最初は違和感。



背の高い指揮官と、その傍らに在る小柄な副官と思しき人影。
凸凹な上官と部下という光景を見た事が無い訳ではなかったし、
反対に凸凹な部下と上官というのだって何度も見てきた。
なのにその二人に限って、甲太郎は妙に興味をそそられた。



軍法会議に招集された伊16の艦長を艦内まで迎えに行った部下が
件の艦長を連れて漸く艦から降りてきた。
軍用車の隣で其れを見ていた甲太郎は、眼の前に来た絹見に敬礼する。
「私がご案内する様、命じられました。
 軍令部第一部第一課所属、高宮です」
良く良く見ていれば分かる程度微かに絹見は片方の眉を上げた。
「伊16艦長、絹見です。
 わざわざ出迎え、ご苦労様」
今や甲太郎達が自分を司令部に措ける吊るし上げへと迎えに来たのだと
気付いている筈なのに、のんびりとした口調の絹見の言葉は、
出迎えに来た者達に対しての心からの感謝の言葉なのか
それとも嫌味としてのモノなのか、情報部という特殊な場所で働く甲太郎にさえ
判断が付きかねた。
ただ、軍部内の絹見に対する風聞を聞く限り、
甲太郎には絹見の言葉は前者のモノに思えた。
「いえ、任務ですから。
 それより、帰還されたばかりで恐縮ですが早速」
甲太郎は言って、自分の傍らの軍用車の後部座席のドアを開け、
絹見が車に乗り易い様に一歩引いて待つ。
「ありがとう」
絹見は礼を言って車に乗り込んだ。
寸前、艦の方へと目を遣った様に甲太郎には思え、
自然と其方へ自分も視線を遣った。



露天艦橋に、ポツンと小さな人影が有った。
距離と逆光で、相手の表情は見えない。
それでも、相手が絹見を見ている事と、乗り込む寸前に絹見が目を遣った先が
その小さな人影だったと甲太郎には確信できた。
絹見に続いて車に乗り込んだ甲太郎は、
もう二度と艦橋に佇む人影に目を遣らぬ絹見に代わり
車外のサイドミラーに移る後方の艦橋の人影を見えなくなるまで追い続けた。



[吊るし上げ]は其れに留まらず、開会後直ぐ[簡易軍法会議]の様相を呈した。
既に用意されていた軍令により、絹見は潜水艦伊16艦長の職を解かれ、
陸の上の教官という閑職へと追い遣られる事となった。
しかも、直ちに。



事情聴取ならばそれなりの時間が要ると思い
情報部に戻り他の仕事に勤しんでいたた甲太郎を、
それまで話していた施設内部用電話の受話器を
元に戻した上官の朝倉が呼んだ。
「高宮、居るか?」
甲太郎は、急いで朝倉の机へと赴く。
「お呼びですか?」
朝倉は座っていた椅子をグイと回転させる事によって、
机の前に控えた甲太郎に対して真横を向いて座る格好で話しだした。
両の手は其々の肘掛に据えられいたが、
片方だけがトントンと癇症気味のリズムを刻んでいる。
何か、上官を苛立たせる事案が持ち上がったのだろうかと甲太郎は考えつつ、
表情でも何か分かるだろうかと朝倉の顔を見遣った。
しかし朝倉の表情は普段のそれで、今の朝倉の心情は伺えない。
已む無く朝倉の視線を追う。
朝倉の視線の先には壁に貼られた世界地図。
「・・・日干しのドンガメ乗り・・・・・」
ボソリと朝倉が口にする。
「は?」
「笑えんな・・・・・」
再び同じ口調で朝倉が呟いた。
誰の事を指しているのか、甲太郎にも理解できた。
背筋を伸ばし、後ろで手を組んで甲太郎は朝倉の続きの言葉を待った。
徐に朝倉は甲太郎に告げた。
「一度、絹見大佐を艦へ。
 身の回りの物を纏めさせ次第、そのまま連れて帰って来い。
 絹見大佐自身の逃亡及び命令違反・造反の恐れは無いだろうが、
 奴の部下達の事が僅かに気にならぬでもない。
 何事も無く、速やかに連れ帰って来い。
 出来るな、高宮?」
出来るか?との問い掛けではなかった。
出来て当然。
そんな朝倉の口振りだ。
「はい」
甲太郎の方も同じ口調で返事をした。
「よし、行って来い」
「はっ!!」
ビシリと敬礼、回れ右して部屋の外へと向かう甲太郎に対し、
世界地図に見入っていた朝倉は遂に一度も視線を呉れる事はなかった。



