季節の巡るのは早い。
ほんの少し前まで、物資不足で補修の間に合わない道路の其処此処に在る
大小の陥没した穴には雨降り後や生活廃水などが溜まり込んで、
それが堅く、厚い氷になり、道行く人々の歩くのを
難儀な物にさせていたというのに、例えば木崎が今、
訪いを告げて主が奥から出てきてくれるのを待つ間に眺めていた
玄関近くに植えられている木々の枝先には、白や桃色、色とりどりの花々が、
咲き競う事によって告げているようだった。
春が来たのだと。



気配を感じて、玄関先から視線を戻し、
玄関の取次ぎから奥へと続く廊下の先を伺うと、
床近くまでの長さでもってその先を、来客から奥を隠す様に設けられている
春風に揺れる長暖簾の二つに分かれた裾の間から、
忙しいと感じさせない程度に急いだ、
この店の女主人の裾捌きの音が近づいて来ているところだった。
内玄関とはいえ、辺りにその名を知られている[翠山]の内玄関は、
何度か訪れた見世の玄関ほどではなかったけれども、
それなりの、流石に凝った造りの玄関であった。
春の柔らかな日差しの差し込む取次ぎに、パサリと暖簾を分けて、
いつも見慣れた胡蝶の美しく結われた小振りな頭が覗いた。
そうして暖簾を潜り終わると、上がり口に座り、にっこりと笑顔を見せた。
「いらっしゃいませ、木崎様」
上がり口の傍らの花台に置かれた蝋梅の香りが、
胡蝶の動きに合わせて揺れる。
或いはこの見世一番の美しさではないかと、
一線を退いた今も言われる胡蝶に、単純に男として、
眼を奪われていた木崎は、挨拶されて慌てて我に返る。
「あ、どうも」
「お待たせしまして、申し訳ございません。
 今夜のお客様への応対の事で、板場と話しておりましたもので」
「いや、私こそ突然ですみません。
 今日は先日の器をお返しに伺いました」
木崎は両の手に持っていた風呂敷包みの片方を、そっと床に置いた。
「まぁ!?わざわざ持って来ていただかなくとも、よろしゅうございましたのに」
「いえ、前例もありますので」
木崎は思わず苦笑していた。
風呂敷包みを自分の傍近くまで引き寄せた胡蝶も、
木崎に言われて思い出す。
以前、木崎の家族へのお弁当として重箱に入りきらぬ程の握り飯や惣菜、
職人の作った料理や菓子を持たせて帰したはいいが、
その重箱が返って来るのに、大層な時間が掛かったのだった。
その時の事を、二人して思い出していた。
「でも、そんな・・・・・。
 以前にも申しましたが、息子に・・・、
 甲太郎にでもお預け下さればよろしゅうございましたのに」
「それが、相変わらず御子息は多忙でいらっしゃる様で」
また一つ、木崎は苦笑する。



そう、相変わらずだった。
同じ敷地内、同じ棟内にいる筈の時でさえ、
木崎が甲太郎の姿をその目に捉える事は珍しく、
殆ど皆無と言ってもよかった。
例えば甲太郎が木崎の様に、その殆どが室内での勤務で在ったのならば、
もう少し会う確率は上がったかもしれなかったが、
生憎と甲太郎の勤務は外での事が多く、
時には外地にさえ及ぶものだったので、任務先が外地の場合、
行き帰りだけで相当の時間を要したこの時代、
尚の事、その姿を見掛ける事は適わず、そんな甲太郎を当てには出来なかった。
だからこそ、以前も何ヶ月も借りっ放しの重箱は、
今日こそは明日こそはと長い事、
木崎の職場のロッカーに申し訳なさそうに鎮座させられ続けたのだ。
度々妻からも早く返すようにと責付かれて困った。
その時も結局、木崎が後日、自分で今日の様に此処に返しにきた。



