其れは軍令部のど真ん中に存在していた。
甲太郎や木崎達の所属している軍令部の、其々の棟に囲まれる様にして、
何処かしら和洋折衷を思わせて存在している中庭が其れだ。



翌日、甲太郎は軍令部の廊下で、珍しく副官を連れず、
正面から歩いてきた大湊に其処まで少し付き合う様言われ、
調度休憩を取ろうとしていた甲太郎に断る理由も無く、
第一、此方の方にも大湊に問い質しておきたい事も有ったので、
甲太郎は「はい、お供いたします」と小さく辞儀をして
大柄な背に付き従い、軍令部内に在るその中庭へと向かった。
中庭に出る為には、
態々庭へと続く扉を探して出なければならないという事はなく、
四方を囲む棟と棟を繋ぐ渡り廊下のどれからでも、直に庭へと下りられた。
幸い、出会った場所が渡り廊下の近くだったので、
二人は直ぐに庭へ出て歩きだした。
軍令部自体はそこそこの広さがあったが、
その中庭となると建物の中に設えられた物だ、
然程の大きさはなく、歩くといっても、先を歩く大湊が
話をするのに都合がいいと思う場所へと移動する為の歩みだった。
「ここいらでいいか」
いきなり、ピタリと大湊が歩みを止めた。
甲太郎もそれに倣う。
甲太郎に背を向けたまま、大湊が言った。
「俺に、何か言いてぇ事があるんじゃねぇか?」
スマートさを売りにしている海軍軍人にしては柄の悪い事この上なかったが、
大湊は両の手をスラックスのポケットに突っ込んで聞いてきた。
甲太郎の片方の眉が、僅かに持ち上げられた。
確かに問いたい事があったのだから、
こうして大湊の方から時間と場所を設けてくれたのだ、
さっさと聞きたかった事を聞いてしまおうと甲太郎は口を開いた。
「何時からなのですか?」
「何が?」
その物言いに甲太郎の不機嫌さが伝わってしまったのだろう、
漸く、大湊が甲太の方を振り向いた。
けれどもそれはまだ首を捻って振り見た程度で、
軍衣に包まれた広い背中は未だに甲太郎の目の前に在った。
笑いの形に細められた眼等無視して、
何が面白いのか可笑し気な背中に目を据えたまま
甲太郎は再度大湊に問うた。
「初見草と・・・・・私の、私の妹との事です。
 何時からあれの客として、ウチ(見世)にいらしてるんです?」
大湊は直ぐには応えない。
甲太郎は続けた。
「義母から聞きました」
「『聞きました』じゃなくて『聞き出した』んだろぅに・・・・・」
甲太郎は、今度は途中で挟まれた大湊の声を無視した。
「貴方が望んだそうですね。
 見世に出せと。
 妹に客を取らせろと。
 貴方の相手をと」
甲太郎の両の手が、グッと拳を握る。
「何を考えているんだ、アンタは!!」
大湊が上位の佐官だという事さえ忘れ去る程に、甲太郎の気が昂ぶる。
「アレは・・・・・アレは私のッ!!」
「オメェの何だ?」
ゆらりと、大湊が今度こそ身体ごと甲太郎へと向き直った。



