木崎は腕に抱えた風呂敷包みもそのままに、その場に佇み、 右から左、上から下へと一通り周りを見渡した。 結局、胡蝶を説き伏せた木崎は、一人で甲太郎の下宿先へと赴き、 今正に、主不在の部屋の真ん中に佇んでいた。 これまで何度か自宅である[翠山]に寄らせて貰った事も有ったが、 その殆どが見世の方で、奥の生活圏の方に寄らせて貰った時も、 玄関先で用を済ませてしまう事ばかりで、たった一度だけ、 気分を悪くして一晩世話になった時はそれどころではなかったし、 こんな風に甲太郎の個人的な空間に足を踏み入れたのは初めてだった。 入り口の土間から直ぐの8畳には、胡蝶の言っていた通り、 主が寝る為だけに帰ってくるせいなのだろうか、これといった物が有る訳でなく、 ガランとした部屋の片方の隅に文机がぽつねんと置いてあり、 その上も整然と片付けがしてあって、文書箱が一つと、硯箱が一つ、 後は何もかも和風な卓上にインク瓶とペン立て、そうしてランプが載っていた。 特注らしく、少し幅の有る文机の下には主用の座布団と、 もう片方の端には10冊程度、分厚い本や辞書らしい影が重なって見えている。 思い描いてみた文机の前に座って書き物でもしている主の姿の左側、 壁の掛け釘には洋服掛が掛けられていた。 腕の中の荷物の中に入っているらしい軍衣を、後で出して、 アレに掛けておいてやらないと、主はこのままの状態で置いていっては 何時帰ってくるかも定かではないので皺になってしまうな等と考えながら 視線を動かせば、後はもう、本当に他に何も無い部屋だった。 「・・・・・でも、高宮らしい気もする」 殺風景な部屋をもう一度見渡して、木崎はそう呟いた。 「まぁまぁ、本当に申し訳もない事で」 草履を引き摺る足音が近付いて来たかと思うと、 庭の方から些か腰の曲がり気味な老婆がお盆に茶菓を載せて遣って来た。 縁側に盆を置くと、「よっこらせ」という掛け声と供に上に上がる。 「坊ちゃまはご覧の通り、まだお帰りじゃぁありませんで」 言いながら、再び盆を持ち上げると、木崎の立っている部屋の中へ入り、 目の前でペタンと尻餅を搗くみたいに座り込むと盆のまま、 茶菓を畳の上に置いて、木崎の側に押し遣る様に差し出した。 木崎も慌ててその場に正座すると、ペコリと一つお辞儀をして、 乾いていた喉を潤す為、遠慮なくお茶を手に取った。 「今日は胡蝶さんが忙しくしていらっしゃったもので。 調度、私の帰り道に此方が在るものですから、 私でよければと荷物を預かってきたんです」 「でもまぁ、大尉さまにわざわざお持ちいただくなんて。 先程、お電話で女将さんも仰ってましたが、 本当に申し訳もない事で」 老婆は、申し訳ないの言葉を繰り返す。 「いや、そんな・・・」 恐縮する老婆に、木崎は笑って手を振り、ところでと話を変えた。 「此方は、高宮君の下宿先と聞いて来たんですが・・・・・」 どう見ても此処は、下宿という感じではないのだ。 木崎は先からの疑問を口にしてみた。 「此処は[翠山]の持ち家でございましてね。 本来なら先程お声を掛けて下さった母屋の方に坊ちゃまがお暮らしになるのが 当たり前なんですけれども、アタシと・・・ほら、あそこにご覧になれますか?」 皺の目立つ指で老婆の差す先、 庭の片隅に老爺が庭の冬支度の片付けをしているのが見えた。 部屋の中から見ているのに気付いたのか、頭に乗せていた毛糸の帽子を取ると、 木崎に向かってであろう、深々とお辞儀をして寄越した。 木崎も同じ様に挨拶を返す。 老爺はそれだけを済ますと、直ぐにまた、残りの仕事へと意識を戻してしまった。 黙々と片付けを続ける老爺を見ていた老婆は徐に言った。 「あれがアタシの連れ合いで、寅吉。 申し送れましたが、アタシはお久万(くま)と申します」 トラとクマ・・・・・。 二人を交互に見比べ、木崎はパチパチと眼を瞬いたが、 そんな木崎に構わずお久万は先を続けた。 「若い頃、アタシもあの人も[翠山]で働いていましてね。 今は見る陰もありませんが、これでも昔はアタシ、 結構な売れっ子として見世に出てたんですよ。 あの人は男衆でしてね、アタシが見世を引いた後、 約束していた所帯を、漸く持ったんです。 本来ならそこで見世との縁も切れるんでしょうが、 こうして二人、先代や亡くなった旦那様や女将さんの好意で、 年取った今でも寮番として働かせていただいているんです。 