出合った頃から、嫌いだった。
他の何もかもが好ましく想える事ばかりだったとしても、
その何気ない仕草だけが、たった一つ。
嫌で、嫌で、仕方なかった。



初めて会ったその時から我武者羅に信じて、慕った。
無条件に想う事に抵抗が無かったと言えば嘘になる。
けれどそうする事しか、知らなかった。



四六時中、行動を共にする。
狭く窮屈な艦内で、或いは極稀な陸上での勤務で。
艦長と航海長として、いつも傍に居て共に在るのだ。
気付かない訳がなかった。
むしろ始めから気付いていたのに自分自身の心に目隠しをして
気付かない振りをしていただけだったのかもしれなかったけれど、
認めてしまえばそれがきっかけになるのが分かっていたから・・・・・
気付かない振りをしていたかった。



たった一つに胸が痛んで仕方なかった。



動く絹見の指先。
周りがどれだけ忙しなく動いていようとも、その動きだけは特別だった。
気付かれない様に、伏し目がちにそっと木崎の視線が追いかける。
普通の艦長ならば有り得ない事だが
乗員と兵員食堂で共に冗談を交わしながら、
発令所で一人海図を眼の前に仮想の戦いを繰り返しながら、
露天艦橋で煙草を吹かしつつ物思いに耽りながら・・・・・
気付けば、絹見はいつも腕の時計を撫でていた。
無意識の内と思われる仕草。
優しく、慈しむ指先。
話し掛けているのかもしれない。
語り合っているのかもしれない。
傍らに居るのであろう、彼の人に。
現身(うつせみ)の木崎でなく、ただ一人の彼の人と。



たった一つが胸を締め付けて仕方なかった。



それまで木崎を締め付けていた絹見の腕の力が緩み、
木崎は小さく息を付くと、恐る恐る絹見の表情を窺った。
漸く付いた息が再び詰まって、後が継げない。
どう表現すればいいのか・・・
笑顔でもなく、かといって哀しげというのでもなく、
むしろその顔は、忘れてはいけない事を忘れていた事に自分でも驚き、
恥じ入る様な複雑な表情に覆われていた。
そうして絹見の視線が自分ではなく、
何か他へと注がれているのに気付いた木崎は、
その先をなぞる様に自分も追い掛け、
納得すると同時にそれまで詰めていた息を大きく吐き出した。
そうしないと、増しすぎた胸の痛みに耐え切れなくなってしまいそうだった。
この大きすぎる痛みから逃れる為に、絹見に心の内を告げてしまいそうで。



[後悔]という言葉。
後になって悔やむ事だけれど、木崎はその通りだなと思う。
何故もっと早くに、この気持ちと正面から向き合わなかったのだろうか。
自分を誤魔化し誤魔化しきた結果が今だった。
言い訳などせず、正直に胸の内を覗いて見れば、
自分自身の事だもの、分かったはずだ。
言い逃れなどせずとも、分からない訳がない。
たった一つの胸の痛みが、自分の絹見を[恋い慕う]想いからくるもので、
未だ絹見の心に寄り添う彼の人の面影にさえ切ないほどに妬心しているからだと
とうに分かっていたのに。



いっそ告げてしまおうか?

明日をも知れぬ軍属の自分達。
また[後悔]する前に。

告げてしまって、その後は?



木崎は、到底絹見が自分を受け入れるとは思えなかった。
知り合って日は浅くとも知る絹見の性格上、
木崎の事をそれと分かる程毛嫌いしたり、
露骨に無視したりはしないだろうと思う。
だからこそ木崎は自分自身がその状態にどれだけ耐えられるかが自信が無く、
業務に差し障り無く務められるか気掛かりだった。
自分は航海長だ。
艦長である絹見共々、艦の航行に携わる重要なポストの人間が、
私情に惑い、艦全体を危険に晒すわけにはいかない。
その事を考えると、臆病な自分が囁く。



このまま・・・・・絹見の傍に居られることだけで良しとしろ、と。



告げたいと思う自分と、傍に居ることだけでもと望む自分が鬩ぎ合う。



考えに沈んでいた木崎の頬に、そっと何かが添えられた。
はっと浮上させた意識が、それが絹見の掌だと教える。
黒目がちの大きな瞳に、生死を懸けた戦闘の中でさえ浮かばなかった怯えが
ちらちらと浮かんでいるのを、覗き込んだ絹見は知った。
「どうしようもねぇなぁ、俺は・・・・・」
絹見の口から搾り出すように発せられた言葉と、
その後を追う様に降りてきた唇。
それが自分のそれと触れ合う直前、木崎はぎゅっと目を閉じた。
そうでもしないと、浅ましく葛藤している自分の心の内が、
絹見の前に、全て曝け出されてしまいそうで。



口付けは・・・・・
例え様もなく甘くて・・・・・
互いが吸い慣れたタバコの、苦い味がした。



その後、初めての口付けの余韻に浸る間も無く二人は現実に呼び戻された。
艦長と航海長として。
二人の名を呼ばわりながら、近付いてくる足音に、
慌てて返事をする絹見と、訳も無く距離を置いて佇む木崎だった。
通信長の鍋坂が部屋に入って来るなり敬礼する。
緊張したその面持ちと態度に、尋常でないものを感じた二人は
自然と自分達も緊張に身体を固くした。
「軍令部より入電!!大海令第一号が発令されました!!」
そう言って差し出された書面を、絹見は受け取って目を通すと、
今度は黙って木崎へと差し出した。