大湊は笑っていた。
中庭に面した軍令部の窓や渡り廊下から二人を見た者がいるとして、
大湊は計算尽くでその場所で話を始めたのであろう、
どの場所から見たとしても甲太郎の表情は伺えなかったし、
反対にどの場所からも見る事の出来た大湊の顔は、
何も知らない者から見れば、
それはそれは機嫌よさ気な笑顔で覆われている様にしか見えなかっただろう。
間近で対峙していた甲太郎は、大湊の只ならない気配を、
自分を見据える眼差しに感じていた。
甲太郎は完全に大湊に呑まれていた。
続く言葉が出せない。
せめてもと睨む様に見返せば、大湊の方が先を続けた。
「大事な大事な妹か?
 血だって繋がってる訳じゃねぇそうじゃねぇか。
 何で応えてやらねぇ」
大湊の言葉が、自分が兄妹として重ねてきた年月を穢した気がして堪らなくなる。
甲太郎は胃の腑の辺りが熱く重くなった。
「小夜と私は・・・・・それでも小夜と私は兄妹なんだ。
 小さな、小さな赤子の頃から。
 小さな小さな小夜の傍に居たんだ・・・・・
 兄として・・・・・
 独りぼっちの小夜と、独りぼっちの私。
 二人して互いを兄と思い、妹と思って暮らしてきたんだ。
 だからアレは私の・・・・・」
大湊が甲太郎を遮る。
「オメェは『一人の男として』小夜の想いには応えられなかったんだろう?
 オメェが『一人の男として』小夜の望みに応える事は、この先もねぇんだろう?
 小夜は『妹』なんだもんな?」
ズイと上半身を僅かに前に倒し、尚も間近な距離で甲太郎の顔を覗き込む。
「けどな、小夜の方はもうオメェを兄貴だとは思ってねぇってよ。
 『一人の男』と想ってる、望んでるんだとよ」
遠回しでなく、直球できた大湊の言葉に、
ここまで包み隠さず己の気持ちを正直に、
大湊に話した小夜の心の内を思って甲太郎は胸が痛んだ。
「泣き声なんかしねぇ。
 ひっそりと泣くんだ、あの娘は。
 話してる最中も、真っ赤な目でオメェの姿を何処かに探してた」
その様は、甲太郎にも容易に想像できた。
小柄な身体が、尚一層小さくなって・・・・・
「兄妹として置いてもらっていたが、もうその関係を望まねぇ自分が、
 [翠山]に居る訳にはいかねぇ。
 妹として居られねぇなら、此処に自分の居場所はねぇって。
 けどどうしてもオメェの・・・・・出来るだけオメェの近くに居てぇって泣くんだ。
 ならどうする?
 どうしたらいい?
 オメェの妹としてだけじゃなく、[翠山]の妓としても見世に出られる様にと
 育てられてきてもいたんだろう?
 小夜は決めたのよ。
 妓としてでもいい。
 [翠山]に置いてもらって、オメェの傍に居るってよ」
「しかし・・・・・」
「『しかし』じゃねぇ!
 兄貴としてしか小夜を見れねぇオメェには、
 その兄貴としてのオメェが欲しいんじゃねぇんだという小夜に、
 もう何も言えねぇぞ。
 言う資格はねぇんだ!!」
大湊の声に、甲太郎の身体が小さく揺れる。



「にぃたん」
小夜が甲太郎に向かって、最初に発した言葉。
初めて「にぃたん」と自分に伸ばしてきた日の小夜の、
紅葉の様な可愛らしい手の柔らかな感触を、その声を、笑顔を思い出して。



「とは言ってもなぁ・・・・・」
大湊の声に、甲太郎が物思いに沈んでいた顔を上げて見遣れば、
今し方までの物騒な程の視線は鳴りを潜め、
普段のよく知る、大らかで他人を包み込む様な眼差しが甲太郎を見詰めていた。
「今のオメェには如何し様もねぇものなぁ・・・・・」
甲太郎の視線に気付き、ふっと笑ってみせる。
「もう少し早けりゃぁ、もうちっとばかし違う応えが返せたかもしれねぇが・・・・・
 なぁ?
 いや・・・・・どうあってもこういう風にしかならなかったか?
 人の心ってのは難しいもんだからなぁ・・・・・」
自問自答するみたいな大湊の言葉に、
甲太郎は返事もせず、黙って大湊を見返すばかりだった。
「こんな事を言っても、オメェにとっちゃ心配な事に代わりはねぇだろうけどな、
 安心しな。
 お初ちゃん・・・・・いや、小夜ちゃんの事だがな。
 大事にしてるぜ、俺は。
 壊れモンだからな、大事にしねぇと。
 オメェんちのおっかさんにも、俺以外の客は取らせねぇ様に言ってある。
 小夜ちゃんにしてみりゃ、妓として納得いかねぇだろうけどな」
「中佐・・・・・」
「オメェの大事な妹じゃねぇか。
 大切に扱わなけりゃな。
 実は俺は一人っ子でな、俺にも妹が出来たみてぇで、
 これが結構くすぐってぇんだが楽しいもんなんだ」
「中佐・・・・・」
甲太郎は、もう一度呟いた。
この先も自分は小夜を[妹]として以外、見る事はないとの確信がある甲太郎は、
大湊の気遣いに対して、感謝の言葉を口にする代わりに、
只一度、深々と頭を下げるのだった。



