暗い、暗い、闇の底。 ドンガメ(潜水艦)乗りには馴染みの世界。 物音一つ届かぬ筈の海の底に、 何故だか波の音がパシャリ、パシャリと聞こえる。 光の一筋さえ届かぬ筈の海の底で、 何故だか陽の温もりに似た暖かさを感じ取る。 普段ならば、二度と再びこの闇の底から浮上出来るのだろうかと、 掠める程ではあっても必ず浮かぶ緊張と不安が、 今は微塵も浮かんでは来ない事がいささか不思議ではあったが、 もう構わないと思った。 萎えた精神(こころ)と傷だらけの身体が求めていた。 馴染んだこの場所に、もう一時だけ居させて欲しいと・・・・・ 「ふぅ・・・・・」 内所の奥座敷に居た甲太郎の傍らに座った途端、 胡蝶が大きな息を吐いた。 「お疲れ様でした、お継母・・・胡蝶さん」 「はい、お疲れ様」 小首を傾げ、可愛らしいといっても差し支えない仕草で胡蝶が笑った。 「少佐は?」 「凄い勢いでお帰りになりましたよ。 あんなお客でも、お客はお客。 アタシも最後までお見送りしなきゃと思ってたんだけど、 玄関近くで『付いて来るな』って。 『こんな見世、二度と来るか!!』って、 取り巻きには捨て台詞まで頂いちゃったわ。 けど、ウチの皆も負けてないわよ。 お時さんなんか大急ぎで調理場行って、引っ掴んできた塩壷の中身、 いっぺんに全部、玄関で盛大に撒き散らしてたもの」 そう言って、胡蝶はカラカラと笑う。 自分の母親のこういうサバサバした所が甲太郎は大層気に入っている。 「でも、本当に後で何か言ってきたり、嫌がらせでも受けた時は、 隠したりせずに、必ず言って下さい。 私に出来るだけの事はしますし、 いざとなれば朝倉大佐にも助力をお願いしますから。 くれぐれも要らぬ無理や、無茶をしないで下さいね」 「ありがとう。 でも、言ったでしょう? ウチ(見世)の事なら大丈夫よ」 「いや、だから・・・胡蝶さん自身の事も言ってるんですけど」 「あ・・・あら、そっちの事? そっちも大丈夫」 「普段の外出だって、気をつけないと。 絶対に一人で出歩いたり、女性ばかりで出たりしない方が」 「大丈夫、大丈夫。 ちゃんと用心棒連れて行くから」 そこで、甲太郎も思い当たった。 胡蝶の行くところ、常に在る姿に。 胡蝶がお職を張っていた頃から、影にはあの男が居た。 見世の妓として、[翠山]の主の妻として、 そして今は女主人として在る胡蝶の後ろに。 影の様にひっそりと、男衆の政次の姿が在った。 元は同郷の幼馴染と聞いている。 最初に見世に入ってきたのは政次で、 それから親の借金を肩代わりする為に [翠山]にやって来た胡蝶と再会。 以来の付き合いだが、互いに互いの想いを 一度たりとも告げた事さえないらしい。 見世の商品たる妓とそれを守り、時には見張る男衆。 今は主人と使用人。 それだけの関係ながら、甲太郎には二人の間に交わされる 眼差しの意味が分かる気がしていた。 敢えて口に出しては聞かないけれども。 ふっと、胡蝶の視線が目の前の布団に横たえられている 木崎の寝顔へと向けられた。 「それより、こちらはどう?」 木崎の枕元近くで胡坐を掻いて座っていた甲太郎は、 僅かにずれた布団に気付き、それをそっと直してやる。 「大変だったでしょう? 幾ら小柄だっていっても、大人の男の人を、 しかも意識の無い人をお風呂に入れるって」 「風呂に入れるっていっても、それこそ汚れた服を脱がせて、 益々気分が悪くならないように、大急ぎで身体を洗って、 ホンの一瞬湯船のお湯に浸からせたと思ったら、 もう出たって位ですから」 何でもない事の様に話す甲太郎だったが、 今まで散々酔っ払いを相手にしてきた胡蝶には、 意識の無い相手の扱いが、どれだけ大変なのか、 自分でも身をもって知っていたので、 かなりの重労働であったのだろうとは容易に想像出来た。 「でも、結局一人でお世話したんでしょう?」 「軍隊に入れば、似たような事はよくあるもんです。 慣れてますよ、これ位。 それにこの人も何だか、事情が有りそうだったもので。 第一、途中で気が付いた時に、 見知らぬ他人が何人もで寄ってたかって自分を引ん剥いて 風呂で洗ってて御覧なさい。 