「あ、女将さん」
もう一度「いいから」と座敷へ付いてくるのを止めようとした胡蝶に甲太郎は、
もしもの時の為に付いてくるだけだからと言いながら
件の座敷の近くまで一緒にやって来た。
調度空いたお銚子等を盆に載せた仲居頭のお時が座敷から出てきた所で
胡蝶や甲太郎、それに男衆の政次を認めて声を掛けてくる。
チラと座敷の方を窺いつつ、お時は急いで皆を
廊下の影の座敷からは見えそうにない所まで誘う。
お時は声を潜め、それにより自ずと四人は額を付き合わせる格好になった。
「あら、坊ちゃんお帰りなさいませ」
甲太郎に律儀に挨拶をするお時に、甲太郎の方も「久しぶりだね」と笑う。
「お時さん」
窘める口調で政次が仲居頭の名前を呼ぶ。
「あ、ああ・・・すいません」
慌ててお時は小さく頭を下げた。
「で、どうなの?」
もう一度、先を促す胡蝶にお時が中の様子を話し始める。



余程不愉快な有様なのだろう、心底嫌そうな口調だった。
「大日本帝国も堕ちたもんですよ。
 頼りの軍人さん達があんな風なんですから」
「お時さん!」
再び、政次の小さくとも鋭い声が飛ぶ。
はっと口元を押さえ、お時が甲太郎の方を見遣る。
「大丈夫、気にしてないよ」
甲太郎の言葉に、ほっと息を吐いてお時は続ける。
「すいません、アタシったら。
 だって、あんまりだもんで・・・・・。
 とにかく、遊びは下手だし、お酒の飲み方、食事の仕方も
 凡そ上品とは言えなくて。
 傍に付いている妓達も大変ですよ、アレじゃ」
「そんなに酷いのかい?」
尋ねる政次に、お時は大きく頷いてみせる。
「酷いもんですよ。
 ウチの妓達玩具にするだけじゃ飽き足らず、
 挙句部下の人までいい様に扱ってますよ」
お時の話を黙って聞いている甲太郎の眉がピクリと微かに動いたのに、
他の者達は気付かない。
「部下の人って・・・あの、小柄な?」
「そうなんですよ、女将さん。
 あの人、ウチに着た時から具合悪そうだったでしょう?
 ウチに来る前から、大分無茶させられてたんじゃないでしょうか。
 今だって、もう散々に嫌って位飲まされてるのにまだまだだって。
 酒が足りないから持って来いって言うんですよ。
 それに・・・・・」
言い辛そうに、お時は一旦口を閉ざす。



そうして尚一層声を潜めたお時が続きを口にした。
「アタシが部屋から出ようとしたら、
 取り巻きらしい一人に呼び止められましてね。
 部屋の隅まで引っ張って行かれたんです。
 中は大騒ぎの真っ最中ですからね、
 内緒話なんてまともに聞こえやしない。
 最初はアタシも聞き違いかと思いましたよ。
 だから聞き返したんです。
 『は?何でございますって?』って。
 だって、何て言ったって思います?
 『この後、妓は要らない。
  黙って一部屋、用意しとけ』って言うんですよ。
 妓楼に来て、妓は要らないなんて。
 この仕事やってアタシも長いですからね、
 胡散臭さがぷんぷんしてくるじゃありませんか。
 真っ当な話じゃないってね、直ぐにピンときましたよ。
 ホンの何日か前から此処で働き始めた
 下働きの小娘にだって分かろうってもんですよ。
 ですから、ワザと聞き返してやったんですよ。
 けどそいつったら平然と、下衆に笑いながら言うんです。
 『連れ込み宿代わりに使うんだ。
  そもそも、こんな商売してるんだ。
  此処じゃ、そう珍しくもあるまい?』ってぬかしやがった」
その時の事を思い出したのか、ついお時の口調が汚くなくなっていく。
「あの野郎・・・何かとんでもない事考えていやがる。
 一応、言ったんですよ。
 ホントはウチの妓の誰一人、こんな奴等の相手させるのは
 我慢ならないんですけどね、まさか素人さんとかを連れ込んで
 嬲り者にでもするんじゃないかと心配になりましてね。
 それならそれで、手を打たなきゃならないし。
 『誰も、お相手はしなくてよろしいんですか?』ってもう一度確かめたら、
 『なに、今日のお楽しみはもう準備万端整ってる。
  要らん気を廻さんでいい。
  お前達は言われた通り、黙って部屋を用意しとけばいいんだ』
 そう言って、嫌な目で見たんですよ。
 あの、さっき言った小柄な軍人さんを」
その場に居た胡蝶と、話をした当人のお時は話し終えると同時に
ぶるりと身体を大きく震わせた。
政次は忌々しげに舌打ちを一つ。
甲太郎は暗い目をして座敷を見遣った。