本当に、本当に、ありがたい事です」 そこまで言って、お久万は仏様でも拝むように、 何も無い空間に向かって両の手を合わせた。 姉御肌の胡蝶の顔が浮かんで、木崎も微笑んだ。 合わせていた両の手を解き、お久万は先を続ける。 「坊ちゃまが此処をお使いになると聞いて、 私共は当然、母屋をお使いになると思ってお待ちしていたんです。 ですけど坊ちゃまは、此方の離れを使うと仰って。 ここは元々はお茶室だったのを改築してあるんですよ。 ですから水屋もあるし、御不浄もありますしね。 小さいながらも増築して、お風呂だって有るんです」 お久万は、木崎に彼方此方を指しながら説明してみせていたが、 大きな溜息を少々不満気に一つ付いた。 「帰ってくる時間も不規則だし、食事も外で済ませる事が多いから、 夜遅く帰った時等に、わざわざ私達を起こすのが面倒だからと・・・・、 そんな風に仰いますが、本当は私達年寄りの事を気遣って下さっての事だって、 分かってます。 坊ちゃまは、常から優しい言葉を掛けて下さるという方ではありませんが、 何かと私達や見世の者達にも気を使って下さる、 本当の意味で心根の優しい方なんです」 一見、取っ付き難そうな甲太郎の顔が浮かぶ。 それでも、木崎もお久万同様、甲太郎の優しさを知っているから、 自ずとそれを思い出して微笑んでいた。 「そうですね、彼は・・・優しい・・・・・」 手の中の器に僅かに残ったお茶に視線を落とし、木崎は小さく呟いた。 元来年寄りや子供に好かれるという木崎の気質を察してか、 随分と木崎を気に入ったらしいお久万は、その後も暫くの間、 木崎とアレコレと話をした。 「私共に、何のお世話もさせて下さらないのですかとお尋ねしたんですよ。 そうしましたらね、じゃぁ締め切って空気が濁って部屋が傷まないように、 天気が良い日は毎日雨戸を開けて、風を通してくれないかって。 たったそれだけの事でも、私共は嬉しくて」 キュッと目尻の皺を深くして、お久万が笑う。 木崎も釣られて笑い返す。 「そう仰って下さるって事は・・・仰ってくださる間は、 坊ちゃまはこれからも、此処へ帰ってきて下さるって事ですから・・・・・」 「え?」 うんうんと相槌を打ちながら、残りのお茶を口に含もうとしていた木崎だったが、 何故かしら急に、声の調子が変わった事に気付いてお久万の方を伺う。 「よっこいせ」と畳を押すみたいにした反動で立ち上がったお久万が、 時間も時間だからか、手近の連子窓に近寄って戸締りを始めた。 閉じた桟に手を当て、木崎に丸くなり掛けの背を向けたままで、 不意にお久万がポツリと零した。 「この恐ろしく片付いた部屋を見る度に、アタシは思うんですよ。 坊ちゃまは毎回、此処をお留守になさる時には、 必ず何かしら、並でない覚悟をなさって お出掛けになってるんじゃないかと・・・・・」 ハッとした。 甲太郎の軍人としての任務を思えば、無理からぬ事だったし、 彼だけではなく、木崎自身も勿論の事、生きる全ての者に等しく、 明日は我が身と相応の覚悟を強いられている時代が今だった。 嘗てドンガメ乗りとして海底を這い回っていた頃は、 常日頃意識していた筈の覚悟が、陸上勤務として後方にまわされ、 自分には縁の無い遠い事と、自分や家族、周りの人々には掛かってこぬものと、 日々の暮らしの中に、いつの間にか考えぬようになっていた。。 軍令部で、日々の戦況報告を知りえる立場に居ながら。 ああ・・・そうだったと、今更ながらに思い出した。 今、自分達は戦時下に生きているのだと。 木崎の手の中の器に残っていた茶も冷えきってしまったらしい。 器にも冷たさは移り、順繰りに、それは木崎の掌にも移って来た。 春先の夕暮れはまだ、昼日中には忘れている肌寒さを連れ帰ってくる。 他の開け放されたままの障子戸から入ってきた、 そんな冷たい風からも一撫でされ、木崎は身を震わせた。 お久万が、自分や木崎が上がってきた縁側の対に在る、 この離れの入り口の戸を閉めようとしていた。 畳の間から、取次の板の間へと冬用の足袋を履いた足を下ろした時だった。 ジャリと露地を踏んで近付いてくる足音がしたかと思うと、 聞き覚えの有る声が聞こえてきた。 「風を通してくれてたんだ。 いつもすまないね、お久万」 板の間に、ドサリと重い音がする。 荷物か何かを投げ出した音らしい。 「まぁま、坊ちゃま!!」 「ただいま」 「お帰りなさいまし」 「今度も長い事留守してしまって。 だけどお久万達のお陰だ。 