−ありゃ誰だ− −あぁ気持ち悪ぃ− −どっかで見たなぁ− −だりぃ− −誰だったっけかなぁ− −ちきしょう腹に喰らった蹴りが効いてんなぁ− −だめだ思い出せねぇー −ザルの筈の俺様が情けねぇ− −そもそも本当にあいつを知ってるのか俺は− −何だって俺は此処に居るんだ− −おいおいまだ飲めってか− −無理無理もう無理だって− 木崎の思考は性質の悪い酔いのせいで既に支離滅だった。 あちらに行ったりこっちに来たりで纏めるなど出来はしない。 朦朧としかけた意識を如何にか保ってはいたが、 それも何時までもつか分からない。 座敷の入り口に控えて横田と言葉を交わしている胡蝶や甲太郎の事も ぐるぐる取り留めなく回り続ける思考の一部と化していた。 少しでも気を抜けば、今直ぐにでも意識が飛んでしまいそうになる。 無意識にゆらゆらと揺れる身体に、気分の悪さだけが増していった。 「高宮甲太郎です」 正座した足の付け根の部分に置かれた手は指先まできっちりと揃えられ、 背筋は何処までもすっきりと伸ばされて、 声はと言うと上官に対する媚も諂いも無い。 ただただ淡々と上座にいる横田へと挨拶をする。 その様子が、少佐とその取り巻き達には不快に感じられたらしい。 明らかに甲太郎よりも官位が上と思われる輩の中には、 ふんとあからさまに笑う輩も居た。 「[翠山]の名物女将に、義理とはいえ息子がいたとはな。 しかも、こんなにデカイ息子がな」 何処かで下卑た笑いが聞こえる。 「これで、女将が若い身空にも関わらず、 何時までも一人身で見世を守っている訳が 分かったというものだ。 これほど若く、見目の良い息子が傍にいるのだものなぁ。 そうそう身を固める気にもなるまい、なぁ女将?」 座敷内は少佐側の人間の野卑な笑い以外、静まり返っている。 しかし聞くに堪えない侮辱の言葉にも、当の親子は平然と座っていた。 「息子の事をお誉めいただき、ありがとう存じます。 本当に、自慢の息子でございまして・・・・・。 仰るとおり、もういい歳をしていると言うのに、 なかなかこれはという娘さんに会えないようで、 未だに結婚も出来ずにこうしております。 ですからあれこれと身の回りの事を母親である私がしてやらないと。 この調子ですので忙しくて、私の方も他の殿方にまでは。 本当に、困った息子でございます」 胡蝶は、さらりと横田や取り巻きの言葉をかわしてみせる。 「で?お杯は頂戴できますので?」 再びの艶笑に釣られた横田が、鼻の下をだらしなく伸ばして 手にしたままだった杯を上下に振る。 「よしよし、こっちへ来い。 息子の方もな、一杯位飲ませてやる」 「ありがとうございます」 胡蝶は礼の言葉を口にして、 息子の甲太郎はもう一度畳みに両手を付いてお辞儀をした。 上座の中央に胡坐を掻いて座る横田の前に親子は進み、並んで座った。 横田の眼の前に胡蝶が座ったせいで、必然的に甲太郎の眼の前には 少佐の横に座っている木崎がくる事となった。 しかし、甲太郎が木崎を見ることは無く、親子は二人して少佐のみを見る。 整った顔立ちの二人に見詰められた少佐は、 身の置き所が無いとでも言いた気に 慌てて手にしていた杯を胡蝶へと差し出す。 「ホレ」 そう言って差し出された杯だったが、 胡蝶は受け取る為の手を出してこない。 「どうした?」 ムッと寄せられた眉と、不機嫌さが滲み出た声。 しかし胡蝶は怯みもしない。 「少佐。 少佐の御武勲は常々伺っております。 ですから叩き上げでもその地位まで御昇りになった。 これからだって、まだまだ上をお目指しになるのでしょう? ですからそのお力代わりのお杯。 まずは息子に頂戴できませんでしょうか? コレも、何時前線に赴く事になるかわかりませんので。 少佐から分けて頂いた武運で、 少しでも御国の為にお役に立てますように」 コレと言われた息子の方も、横田に目礼を寄越す。 どうしたものかと考えたらしいが、 結局は胡蝶の言う事を聞いてやる事にした横田は、 やはり国に仕える軍人であったと云う事か。 御国の為、の一言が効いたらしい。 今度は杯を甲太郎へと差し出しながら、何気なく聞いてみた。 「お前、見掛けないが何処の所属だ?」 ハッと息を呑んだ横田の取り巻きの一人が言った。 「少佐、そいつは!!」 続く言葉に、甲太郎の声が重なった。 「軍令部第一部第一課に所属しております。 作戦課長、朝倉良橘が私の直属の上司になります」 第一課。 朝倉。 その単語が何を意味するか。 その場に居た軍属の、誰もが気付いた。 自分達が、何やら取り返しのつかない事をしでかしてしまったのではないかと。 ワナワナと横田の杯を持った手が、 甲太郎の方へと差し出されたまま震えだす。 「そうだわ、お杯を頂戴する御礼と言っては何ですけれど・・・・・」 ニィッと胡蝶が笑う。 今度は何だとばかりに横田達の視線が胡蝶に返ってくる。 「確かそろそろ海軍軍令部の総長、 楢崎大将を始めとするお歴々がお越しになる頃。 