「この間、上司の大湊が言ってました。
 高宮中尉はまた長期の任務で出ているらしいと。
 ですから、今回も中尉に会うのを待っていたら、
 何時お返しできるか定かではありませんでしたから」
「あら、まぁ・・・またですか・・・・・」
胡蝶が口元に手を当てて、視線を遠くに飛ばせたのは、
然程歳の離れぬ、義理の息子の身を案じての事だろうと思われた。
義理の親子とはいえ、この親子の互いを思いやる様子は知っていたので、
木崎は務めて明るい声で言った。
「重箱をお返しする他にも、少し用が有りましたので」
「はい?」
「今度のお土産も、家族がとても喜びまして。
 特に娘は今回も大はしゃぎで。
 雛の節句の料理やお菓子など、美しくも美味しいものばかりで、
 隣の同い年の女の子と二人で、菓子等は仲良く分け合って頂戴しました。
 いつもいつも、気に掛けていただいてありがたく思ってます。
 妻も、このご時世に珍しいものばかりと感謝しておりましたし、
 何より、私の如き薄給では時代は関係なく、普段でも此方の料理なぞ
 簡単には食べさせてはやれなかっただろうと思います。
 ありがとうございました」
「いえ、そんな」
小さく頭を振る胡蝶に、木崎はぺこりとお辞儀をした。
「それで・・・」
そう言って木崎は、もう片方の風呂敷包みを前に下ろし、
自らの手で結び目を解きに掛かった
そして包みの中から出てきたのは、良く日干しされたワカメ等の海藻類だった。
「まぁ、良い匂い」
驚く胡蝶に、木崎が続けた。
「珍しくもない物でしょうが、私の亡くなった父方の実家が漁師でして。
 先日、こんな物しかないがと持って来てくれまして。
 此方では一級の食材しかお使いにはならないと思ったのですが、
 奥での賄いにはどうかと思いまして。
 大人数いらっしゃるでしょうからと妻も言うものですから」
「お気遣いいただいて。
 でも本当に、奥様の仰る通りです。
 家族に妓達、そしてその世話をする者や男衆。
 奥の者まで店の食材で賄えば、ウチはとっくに潰れておりますよ。
 お心遣い、有り難く頂戴いたします」
袋ごと一つ取り上げた胡蝶は、鼻先に持っていって大きく吸い込んだ。
「まぁ、どうでしょう?!
 この匂い。
 お日様と、潮の香りの良い匂い」
「喜んでいただけて、良かった」
「大切に使わせていただきます」



「それでは、私はこれで・・・」
用件は終わったとばかりに、木崎は暇を告げた。
驚いた風の胡蝶が、木崎を見上げてきて言った。
「もうお帰りに?
 奥でお茶でも召し上がっていかれませんか?」
他意が無いとは分かってはいても、やはり美しい女性に、
しかも持て成す事を生業としている胡蝶にじっと見詰めらると、
木崎は男として居た堪れない気持ちに囚われる。
「え?はぁ・・・」
何と答えていいものかと、僅かにドギマギしている所に
先程の胡蝶の登場とは正反対の、少々騒がしい足音が近付いてきた。
そして、その足音から察せられた、
些か荒い位の勢いでバサッと暖簾が分けられた。
「女将さん!」
木崎と胡蝶が見遣れば、年の頃は17〜18位だろうか?
おさげ髪も可愛らしい前掛け姿の娘が、荷物を捧げ持って出てきた。
「荷物の用意がで・・・・・!!」
漸く玄関先に立つ木崎に気付いたらしい。
一瞬固まったかと思うと、真っ赤になって一つ飛び上がり、
続いて大急ぎでその場に正座すると、額を床に擦り付けんばかりに低くして
詫び始めた。
「すいません!!すいません!!
 まだお客様がいらっしゃっただなんて!!」
それを娘の脇で見ていた胡蝶が、大きな溜息を付いて
やれやれとばかりに首を振る。
「亜紀ちゃん、何?どうしたの?」
「は、はい!!
 あ、あの・・・・・お時さんが、荷物の用意が出来たら、
 女将さんを見つけて、何時頃お出掛けになりますかって聞いときなさいって、
 荷物を作り始める前に言われてたの思い出したもんで・・・・・」
「それで、荷物が出来たからってアタシを探してたのね?」
「はい」
「あの・・・そんな事なら、尚の事。
 私も、もうこれで・・・・・」
二人の遣り取りと黙って聞いていた木崎は、ホッと内心で胸を撫で下ろし、
調度良かったとばかりに自分もこのまま帰る旨を、再び告げる。
「それじゃ、せめて途中までご一緒致しましょう。
 アタシみたいな婆との道行きじゃ、ご不満でしょうけど」
僅かに流し目を送る仕草が艶っぽい。
「いや、そんな・・・」
またドギマギしている木崎を小さく笑って、胡蝶は亜紀に言った。
「奥に行って、お時にアタシはこのまま甲太郎の下宿先に行ってくるからって。
 それから、お勝手に置いてある日傘を取ってきて頂戴」
「はい、女将さん」
まだ赤さの残る頬のまま、亜紀は暖簾の向こうへと
来た時と同様の騒々しさで駆け去った。
はぁと胡蝶が溜息を付く。
「すいません、躾が成ってなくて。
 気立ては良い娘なんですけど、飲み込みが遅いというか、
 人より少しばかり、憶えたり、考えたりするのに時間が掛かる娘で・・・・・」