何時帰ってきても部屋に風が通してくれているから・・・・・ ん?誰か他に居るのか?寅吉か?」 木崎の背後に有る部屋の入り口から、中を窺う気配がした。 「寅吉、いつもすまない・・・な・・・・・」 相手が息を呑んだのを合図に、木崎は片手を畳に付いて、 正座の両膝を支点にしてクルリと身体を入り口の方に向けた。 そうして畳に付いていた手ももう片方の手と同様に、 足の付け根の辺りに揃えて姿勢を正し、軽く頭を下げて、 帰ってきたばかりのこの部屋の主に会釈する。 「邪魔してる」 言って、ふわりと笑い掛けてみれば、任務完了後の些か草臥れた主は、 「来て・・・いらしたんですか・・・」と此方もふわりと笑い返してきた。 「今夜のお食事は如何しましょう?」と尋ねるお久万に、 「この後は実家の方に戻るから」と返事をした甲太郎は、 「後の戸締りも自分でやっておくからいいよ」と言葉を繋げ、 一緒に食事を取れない事を残念がるお久万を、 宥めて母屋に帰ってもらう事にした。 仕方なく、茶器を載せた盆を手に、お久万は「どうぞごゆっくり」と 木崎に何度もお辞儀をして戻っていった。 この短時間の間に木崎も見慣れてしまった、 母屋に向かうお久万の、小さく、丸い背中。 それを、甲太郎と木崎の二人は黙って見送った。 やがて庭に居た寅吉も今日の仕事を終わらせてしまったのか、 再び此方に向かって帽子を取ると、深々とお辞儀をして母屋に戻っていった。 後に残っているのは身動きさえ憚られる程の静寂と、唯二人だけだった。 文机の上のランプの影が木崎の膝の辺りまで伸びてきたのに気付いて 周りを見れば、いつの間にか部屋は夕暮れ間近の残照に包まれていて、 木崎は急に今の状況を意識し始めた。 目の前に正座して座る甲太郎から話し掛けてくる気配はまるで無くて、 木崎は慌ててしまった。 とにかく、何か話さなければと思い、 何故自分が此処に邪魔しているのかという事を説明する事にして、 突然訪れた緊張の為に張り付いたみたいになってしまった咽喉から、 必死になって普段の自分っぽい[声]と[話方]を引っ張り出して、 甲太郎へと話し掛けてみた。 「留守中に、勝手に上がり込んですまない。 何時も何時もで申し訳なかったんだが、 また頂き物をしてしまっていてな。 器を返しに実家の方に寄らせてもらったんだが、 調度、胡蝶さんが此処に出掛けようとしてらして。 けど、酷く忙しそうにしてらしてな。 差し出た事かとも思ったんだが、荷物、預かってきたんだ」 「中尉にこんな雑用をお願いするなんて・・・義母は。 お使い立てしてして、すいません」 「おいおい、ちょっと待て。 話を聞いてくれよ」 むぅと口元を引き結んだ甲太郎に、急いで木崎は言い足した。 「いいか、高宮。 胡蝶さんは、酷く心配してらしたんだ。 こんな風に君が怒るだろうって。 それを俺が・・・俺の方から頼んだんだ。 持って行かせてくれって。 『甲太郎に叱られます』と仰ってな、大分渋られたんだが、 無理を言って、承諾を貰った。 だから、胡蝶さんに文句を言ったりしてくれるなよ」 随分と義母を庇う木崎に、仕様がないと甲太郎は溜息を一つ吐いた。 「分かりました」 「うん・・・頼んだ・・・・・」 甲太郎の言葉に、木崎もホッと息を吐く。 そうしてそれっきり、また二人の間に沈黙が訪れた。 どれ位の時間が経った頃だろうか、ふっと飯の炊ける匂いが鼻先を過ぎった。 母屋では、老夫婦が夕飯の支度をしているのだろう。 もうそんな刻限になったのだなと思った木崎は、 耐え難くなってきた沈黙に居た堪れなさを感じていたので、 そろそろ暇を告げようとしたが、僅かの差で甲太郎の方が先に口を開いた。 「同胞達が戦場で戦っている現在(いま)、こんな事を言うのは、 不謹慎極まりない事かもしれませんが・・・・・。 変わりなく、お元気そうな貴方を見て、安心しました」 「年末に、会って以来だものな。 そっちも元気そうで、良かった」 互いに言って、相手に微笑みを送り、返す。 それから逡巡するみたいに、木崎が甲太郎から目を逸らして畳に眼を落とした。 様子を訝しんだ甲太郎は、木崎の名を呼んだ。 「木崎さん?」 「・・・・・逢えないなら・・・・・」 静かな声だった。 けれどはっきりとした声音で木崎は繰り返し言った。 「・・・・・逢えないなら、せめてもと思った」 それだけ言って、木崎は俯いたままひっそりと微笑んだ。 〜2の第2週〜 |