と、幹に凭れるようにして佇む先客の姿に、レゴラスはその時初めて気が付いた。
今更、引き返すのもどうかと思うし、相手もレゴラスに気付いたようだ。
伏せていた面を上げ、駆けて来るのが誰だか分かると、
一瞬、少し驚いて、それから戸惑うような表情になる。
間違いない。
先客は、人の子。
ボロミア。





勢いのまま駆け込んだ木の下。
背を向け合ったまま、言葉も交わさず雨の過ぎるのを待っていた。
同じ事を考えながら。





どうして彼が・・・・・?



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