春と夏の境の清々しさの中、梅雨にはまだ幾分か早い、 一年で一番過ごし易い季節。 見世の喧騒も、夜が更けて行くのと共に徐々に静まってきた。 もう一時もすれば、帰りの客は見世を後にし、 泊まりの客は今宵の華に手を引かれ其々部屋へと姿を消す筈だった。 それでも木崎は未だ眠り続けていた。 寝返り一つせずに懇々と眠り続ける様は、酒のせいだけとは考えられない。 まるで糸の切れた操り人形か油の切れたからくり人形。 壊れた人形が横たわっている様にみえる。 先程の様子では、口にしたであろう酒のその大部分が体内に吸収される前に 体の外へと出し尽くせた様だったし、吸収されてしまった酒は寧ろ、 此れまで無理ばかりしてきたのであろう木崎の精神と身体とを休ませる為の 入眠剤としての働きを果たしている様だ。 随分と、荒んだ生活をしてきたのだろうと甲太郎は痛ましいものを見る眼差しで 木崎の寝顔を見詰め続けていた。 傷付いた人の眠りが少しでも長く続きます様 傷付いた人の眠りが僅かでも穏かな夢に包まれる様 傷付いた人の眠りが微かでも明日に繋がります様 せめてもと甲太郎は心の内で祈るのだった。 「坊ちゃん」 声の方向に目を遣ると、お時が座敷の入り口の廊下に 膝を付いて控えていた。 「女将さんが、そろそろお休みになっちゃどうかと仰ってますが?」 「もう、そんな時間か・・・・・」 独り言の様に甲太郎は呟いた。 この奥座敷から甲太郎の部屋まで、そう離れているわけではなかったので、 部屋で眠ろうかと思い掛けたが、お時の声がそれを遮った。 「坊ちゃんにお尋ねして、何ならお布団をコチラにお運びするようにと 女将さんからは言い付かってますけど、どうしましょう?」 「私が、此処で?」 「此方が気が付かれた時に、 坊ちゃんが傍にいられた方が良いんじゃないかって」 「・・・・・」 甲太郎は思案する素振りで僅かな間を置く。 しかし其れはあくまで「振り」でしかなくなっていたのだが、 お時の手前、申し訳程度の思案の時間をとってみた。 「そうだね・・・・じゃぁ、私も手伝うから布団をこっちに運んでこようか」 「あら、よぅござんすよ。 坊ちゃんは此処に居てくださいな。 アタシ共で運んできますから。 下働きの子が一人居りゃ大丈夫。 な〜に、夏蒲団ですからねアタシにだって楽々運べますよ。 何なら一人で二度位往復すりゃいいんですから、任して下さいな」 「滅多に帰って来ないんだから。 偶に帰って来た時くらい、手伝わせてよ。 第一、私はお客じゃないよ」 そう言った時には、甲太郎はさっさと立ち上がり お時の方へと歩き出していた。 立ち上がり様、チラと木崎の様子を伺う事は忘れずに。 その殆どを甲太郎が両の手に抱え、せっかく付いて来たのだからと お時はその手に甲太郎の枕と寝巻きにしている浴衣を抱えて 奥座敷に戻ってきた。 何だかんだと言いながら、お時も甲太郎の事が可愛くて仕方ないのだろう、 構って遣りたくてたまらないのだ。 [翠山]の誰もが偶に帰る甲太郎にそんな風に構いたがる。 普段の己を振り返り、偶の帰宅の折位は 甲太郎も自分に我慢の出来る範囲の中で 自分に対しての皆の構いたがりを許す事にしていた。 お時は嬉しそうにいそいそと甲太郎の大きな歩幅の後から、 着物の裾を気にしながらも、精一杯の速度でパタパタと付いてきた。 先に部屋に入った甲太郎は、当然まずは木崎を見遣る。 此方も当然の事ながら、それ程の時間が経っている訳でもなく、 先程から僅かなりとも変化は見られなかった。 慎重の上にも慎重に、抱えてきた布団の山を木崎の傍らに降ろす。 物が物なので少々手荒に扱ったとて 木崎が目を醒ます程の音がするとは思えないが、 それでもバタバタする気配等で起こしてしまうのではないかと用心し、 極力そうッと布団を敷き始める。 「坊ちゃん、こっちはアタシが引っ張りますよ」 お時が小さな声で敷布を寄越せと言ってきた。 甲太郎が敷き布団の上に広げた真っ白な敷布を 足元の方ではお時が引っ張り、キチンと広げ直してその裾を 布団の下に挟みこんでくれた。 お時同様、甲太郎の礼の声も囁くほどに小さかった。 「ありがとう」 「どういたしまして。 さ、此方が目を醒まされたら大変。 上掛けの方もこっちに下さいな」 言われるまま、伸ばされた手に夏布団の薄い上掛けを手渡した。 甲太郎が自分の枕を定位置に置きお時の方を見ると、 いつでも眠れるようにとの気遣いなのだろう、 三つに折られた其れは足元に、甲太郎を眠りに誘うように 控えさせられていた。 