「あら、甲太郎さん」 内所の奥に在る居間に据えられた長火鉢の傍でお茶を啜っていた女が 久しぶりの来訪者に驚きながらも嬉しそうな声を上げた。 甲太郎と呼ばれたのは20代後半と思われる青年で、 濃紺の軍服を付けた身体を心持ち捻って 騒々しい位に賑やかな物音の聞こえてくる方へと目を遣った。 それでも直ぐに身体を元に戻し、両の手の真っ白な手袋を外すと、 軍帽を脱いで小脇に抱え、その軍帽によって僅かに付いていた癖を直す仕草で 明るい陽の光の下であれば真っ黒とは言い難いが、 電灯の灯りでならば黒いと云っても差し支えない程度に 色素の薄い髪を掻き上げた。 座敷の敷居際に立つ青年の元へと女は立ち上がり、 急いで部屋を横切って近寄ってきた。 和服姿のその女(ひと)は青年の眼の前で立ち止まると、 慣れた様子で一旦青年の足元に正座し、 こちらもまた慣れた様子で当たり前の様に軍刀を差し出した青年から それを受け取る為、膝立ちして両の手の袂を くるりと自分の腕に巻き付け差し出した。 その仕草に、青年は苦笑して言った。 「そんな・・・昔のお武家じゃないんですから。 私にまで、そんな風に気を使わないで下さい」 青年の言葉を、女は気に掛けもしない。 「おかえりなさい」 代わりににっこり笑って言った女は受け取った軍刀を 捧げるように持ったまま立ち上がると、床の間へとその軍刀を運んで行く。 その後ろ姿を見遣りながら、青年も素直に返事を返す事にした。 「ただいま帰りました」 「今度は、随分と長い任務でしたんですのね」 「そんなに長い間、無沙汰していましたか?」 所定の場所に軍刀を置いて青年の方に向き直った女は、 月日を数える様に遠い目をした。 「・・・・・少なくとも、半年はお会いしていないみたいね」 言って、軽く睨んでみせた。 「それは・・・・・失礼しました、お継母さん」 「止めてくださいな、それ。 その[お継母さん]っていうの。 そう歳も離れていない息子から云われるのは、 余り気持ち良いもんじゃありませんから」 「分かりました。 じゃぁ、いつもの通りに[胡蝶さん]でいいですか?」 「よろしい」 胡蝶と呼ばれた女は鷹揚に笑った。 ここは[翠山]。 料亭としての顔と妓楼としての顔を持つ建物である。 同時に、この青年[高宮甲太郎]の生家であった。 戦時中とは言え、この種の商いが無くなる事はなく、 [翠山]も軍の上層部の方々の覚えが目出度いのが幸いし、 戦争が始まる以前も、今も、営業には然程の事も無く営業が続けられている。 そもそも家業は先々代の主であった祖父が始めた。 今の甲太郎にとって、どうにか家族と呼べるのは胡蝶ただ一人。 先代である父は数年前に他界し、生母に至ってはそれよりも随分と昔、 甲太郎が幼い頃に亡くなっていたし、世間体が何よりの親戚達とは、 祖父がこの家業を始めて以来付き合いが途絶えていた。 甲太郎の母亡き後、父は正式な意味での後妻を迎えるつもりはなかったらしく、 今もこの店の主の代理として采配を振るっている胡蝶は 内縁の妻という立場のままだ。 それでもその立場に胡蝶自身、不平不満が有る風でもなく、 また多感な時期にその存在を知らされた (というより以前から薄々感じ取っていた)息子の方も、 嫌悪感を持つ事もなく、かといって不在だった母親に今更甘えるでもなく、 無理ない程度に互いを認め合い、付かず離れずの関係で在ろうとし、 そうして暮らしてきた結果が今のこの状態であった。 他人から見れば奇妙な関係であるかもしれなかったが、 当事者の二人にとっては、一番居心地のいい関係であった。 胡蝶はそもそもこの見世に出ていた妓だったが、 その美貌と、何より気立ての良さと気風の良さに甲太郎の父親が 俗に言う[店の品物に手を出してしまった]結果、 父親に請われるまま、内所で暮らす事になったらしい。 馴染みの客も多く、このご時世にも関わらず、 面倒を見たいと言った旦那衆や軍人も、それこそ山と居たらしいが、 胡蝶は悉く首を振り続け、甲太郎の父親と生きる決心をしたそうだった。 同僚の妓達始め男衆達、料亭の仲居達や料理人、 下働きの者達にまでに慕われていた胡蝶は案外すんなりと この店の女主として、夫亡き後の[翠山]を切り回していった。 一方、甲太郎はと言うと・・・・・。 