ガラリと何処かで音がしたかと思うと、上方から声が降ってきた。
「高宮!!」
甲太郎につられて大湊も声のした方を見遣れば、正面の棟の三階、
右寄りの部屋の窓が開いていて、
浅倉が窓際に立って二人の方を見下ろしていた。
ハッとして甲太郎は懐中時計を取り出し時間を確かめた。
「不味い」
小さな声だったが、浅倉には届かずとも
目の前に居る大湊の耳にはハッキリと届いた。
「遅刻か?」
「はい、休憩時間はとっくに過ぎていました」
「そりゃ悪い事したな」
「いえ、そもそも自分が・・・・・」
言い掛けたところに、浅倉がもう一度甲太郎を呼ぶ。
「高宮、何をしている。
 さっさと戻って来い!!」
「はい!!」
甲太郎は急いで朝倉に応えを返し、大湊へと向き直った。
「申し訳ありません、今はこれで・・・・・」
そう言って甲太郎が行こうとするのを、大湊が腕を掴んで引き止めた。
「中佐?」
驚いて立ち止まれば、大湊がフフンと笑ってみせた。
「少しでも、戻ってから長々と小言言われねぇ様にしてやる。
 ちっと待ってな」
「え?」
訳が判らず呆然としている甲太郎の腕から手を離した大湊が、
今度は浅倉の居る窓の方を向いて声を発した。
「浅倉大佐、申し訳ありません。
 中尉は何度も急ぐので困ると言ったのですが、
 私が無理に引き止めてしまいました」
「・・・・・」
浅倉は黙って此方を見下ろすばかりだ。
「今夜、中尉の実家に寄らせてもらおうと思いまして。
 急に思い立ったもので、無理かもしれないからと、
 中尉から頼んでもらえないかと交渉しとったんです。
 本当に、失礼致しました」
「・・・・・確か、昨夜もではなかったかね?」
「おや、よくご存知で?」
「昨日の今日。
 随分と元気な事じゃないか、大湊中佐。
 いや、羨ましい限りだな」
「ははは、こりゃどーも」
浅倉の嫌味に、大湊は例の如く豪快に笑って盆の窪を掻いた。
「高宮」
「はっ!!」
「何時までそうしている」
「はい!!」
甲太郎の返事も待たず浅倉は窓際から姿を消し、
開きっ放しの窓を、影の様に付き従う土屋が静かに閉じて
浅倉の後を追い、窓辺から姿を消した。
窓を見上げていた大湊は、自分達の遣り取りを隣で見ていた甲太郎に
「これで少しは違うと思うぜ」と笑いながら浅倉の所へ戻る様に促した。
我に返った甲太郎は、今度こそ大湊に敬礼をしてその前を辞す。



軍令部内を駆ける事は許されない。
それは中庭であろうとも同じで、
甲太郎は早い足取りで近くの渡り廊下を目指した。
「お〜い」
暢気な声が、背後から急ぐ甲太郎を再度足止めした。
先程の事に感謝しつつも、一刻も早く浅倉の元に戻らなければ
折角大湊が浅倉の嫌味に耐えて作ってくれた猶予の効力も失われてしまう。
と考えながらも、甲太郎としては振り返らないわけにはいかない。
足を止め、振り返れば、ニヤリと良からぬ事でも考えていそうな笑みの大湊が、
別れたばかりの場所に立ったまま、此方を見ていた。
「で?オメェ達、何処までいってんだ?」
余りに唐突で露骨な質問だった。
「だ、誰と誰がですか?」
「またまた〜知らばっくれんなよぉ。
 勿論、オメェと・・・・・」
またもニヤリと笑う笑顔は、デバガメの其れで。
「そんな事、今は関係無いですし、
 幾ら大湊中佐といえど、この様な個人的な質問に、
 お答えする義務はないと思います。
 では、今度という今度こそこれで失礼致します」
甲太郎は一気にそれだけを言い捨てると、また歩き出そうとした。
しかし、その足は一歩を踏み出せなかった。
「そうかそうか、なら仕方ねぇなぁ。
 こっちの方で相手に聞くしかねぇか。
 さて、何処に居たっけなぁ?
 あ、お前はもういいや。
 とっとと浅倉んとこ帰んな。
 けぇれ、けぇれ」
「き、木崎さんに聞くんですか?!」
叫ぶ様に問えば、今度はニンマリと笑う。
「誰が『相手は木崎だ』なんて言った?」
罠だと気付いた時には既に手遅れだった。
一度口から出てしまった言葉は、もうどうする事も出来はしない。
甲太郎は大きな溜息と共に顔を覆った。
「やっと聞かせてもらったなぁ。
 今までそうだろう、そうだろうと確信みたいなモンはあったけどよ、
 やっぱし、せめて当事者のどっちか片方からでも、
 そこんとこどうなんだ?って聞かねぇとならねぇなぁって思ってたんだ。
 いやぁ、そうか♪
 やっぱりそうだったか♪
 オメェの想い人の名前、シッカリこの耳で聞かせてもらったぜ♪」
ウンウンと、心底嬉しそうに笑うのが、
気になって仕方なかった問題が解決した事を喜んでの事か、
甲太郎と木崎が想い、想われる関係になっている事を喜んでくれての事か、
よく分からなかったけれども、どうにか気を取り直した甲太郎は、
もう一度溜息を付いて敬礼すると、踵を反し、
三度直属の上司の下へと歩き始めたが、
流石に大湊も、もう甲太郎を振り向かせる事は無かった。

                                     〜2の第10週〜