ポンポンと二つ三つ布団を軽く叩いたお時は 「それじゃ、アタシはこれで」と言って立ち上がる。 そうしてもう一度廊下で座り直すと、「おやすみなさいませ」とお辞儀をした。 「遅くまで手伝ってもらって、ありがとう。 おやすみ、気を付けて帰るんだよ」 今から見世の目と鼻の先に在る自宅に帰るであろうお時に挨拶を返せば、 僅かな労わりと感謝の言葉にさえ嬉しそうに笑い、 お時は奥座敷から下がっていった。 振り向いた視線の先、木崎の寝顔を見た甲太郎は、 この調子なら今暫くは木崎も目覚める事はあるまいと、 自分も明日軍務が休みな訳ではなし、さっさと寝てしまう事にした。 枕の傍らに置いておいた浴衣を取ると、座敷の隅に行って着替えを始める。 其れはゆぅるり、ゆぅるりと浮かび上がってきた。 水面を目指す気泡の様に。 ぽっかりと、一瞬だけ水面に姿を現す空気の泡の様に浮かび上がった意識。 その瞬間みたいに木崎の瞼がぽっかりと開いた。 一度、恐ろしく時間を掛けてぱちりと瞬きした瞼の下から 真っ黒で大振りな瞳が現れた。 気を抜けばまた直ぐにでも閉じてしまいそうな瞳に、 最初に映ったのは見慣れぬ天井。 高くて広い、そして美しい木目の天井には、やはり見覚えがなかった。 此処はどこなんだ?という自問の答えを探すべく、 何かしら自分の知るものがないかと、 動かぬ身体に視線だけをずらそうとした時、 足元で何かが動いた気配がして木崎は其方へと視線を動かした。 それだけでも身体は酷く疲れを覚える。 また急速に狭まってくる視界に、木崎は自分がまた逃れ様の無い睡魔に 連れ去られるのだと察知した。 無理矢理抉じ開けた目に捉えたのは、背の高い男の後ろ姿。 今まさに浴衣に包まれてしまう直前の、広い背中だった。 行灯の光に揺れる影は大きい。 高い背、広い背中、大きい影・・・・・妙に安堵し、 木崎は湧き上がってきた思慕の情に包まれた。 忘れようにも忘れられない人の名が浮かぶ。 追い付いた睡魔に、逃れきれずに連れ去られる間際、 それでも伸ばした片方の指先は、けれども誰に取られる事もなく、 音も発てずに力無く布団の上へと落ちていった。 気配に振り返る。 浴衣の帯を結びながらそっと伺うが、木崎は相変わらず微かな寝息とともに 其処に在った。 気のせいかと一旦は自分の脱いだ衣服を畳むべく逸らした視線を、 甲太郎は慌てて戻した。 先程とは確かに、何かが違う。 気を凝らせば、布団の端から僅かに覗く指先。 手にしていた衣服を傍にあった乱れ箱に入れると、 甲太郎は静かに木崎の元へと近寄っていった。 隣の自分の布団の上へ腰を降ろし先程までしていた様に胡坐を掻いて、 布団から覗く指先を片手で掬い上げてみる。 今度こそ、目を醒ましやしないかと様子を伺うがその気配は無い。 深い眠りの中に居る相手に対して罪悪感が無い訳ではなかったが、 少しだけ大胆になってもう片方の手も添えてみた。 調度両の手で挟み込むように包み込む。 同性の其れにしては自分の其れよりも一周りも二周りも小作りな手は、 甲太郎の手の中にすっぽりと包み込める程の大きさだった。 改めて今は布団に覆われている小柄な身体を思い返せば、 致し方の無い事かと知らず溜息が漏れた。 その小柄な身体の目に見えぬ部分に、 どう見ても暴行を受けたと思われる傷や痣が其処此処に有るのを、 甲太郎は先程浴室で見て知っている。 顔等の目に見える部分ではなく服に隠れて見えない部分という場所に、 加害者側の悪意を感じ、甲太郎は不快気にその眉を寄せた。 手酷く殴られたり、蹴られたりしたのだろう。 なかでも鳩尾部分に有る痣等は、 加害者の物と思われる足の形に色を変えていた。 酒を飲まされた上での暴行に、手も足も出なかったのか? それとも上官に逆らえない軍規を盾に、 言いように暴行を受けさせられたのか? どちらにせよ、眼の前の木崎は甲太郎の知る、 嘗ての木崎とはまるで別人に思えた。 憶えているのはこの小柄な体に不釣合いな程だった、 初めて見た時の眼差しの力強さ。 零れ落ちんばかりの大きな黒い瞳が、 甲太郎を睨め付けてきたのを憶えている。 閉じられた瞼の下には、 その力強い眼差しをもつ瞳が在らねばならない筈だったのに、 一体、どうしたというのか? 唯一つ、思い当たる事が無い訳ではなかったが、 甲太郎もまさかそれ程とは思っていなかったのだ。 あの存在が、それ程のモノになっていたのだという事に・・・・・。 〜第18週〜 |
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