胡蝶は鳩尾の辺りの帯の中央部分に親指を差し込むと、
帯揚げをぐっと一押しして気合を入れ直した。
幾ら相手が軍人で、戦時中とは言っても、
この『翠山』で遣っていい事と悪い事が有るのだという事を、
モノを知らない馬鹿共に教えなければならない。
海軍大将を始めとする陸・空三軍部及び政財界にまで名を知られた『翠山』で、
この様な恥も知らない蛮行同然の行いが通用すると思っているのか。
そう思っただけで、夫亡き後、この店を守ってきた女主人として、
胡蝶は腸が煮えくり返って仕方ない。
馬鹿にされたものだと・・・・・。
『翠山』の女主人がどれ程のものか、
その愚かな飾り同様のおつむに知らしめてやる。
天下の『翠山』を、選りにも選って『連れ込み宿代わり』等と。
二度とこの店の敷居は跨げなくしてやる。
そう腹の底で思いながら廊下の影からその身体を
ズイと現し座敷へと歩き出した胡蝶の手を、後ろからそっと握ってきた手が在る。
振り向くと義理の息子が笑っていた。
「お継母さん、物騒な顔してますよ」
「また・・・そのお継母さんって止めてって言ったでしょう」
「でも、義理とは言え息子は息子ですから。
 息子が母親の心配するのは当たり前でしょう?
 駄目だと言っても付いて行きますよ」
「だから、いいって・・・・・」
甲太郎は皆まで言わせなかった。
「私はこの店の跡継ぎではないですけど、貴女の息子ではありますから」
「甲太郎さん・・・・・」
「それに・・・
 同じ軍人として、その下衆な顔とやらを見ておいてやろうかと思いますしね。
 ほら、私も情報部勤務ですから。
 外敵だけが対称でなく、国の内側にも目を配る。
 それが私の仕事です。
 特に士官の人柄、趣味、思考、日常においての行動、
 そのどれもに目を光らせていないと。
 上司の朝倉からも、そう常々言われていますから」
義理の息子は、言外に可也恐ろしい事を言っていた。
つまりはいざとなれば今回の事をネタに、
相手を如何様にも処分してみせようと言っているのだ。
例え卑怯と言われようとも構わない。
使えるモノは、何時だって、何だって使えばいいのだ。
甲太郎の勤務する情報部の力も、胡蝶のこの店を元に築いたコネや人脈も。
そう、使い方さえ間違えなければ・・・・・。
甲太郎の話しに、一瞬胡蝶は思案する表情を見せたが、
そもそも頭の良い彼女の事だ、直ぐに艶やかに笑ってみせた。
「分かったわ、一緒に行きましょう」



昼間の静かな時ならば、シュッシュッと小気味の良い
胡蝶の履く真っ白な足袋が廊下を滑る音も、
今のこの騒がしさの中では聞こえる筈もない。
その後ろから歩を進める息子の足音も、
その男らしい体躯から想像しえた足音が聞こえて来る筈が、
訓練された結果なのかコソとも聞こえてはこない。
そんな二人が、開け放された襖の前に控えた。
部屋の中から風流と粋を好む人種であれば何より好むであろう
手入れの行き届いた庭が見渡せる様にと開け放された襖の前に。
「失礼致します」
胡蝶の、凛と通る声に、それまでの喧騒が嘘の様に静まり返った。
室内の視線が、一斉に声の方へと向けられた。
当代一と評判の『翠山』の女主人が入り口に控えていた。
「本日は、『翠山』にお越しいただき、誠にありがとう存じます」
両手を付き、胡蝶は深々と御辞儀をした。
それからゆっくりと上げられた面は、この見世で御職を張っていた頃か、
より以上の美しさと華やかさに彩られていた。
客達は勿論、その場に呼ばれていた店の者達も思わず溜息を漏らす程だ。
上座に座っていた将校が唾を飲み込みながら声を掛けてきた。
「よ・・・よう、女将。
 久しぶりだな」
「横田少佐、お久しぶりでございます」
妖艶に胡蝶が笑う。
その様子に、横田と呼ばれた男はもう一度生唾を飲み込む。
「随分と挨拶が遅いじゃないか。
 あんまり遅いんで、俺みたいな下っ端には挨拶も無しかと思っていたぞ」
内心では『俺みたいな下っ端』等とはこれっぽっちも思っても居ないくせに、
横田は胡蝶に嫌味を言ってきた。
「いいえ、滅相もございません。
 こちらのお座敷が、あまり楽しそうでいらっしゃいましたから、
 アタシなんぞのばばぁ女将がご挨拶に伺って、興醒めしたらと思いまして。
 それで遠慮していたんでございますよ」
胡蝶はさり気ない風を装いつつ、
横田自身の『下っ端』発言を否定しては遣らない。
内心では『下っ端』どころか『下衆』と思っていたのだから。
「何を馬鹿な事を。
 アンタをばばぁなんぞと思うわけないじゃないか。
 どうだ、一杯位飲んでいかんか?」
好色そうな目で胡蝶の顔と云わず、体中を眺め廻し、
手近な杯を手に横田が言った。
「まぁ、ありがとう存じます。
 折角少将直々の御杯を頂戴できるんでしたら、お願いが」
「ん?何だ、言ってみろ」
にやけた顔が聞いてくる。
「その御杯、ウチの息子にも一杯頂戴出来ませんでしょうか?」
「む、息子?!
 胡蝶、お前息子が?!」
「はい、義理ではございますが」
そう言って、胡蝶は背後に控えていた甲太郎へと視線を送った。



甲太郎は、最初に継母が挨拶をした時から平伏して待っていた。
「息子の甲太郎でございます」
継母の声に、やっと甲太郎は伏せていた面を上げた。
先程までの暗い色は姿を消し、無表情な目が部屋の中を見据えた。
感情の窺えないその目は、聡い者にならいっそ不気味な程に映ったが、
酔って緊張感の欠片も失くした愚かな者達は、
そうとは気付きもしなかったらしい。
ましてや一度きり、その目に浮かんだ感情の色には、
余りに短い瞬きの間で尚の事、酔っ払い達どころか、
その部屋の誰一人気付く者などいなかった。



見据えた部屋の上座。
横田の隣に、その小柄な身体は在った。
それまでの喧騒が途絶えた事に、漸く気付いたらしいその人は、
辛そうに閉じていた目を抉じ開け、気だる気な仕草で自分の身体を支え、
如何にか皆の視線の集まった先に居た胡蝶と甲太郎を見遣った。
それだけでも身体が辛いらしい。
自然と眉が顰められた。



その様を見た甲太郎は思った。
顰められた眉は、おそらく甲太郎を其れと認めてのものではないと。

                                       〜第15週〜