[大海令第一号(昭和16年11月5日発令)]

一、帝国ハ自存自衛ノ為、12月上旬、米国・英国及蘭国ニ対シ
   開戦ヲ予期シ、諸般ノ作戦準備ヲ完整スルニ決ス

ニ、連合艦隊司令長官ハ所用ノ作戦準備ヲ実施スベシ

三、細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム



「いよいよ・・・・・・ですね」
「ああ、開戦だ」



その後は、日々が目まぐるしく過ぎていった。
あの時の事を、二人が互いの身の内で充分に消化するする間も無く、
互いの職務に追われ、遂に開戦の時を迎えた。
大国対小国の戦い。
戦況は見る間に悪化の一途を辿る。
そんな中、補給と艦のメンテナンスの為に入港した横須賀の港で待っていたのは
軍令部から派遣された士官と憲兵隊だった。
所属する艦隊の司令官からの報告が届いていたらしく、
絹見の特攻に対する批判に対しての呼び出しだった。
釈明を聞くとは上辺だけで、その実、処分は既に決まっていた。
その処遇を伝える為の呼び出しだったのだ。
呼び出しは絹見一人に対して。
副官である木崎でさえ付いて行く事は許されず、
他の乗組員と共に、まんじりともせずその帰りを待った。
漸く帰って来た絹見は、さばさばとした表情で艦へと飛び移ってきた。
その後ろに、絹見を乗せてきた車が止まったままなのを、
どうにも不安な面持ちで見遣ったものの、絹見の事が気になった乗員達は
直ぐさま艦長の後を追って艦長室付近へと駆けつけた。
「艦長!!」
皆を代表して木崎が開きっ放しの入り口から叫ぶ。
「降りろとさ」
その言い草が、余りに普段の話様と変わらなかったので、
誰もが一瞬、どういう意味なのか理解できなかった。
「艦長?」
今度は木崎の隣に居た軍医の時岡が尋ねる。
「このまま、荷物を纏めろとさ」
確かに見れば、絹見は自分の荷物を鞄へと詰め始めていた。
「そんな!!」
所々から、一斉に悲鳴が上がった。
「・・・これから、どう?」
咽喉に絡まった声で、木崎が尋ねる。
一旦、荷造りの手を止めた絹見が木崎を振り返った。
其処には木崎が見慣れた笑顔が。
「広島の大竹に行く。
 潜水学校の教官だとさ」
ざわめいていた艦内が、しんと静まった。
「ひょっとすると、皆にも何がしかの配置転換が言い渡されるかもしれねぇ。
 精一杯粘ったつもりなんだが・・・俺の力不足だ、すまねぇ」
絹見は深々と頭を垂れた。
「艦長!!」
絹見の人柄を慕っていた乗組員ばかりだ。
何時しか嗚咽が漏れ聞こえてきた。
木崎は、もう黙って絹見を見詰めるしか出来なかった。



「用意は出来ましたか?」
張りのある声が、その場を裂いた。
振り向くと、海軍の濃紺の制服を着た士官が一人立っていた。
いつの間に乗船したのか、部外者の乗船を何より嫌う潜水艦乗り達の
反感の篭った視線が集中しても、その士官はまるで動じていない風だった。
目鼻立ちのはっきりした、まだ歳若い士官だというのに、
荒くれ者揃いの潜水艦乗り達相手に、なかなか胆の据わった男のようで、
平然と木崎を始めとする乗員たちの視線を受け止めている。
絹見の閑職への左遷は、何もこの男のせいではないのだと分かっていても
やり場の無い怒りに、きつい眼差しで木崎は男を睨む様に見詰めていたが、
絹見の声に我に返った。
「よし、いいぜ。
 行こうか」
もともと、狭い艦内に乗員が持ち込む私物は数えるほどしか無かった。
たとえ艦長と言えども、その例に漏れない。
絹見も然り。
艦長室の入り口の木崎と時岡の間を抜けて部屋を出てゆこうとする。
引き止めてどうするつもりだったのか、後先を考える余裕もなく、
木崎は思わず艦長と叫び、絹見の腕を掴んでいた。
絹見は足を止めると、木崎を振り返り、
自分の二の腕の辺りを必死で握り締めている木崎の手に己が手を重ね、
一つ心を込めて握り返すと、ぽんぽんと優しく叩き、
木崎自身にその手を外す様促した。
ずるりと木崎の手が落ちる様に離された。
再び歩きだした絹見から離れた木崎の手の指先が、
コツリと絹見の時計に当たった。



胸の痛みがぶり返す。




士官に付き添われ、艦を離れてゆく絹見に乗員達が一斉に帽子を振った。
木崎は、敬礼でその背を見送りながら思い出していた。
その後、ホンの僅かな時間二人きりになった時に絹見が言った言葉を。
いつもの様に、あの時計を擦りながら。
「今もかみさんを愛してる」
そう言った。
「お前さんもそうだろう?
 嫁さんや子供が何より大切だ、な?」
臆病な木崎に、逃げ道を用意してくれたのだと分かった。
絹見らしい優しさだと思いながらも、
それでも何て残酷な優しさなのだと思った。



その後暫く、木崎はそのまま伊16に航海長として乗船し続けていたが、
やがて他の主だった者達と配置転換されることになり、
絹見同様、木崎も地上勤務となったものの連絡を取り合う事も無く、
ましてや会う事など一度も無かった。

                                       〜第13週〜