[吊るし上げ]の行われた会議室の向側に在る控え室で、
絹見は一人、迎えが来るのを待っていた。
「入ります」
ノックしてドアを開けた甲太郎が見たのは、
監視役一人も居ない部屋の窓際で
遙か彼方にまで広がる帝都の街並みを眺める絹見の背中だった。
先程の朝倉の話しによると、潜水艦乗りを極めた絹見にとっては
何より堪える処罰を受けた筈であるのに、
その背中は依然として広く逞しかった。
人心や状況の分析が何より求められる情報部に勤務している己が
絹見は意気消沈しているだろうと思い込んでいた思慮の浅さを
心中で自嘲する。
甲太郎の眼の前に在るのは、生と死の境界線を何度も何度も行き来して
その度に生き残ってきた軍人の背中だった。
「これから一度、艦にお帰りいただきます。
 私共がお供いたしますので、その場で身の回りの物を纏めて下さい。
 その荷物を持って、また此方へお戻りいただき、
 後日、新しい任地へと私共の方でお送り致します」
伝えながら甲太郎は、これではまるで罪人同様の扱いではないかと
行使する側の人間でありながら、絹見に対し湧き上がってくる同情を
禁じえなかった。
ゆっくりと絹見が振り向いた。
片手を軍服のスラックスのポケットに突っ込んで、
もう片方の手で数度自分の顎を撫でながら。
「そうかい」
淡々とした声だった。
「んじゃ、行こうか」
それだけ言って、絹見は甲太郎の立つドアの方へと歩き出した。
車寄せへの長い廊下を、前に絹見、後ろに甲太郎の順で、
後は一言の言葉を交わす事も無く、二人は黙って歩いて行った。



港に帰ってきた絹見を、ずっと待っていたのであろう
伊16の乗組員達が艦上で出迎えた。
先に車外に出て絹見の為にドアを押さえて立っていた甲太郎は、
何を思った訳でもなかったが露天艦橋を見遣った。
果たして、其処にはやはり小柄な人影が在った。
やはりと思った自分に、少なからず驚きながらも
任務に忠実な甲太郎は言った。
「絹見大佐。
 それでは、どの程度の時間で戻って頂けますか?」
「ドンガメ乗りは皆、自分の荷物なんて数える程だ。
 さして時間は掛からねぇよ。
 そうさな・・・30分しても降りて来ねぇ時は、呼びに来てくれ」
「わかりました」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・?
 どうか、なさいましたか?」
「いんや、お前さん。
 随分と俺を信用してんなぁと思ってな。
 このまんま、伊16ごとトンズラするかもしれねぇぜ?」
両腕を組んだ絹見が甲太郎を見て、ニヤリと笑う。
「貴方なら大丈夫でしょう?」
「何で?
 何で、そう思う?」
「私は情報部の人間です」
「だから?」
「貴方は日本国を、日本国民を心底愛していらっしゃる」
甲太郎の言葉に、絹見は一瞬目を丸くして甲太郎を見たが、
直ぐにまたニヤリと一つ笑って言った。
「ま、そういう事にしとくか」
ハハハと笑った絹見はもう一度「30分後な」と残し、
自艦へと身軽に飛び移っていった。