普段から息子も言っておりますけれど、 総長様になんて滅多にお目に掛かれる事など 無いんだそうでございますね。 ねぇ?甲太郎、そうなんでしょう?」 「はい、私もただ一度、朝倉大佐のお供をして廊下を歩いていたおりに、 偶然廊下でご挨拶出来たっきりです」 「いい機会でございます。 私が皆さまに横田さまをご紹介致しましょう。 いえ、大丈夫でございますよ。 楢崎様は海軍大将でいらっしゃっても、とてもお優しい方。 他のお歴々も昔からのウチのお客様で、 私共を可愛がって下さっていますの。 そうだわ、他にもご紹介出来ないかしら? [翠山]にとってはこれまでの歴史と、客層が何よりの財産です。 軍部、政財界。 この[翠山]の女将に仰っていただければ、 如何様にもお取次ぎいたしますよ。 大事な息子に杯をいただけるのですもの。 これしきの事、如何様にもさせていただきます。 さ、どうなさいます?」 遂に、ぼとりと音をたてて空の杯は畳みの上に転がった。 先程までの横田等の赤ら顔も今は蒼白で、 額には冷や汗であるに違いない汗さえ滲んでいる。 「あらあら、お杯が。 新しいものとお取替え致します」 転がった杯を拾い上げ、後ろをも見ずに胡蝶は杯を差し出す。 普段ならば人前に出る事の無い男衆の政次がいつの間にか控えていて、 その杯を受け取った。 「直ぐに替えがまいりますから。 それとも・・・・・」 胡蝶の続きの言葉への一拍の間が、横田には酷く長く感じた。 「もう、お帰りになりますか? お顔の色も、優れずにいらっしゃるようですから」 もう、胡蝶は笑っていなかった。 「コノッ!!」 張り詰めた雰囲気を破って、調度胡蝶の左側から事の成り行きを伺っていた 取り巻きの一人が、胡蝶に掴みかかろうとした。 それを胡蝶は慣れた仕草でするりとかわし、背後の政次が押さえ込む。 「使用人の分際で、軍人に何をするか!!」 一瞬で畳に顔を抑え付けられ、身動きが出来ないようにされた男が喚き立てる。 他の取り巻き達も一斉に立ち上がり、一気に座敷内の雰囲気は険悪になった。 「やめんか!!」 横田の声が座敷に響いた。 「帰るぞ」 取り巻き達の視線が横田に集まる。 それ以上を睨み付ける様にして制すると、横田はすっくと立ち上がった。 「少佐!!」 それでも食い下がる部下を無視して、 横田は座敷を後にするため入り口へと歩き出した。 抑え付けられていた者も、政次が手を離すと同時に立ち上がり、 政次を睨み付けたが横田の後を追う事にしたらしく、 急いで自分も入り口へと向かう。 「加藤」 ゾロゾロと横田達に付いてゆく取り巻きの中の一人が名を呼ばれた。 「木崎を連れて来い」 横田が連れてきた者達の中で、木崎だけが未だに立ち上がれずに その場に座り込んだままだった。 その事に気付いた取り巻きの中でも官位が上の者らしい一人が、 末席に居た体格だけは人一倍大きな男に言い付けた。 命令にのっそりと男が歩き出し、進行方向の上座の方にいた妓達は 急いで脇へと飛び退いた。 遮る者はいなくなり、加藤と呼ばれた男は直ぐに木崎の元へと辿り着く。 横田達はというと座敷の入り口で立ち止まり、その様子を見ていた。 「立て」 加藤はボソリとそれだけ言って、木崎の二の腕の辺りを無造作に掴むと 立ち上がらせるべく力任せに引っ張った。 「・・・っ、ちょ・・・・・」 木崎の限界だった。 急に身体を動かした木崎が気分の悪さに耐え切れなくなったのと、 それは同時だった。 その場に居た誰もが、何が起こったのだか直ぐには分からなかった。 気付けば加藤が一人、座敷の中央、 誰も人の居ない所に地響きを起てて転がり呻いていた。 誰もが、甲太郎の仕業に違いないと気付きながら、 それでも巨漢の加藤の無様な様子に目を奪われていた。 そうして皆がそちらに気を奪われていた間に、 上座近くに居た者達には篭った音と、間違えようの無い異臭が漂ってきた。 振り向いた者たちの目には、其処に居るであろう木崎の姿を 皆の視線から庇う様に座る胡蝶と、 木崎を抱え込んでいるらしい甲太郎の姿が在った。 えづきながらも、目の前に在るのが神聖な軍服だと 木崎も辛うじて気付いているらしく、途切れ途切れながら 必死に謝罪の言葉を自分を抱き抱えてくれている者に呟く。 「・・・ぐ・・・ぷく・・・・・よご・・・て・・・す・・・・ま・・・・・せん・・・・・・・」 その間も、嘔吐は止まらない。 散々に呑まされた酒と、その前に受けた暴行に痛めつけられた木崎身体が、 悲鳴を上げていた。 甲太郎の濃紺の制服の胸元といわず、腕や腹、 何処も彼処もが木崎の吐瀉物で汚れてゆく。 けれど甲太郎は意にも介していない様で、木崎を腕に抱き続ける。 そうして言った。 「構いませんから。 楽になったら、もう目を閉じていらっしゃい」 優しい中にも、有無を言わせない口調に、木崎は言われるまま目を閉じ、 それまで何とか踏み止まっていた闇の入り口へと、その身を投じた。 〜第16週〜 |
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