流石にこれが私だったとしても、 きっと混乱してどうなるか分かりませんでしたからね。 政次さん達も手伝うと言ってくれたんですが、断りました」 「ふ〜ん、そう」 胡蝶は甲太郎の説明に、何故だか今一つ 納得し切れていなさそうな風だったが、 甲太郎の方はそれに気付かず話を続けた。 「ところで、見世の座敷の方はどうなりました?」 「ああ、そっちも大丈夫。 皆でちゃっちゃ〜っと片しちゃったみたい。 もし、木崎さんが気が付かれて、気になさったらお気の毒だから 言っておいて下さいね。 あの位、いつもの事だからって」 「はい」 甲太郎は素直に頷いてみせた。 「そうそう、大事な事言っておかなきゃいけなかったんだわ」 ポンと小さく一つ手を叩いて、胡蝶が言った。 「甲太郎さんの制服の事なんですけれどね」 今の甲太郎は、木崎を風呂に入れたついでに自分も汚れを落とし、 服の方も普段着に着替えていた。 「調度良かったわ。 明日っから6月でしょう。 衣替えだから、あの紺の制服はこちらで手入れをして、 次の時期にはちゃんと着れる様に用意しておきます。 夏の白い方のを、今し方、甲太郎さんのお部屋に吊るしてきましたからね」 たまにこうして帰って来る義理の息子を、胡蝶は胡蝶なりに愛していて、 何かと世話をやける事を心から楽しんでいる風だ。 息子の甲太郎も、ありがたいと思う。 「ああ、そうか。 言われて見れば、明日から6月でしたね」 この部屋には無い、暦を思い出してみた。 確かに今日は5月の末日だった。 「すいません、お手数かけて。 助かりました」 何処か他人行儀な挨拶だった。 この辺りが、本当の親子ではないという事なのだろうか? 甲太郎の礼の言葉に心の中で苦笑しながらも、 この息子の心根の素直さを思い、 これがこの子の心からの感謝の気持ちの篭った言葉なのだと知る胡蝶は、 軽い身のこなしで立ち上がると、 下方から見上げる息子に女将の顔で言った。 「さ、アタシはお座敷回って来るとしましょうかね」 「え?」 「『え?』って、甲太郎さん・・・。 さっきのお偉いさん方の話は口から出任せ言ったんじゃないのよ。 今、楢崎大将始めその他にも大勢お客様いらしてるんですから」 「あ・・・そうなんだ」 思わず零れた甲太郎の小さな呟き。 今度こそ苦笑を漏らし、胡蝶は座敷を出てゆく。 「それじゃ」 開け放された障子の影から、最後に胡蝶の手だけが ヒラヒラと振られたのを見送って、甲太郎は視線を木崎の寝顔へと移した。 障子同様、縁側のガラス戸も開け放された内所は静かだった。 今のこの時間、誰もが見世の方で忙しく働いている時間で、 思えば子供の頃からこの時間は殆ど一人きりでいることが多かった事を 甲太郎は思い出していた。 亡き母は、その殆どを病身の為に布団の中で過ごしていたし、 今思えば、物心付いて母が亡くなる頃に 余り近くに寄らせてもらえなかったのは、胸でも患っていたのかもしれない。 それでもたまに傍に寄らせて貰えた母は、優しく・・・・・どうしようもなく儚く、 夢の様な人だった。 会う度に、布団の厚味だけが増えてゆく。 同じ布団の筈なのに、中の母の体の方が薄く、薄くなってゆくので、 子供の自分にはそう見えていた。 ・・・・・今、眼の前に眠っているこの人はどうだろう? 夏掛けの薄い布団。 その中に在るはずの身体の存在が、酷く頼りない。 これほど覇気の無い人だったろうか? 甲太郎は自分自身の記憶の中の木崎を思い出す。 面だとて、以前見た時より一回りといわず小振りになっているに違いなかった。 今日だけの事でなく、普段の生活が伺える貌だった。 そよと風が短目の木崎の髪を揺らした気がした。 額に僅かに掛かる其れを除けてあげようと伸ばした指先は、 最初の目的をこなした後も甲太郎の膝の上には戻っては来ず、 続け様に木崎の額から頬jへと滑る。 途中、一旦戸惑いがちに止まったものの、 指先は最後に木崎に息遣いを確かめる様に薄く開かれた唇で止まった。 その甲太郎の指先の感触に、微かに動いた唇は・・・・・ 誰かの名を呼んでいる気がした。 〜第17週〜 |
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