「高宮中尉、そろそろ時間です。
 (私が)行きますか?」
同行して来た情報部の兵士の一人が、懐中時計を取り出して
時間を確認していた甲太郎に声を掛けてきた。
パチリと蓋を閉め、元に戻した甲太郎は軍帽を被り直して言った。
「いや、いい。
 ・・・・・私が行こう」
「では・・・」
付いて来ようとする部下である兵士を、甲太郎は制した。
「私一人で行く」
「しかし・・・」
一人では危ないと続けたかったらしいが、
甲太郎はそれを口にする事も制した。
「その方がいい」
それだけ言い残し、甲太郎は伊16に向かって歩き出した。
下手に大人数で乗り込めば、要らぬ騒動の種にも成り兼ねない事もあると、
甲太郎は知っていたのだ。
車から潜水艦までは僅かの距離。
艦長が戻ってくるまでに位置を整えたらしく、
陸から乗り降りし易い位置まで潜水艦は移動していたし、
元々自分も海の近くの生まれ育ちの甲太郎だったので
舟の乗り降りには慣れていた。
潜水艦伊16へは簡単に飛び移る事が出来た。
艦の狭い入り口から中へと降りてみたが、
無用心な事に乗組員達の姿は無い。
皆、絹見の部屋の方へと集まっているらしい。
部外者を嫌う船乗りの中でも、その最たる者と言われている
潜水艦乗り達に見咎められ一悶着有るより、
騒ぎを起こさずに絹見を連れ帰って来いと命令を受けている甲太郎にとっては
これはこれで大変ありがたい状況だった。
誰と擦れ違う事も無く、甲太郎は絹見とその他の乗組員達の居るであろう
居住区に向かって躊躇い無く歩を進めて行った。



やがて前方から声が聞こえてきた。
怒声に、悲鳴じみた声も混じる。
中でも一度、「艦長!!」と縋る様な声が聞こえ、
それがやけに甲太郎の耳に残った。
尚も歩を進めた甲太郎の目の前に、
最後尾の乗組員達の背中が近付いてきたが
未だにその誰も、間近に来た部外者の存在に気が付いていない。
皆、絹見の一挙手一投足に全神経を集中しているのだろう。
それ程にこの艦の乗組員に絹見は慕われていたのかと
感慨深く思いはしたが、甲太郎にも[任務]が有った。
その場の雰囲気を断つ一声が、甲太郎の口から放たれた。
「用意は出来ましたか?」
剣道で鍛えた声は、殊更大声を出した訳でもないのに、
伸びと張りを持ち、その場に響き渡った。
人垣が割れ、一斉に視線が後方に立つ甲太郎に注がれた。
荒くれ者揃いで有名なドンガメ乗り達の視線を一身に浴びながら、
甲太郎は僅かもたじろいだ様子は見せなかった。
平然と受け流し、自然体で立っている。
口元には、微かに笑みさえ湛えて。



其処に居た。
絹見の傍らに。
其れが露天艦橋に在った人影の主だと、甲太郎は一目で気付いた。
これまで見た事もない、黒々と濡れた大きな瞳が自分を射竦める。
自分へと向けられる憎悪にも似た感情の篭った強い眼差し。
甲太郎の胸の中の何かが、真っ黒な瞳に握り潰され溢れ出す。
身に覚えのない感覚が、甲太郎を支配し始める。



離し難い視線を、絹見の副官と思われる小柄な身体から引き離し、
何とか甲太郎は絹身の方を見た。
「時間です。
 もう行けそうですか?」
甲太郎の言葉に、一層きつくなった視線が向けられてきても、
気にせぬ素振りで甲太郎は絹見を促す。
「よし、いいぜ。
 行こうか」
絹見の言葉に、甲太郎へ向けられていたキツイ視線が外された。
それを少し物足りなく、寂しく思いつつ
甲太郎は自分の身体を廊下の片側に寄せ、
更に絹見に対して退艦を促した。
身の回りの物をたった一つの鞄に詰め、
絹見は甲太郎に向かって歩き出す。
思わずといった体で伸ばされた手が絹見の腕を掴んで、
その足を止めた。
小柄な副官の手だった。
[万感の思いを込める]というのは、きっとあんな眼差しなのだろうと
絹見を見詰める副官の眼差しを見ながら甲太郎は思った。



あんな眼差しで見詰めてもらえたら・・・・・
自分の全てを・・・・・
己の命でさえ彼の目の前に差し出してみせるのに・・・・・



司令部へと戻ってゆく車中。
絹見の傍らで、甲太郎はふと気付いた。
先程見た真っ黒な瞳が濡れて見えたのは、
持ち主が泣いていたからなのはないかと。



目を閉じれば、彼の人の面影が瞼の裏にくっきりと浮かんだ。

                                      〜第19週〜