「彼は・・・・・」
木崎は胡蝶の言葉を遮ると、全く違う事を口にした。
「高宮中尉は帰っているんですか?」
大湊は、甲太郎は何時帰ってくるかも分からないと言っていた。
なのに胡蝶は甲太郎の下宿先に行くと言う。
帰っているのかと、思わず胡蝶に聞いてみてしまったが、
話を遮られた事に、まるで気を悪くする事も無く胡蝶は答えてくれた。
「いえ、帰ってきているのかどうか分からないんです。
 けど時々、留守中に部屋に行って、
 衣類なんかを置いてくる様にしてますんです。
 急な任務とやらが多いもので、それこそ汚れた洗濯物もありますでしょうし、
 一々此方に帰ってきて、頼んでゆく時間も無かったりするようですから、
 甲太郎の方から言ってきまして。
 留守中に、部屋の事やら頼みたいんだけどって。
 それで今日、何時帰ってきても困らないように、
 そろそろ出来上がった洗濯物や軍衣の替えを届けておいてやろうかと」
「届ける荷物は、それだけですか?」
けたたましく去っていった女中によって、
廊下に置き去られた風呂敷包みを見ながら、木崎は胡蝶に問い掛けた。


「は?」
尋ね返してくる胡蝶に、木崎はハッと我に返った。
自分でも、どうしてそんな事を行ってしまったのか、
すっかりうろたえてしまった頭では、
考えてみてもまともに答えが出てくる訳は無く。
とっとと胡蝶の前から消え去ってしまいたかったが、口にしてしまった以上、
このままと無かった事にして帰ってしまう訳にもいかず、
木崎はもう一度、胡蝶に同じ言葉を繰り返した。
「高宮中尉の下宿先に届ける荷物とは、それだけですか?」
「はい」
胡蝶が訝し気に木崎を見上げながら頷いた。
「よければ私が届けましょうか?」
「木崎様が・・・ですか?」
「ええ」
「わざわざ?」
「どうせ帰り道ですから」
「でも・・・」
「それに私は、いつも高宮中尉には、世話になってばかりで。
 何か少しでも返せないかと思ってはみるのですが、
 結局、今まで何も出来ずにきたもので。
 こんな事では幾らも返せませんが、せめて女将さんの手伝い位、
 させていただければと思うんですが、どうでしょう?」
「甲太郎に、叱られそう・・・・・」
まだ渋っている胡蝶に、木崎は畳み掛けた。
「第一、この時間からでは夕方の仕事に差し支えるんじゃありませんか?
 私だったら、後はそのまま真っ直ぐ家に帰ればいいんですから」 
言いながら、これほど必死に言い募る自分が不思議で、
何処か滑稽にさえ思えた。

                                       〜2の第1週〜