この手の職業を生業とする家庭の子供としては、 大半の場合と同じ様な成長過程を辿っただろうと思われる。 まず家庭内では、父親はいつも何が忙しいのか飛び回っていて その殆どが留守がちであったし、母親は身体の丈夫な人ではなく、 遂に母親が亡くなってからは、流石に下働きの女達ではどうかという事で 正式に乳母が雇われ、高等小学校を卒業するまで 甲太郎はその乳母の手によって育てられた。 高等小学校までしか乳母に傍に居てもらえなかったのは、 もともと乳母も高齢で、これ以上の奉公は無理と泣く泣くではあったが 家族の元へと帰ってしまったからだった。 その歳になれば甲太郎も、母親が居なくとも 大して気にはならない振りが出来たし、 そうこうする間に胡蝶が内所へと移って来て、 不思議な親子関係が段々と築かれていった。 家の外では学校に上がった途端、 同級生は勿論上級生にまで苛めの対象にされたが、 生来の負けん気と忍耐強さで乗り切った。 勉学でも馬鹿にされるのが嫌だったのと、 もともと勉強が嫌いではなかったので 学年では一度も主席を譲る事無く卒業できたし、 身体を使う事でも人より抜きん出た体力と運動神経で活躍、 皆に自分の存在を認めさせていった。 そうしていつしか周りから一目置かれる程になっていたいた甲太郎は 大学を卒業後、自分自身で考えに考えて出していた結論に従い、 海軍へと入隊する。 どうせ甲太郎達の年齢だと、将来戦争は避けられそうに無かったし、 そうなると召集されるのは必至だ。 いざと言うその時に他の仕事に就いていた場合は離職しなければならないし、 家業を継ぐ事は最初から考えてもいなかった。 自宅近くに海も在って、店の客筋に海軍上層部の関係者が多く、 そのスマートな制服姿に少年の頃から憧れていたというのも 海軍入隊の理由の一つだった。 入隊当初は少尉として、その後メキメキと頭角を現し、 僅かの間に中尉に昇進している。 しかもその才能を見込まれ、軍令部の朝倉大佐直々の御声掛かりで 今では情報部に勤務中だ。 そうなると仕事柄、そうそう家にも帰れず、 任務の内容によっては今回の様に半年ぶりの帰宅というのも 珍しくは無いとなるのであった。 久々に帰って来た家は、相変わらずの佇まいで其処に在って、 中の様子も何等変わりは無く、毎度の賑やかさで甲太郎を迎えた。 にしても、今日の騒がしさはいつも以上に感じられ、 家業に全く興味の無い甲太郎としても、 つい継母に尋ねずには居られなかったのだ。 「誰です?」 当然、軍の上層部のお偉いさんの誰かだろうと思って聞いてみる。 長火鉢の猫板の上に、甲太郎の分のお茶を入れたのを置きながら 胡蝶は何の気なしに甲太郎の問いに答えた。 「ちょっと嫌なお客さまなの。 そろそろ、アタシも顔を出して釘を刺して来ようと思ってたんですけどね・・・・・」 胡蝶が女将になってからも、女主人とは言え[翠山]は客層、客のあしらい、 料理、その他と一流を保ち続けていた。 妓時代の人脈と人柄、運と度胸。 どれもが胡蝶を持ち上げ、味方していたのである。 その胡蝶が苦い顔をするとは、余程の客らしい。 「私も行きますか?」 「大丈夫、私一人で充分。 いざとなれば、男衆も居ますしね」 異例の速さでの出世とは言え、今の甲太郎はたかが中尉。 上層部のお偉いさん相手に甲太郎では役不足であったし、 何より息子としての甲太郎が、もしも相手の不興をかってその結果、 前線へと飛ばされる事になったりしたらという 子を思う母親としての胡蝶の思い遣りをも感じ取る事が出来た。 胡蝶の気持ちを察して、甲太郎はそのままこの件から大人しく引く事にしたが、 続いた胡蝶の言葉に、即座に考えを改めた。 「此処に着いた時から皆さん大分出来上がっていらして。 中でも一人、気になる方がいらっしゃるんですよ。 何だかその方、無理矢理連れて来られたのじゃないかと思えて仕方ないの。 尋常な感じではなかったし・・・他の方たちと毛色が違うとでも言うのかしら? 酷く場違いな気がしてならなかったの。 随分と小柄で・・・でもその分印象的な、大きな目をした方でね。 それがアルコールでうるうると潤んでいたの。 アタシでもはっと見惚れるほどの綺麗な目をした方だったわ。 ・・・・・確か、[木崎]とか呼ばれていらしたみたいだったけれど・・・・・」 〜第14週〜 |