「はぁ〜まったく、嫌な言葉だぜ」 心底嫌そうな物言いに、運転席の中野はルームミラー越しに、 その嫌そうな物言いをした上司の隣の席の木崎は、 膝の上に開いていた書類から顔を上げ大湊の方を見た。 「何がですか?」 ミラーの中から注がれる、中野の自分への視線を受け止めながら、 大湊は尚一層の嫌悪を込めて、『嫌な言葉』を吐き捨てた。 「『玉砕』だ」 昭和18年5月29日。 アメリカのアラスカ半島からロシアのカムチャツカ半島にかけて 1930キロにわたって延びるアリューシャン列島に在る島、『アッツ島』。 アラスカ州に属するニア諸島最西部に位置するアメリカ領の島で、 またの名を『熱田(あつた)島』と呼ばれていた。 その島において、日本軍のアッツ島守備隊2600名が全滅した。 正式には日本軍損害は戦死者2638名、捕虜27名。 対する米軍損害は戦死者約600名、負傷者1200名であった。 当時、未だ嘗て『玉砕』という言葉が使用された事は無く、 『全滅』という言葉による国民の動揺を軽減する為に、 軍部が生み出した苦肉の策の表現で、『アッツ島玉砕』が公認第一号となった。 (この『玉』が『天皇』を意味しており、そう呼ばれる側の昭和天皇は、 『アッツ島玉砕』の報を受けられた時には既に、 戦地の至る所から寄せられる戦況報告に、連合国側の圧倒的な戦力と強さに、 降伏について考え始めておられたという。 そこへ齎された『アッツ島守備隊全滅の報』。 その報告を天皇へと齎した軍幹部に対し昭和天皇は、 「『良くやってくれた、感謝する』と打電せよ」と命じられたという。 それに対し、幹部は 「恐れながら陛下、玉砕した者の元へ打電しても受け取り手がございません」 と進言したが、昭和天皇は「かまわぬ、打電し続けるのだ」と命じたという) 運転を続ける中野も大湊の隣に座る木崎も、共に言葉は無い。 軍部内の、しかも諜報部に籍を置く彼らにとっては、 それが上辺だけが美しい言い回しの言葉だと知り過ぎるほど知っていた。 暗澹たる思いで、木崎は車窓に目を移す。 9月も末の季節、まだ至る所に夏の暑さの残るこの日、 三人を乗せた軍用車は窓を大きく開けて快調な速度で港へと向かっていた。 軍令部の在るこの街は、街中でも、自宅付近でも、 常に潮の香りが満ちていたが、やはり港に近付くにつれ、 その独特の香りはより一層強くなり、海での勤務の長かった木崎にとっては、 何処かしら懐かしく、高揚するものがあって、 つい一心に周りの景色を追ってしまうのだった。 「やっぱり海が懐かしいか?」 そんな木崎の様子に、大湊が隣から声を掛けてきた。 車窓から目を離し、木崎が大湊の方を振り返る。 「はい」 正直な胸の内を、問いに返す。 「自分はやはり、根っからの『ドンガメ乗り』なのだと思います」 そう言って、寂しそうに笑った。 もう二度と、潜水艦に乗る事は無いかもしれないと思いながら。 「そうか・・・海は良いか。 俺は海軍軍人じゃあるが、残念ながら海とは縁の無い勤務ばかりでな。 入隊後直ぐからの内勤続きで、船なんぞは殆ど乗った事が無い。 可笑しなもんだがな」 苦笑する大湊に、木崎もどう言っていいか分からず、 曖昧に笑ってみせるしかなかった。 ふと、車に乗り込む際から気になっていた事を聞いてみる事にする。 「ところで中佐、お尋ねしたい事があるのですが?」 「ん、何だ?」 「今日の、コレは一体?」 木崎は今回の、この港行きを聞いているのだった。 出勤後の朝の挨拶に上官の机の前に行った途端、 「今日は午前10時頃から(外に)出るぞ」と言われたのだ。 その前にも後にも説明は一切無く、尋ねてみても、 「いいから言う通りにしてりゃぁいいんだ」とだけの返事だった。 「何なんだ、一体」と自分の机に返って呟いてみても、 結局は何か分かる訳もなく、同僚の中野に聞いても口を濁すばかりだった。 何かおかしいと思いつつも、やがては分かる事と割り切って、 溜まっていた事務処理の山を片すべく、 まずはその天辺の一枚目の書類を、木崎は黙って手に取ったのだった。 そうして今に至る。 「もうそろそろ、私にも教えて下さって宜しいのではありませんか?」 と問えば、明後日を向いて自分の顎の辺りを摘んでいた大湊が、 大きな溜息と共に、遂に港行きの真相についてを話し始めた。 「人一人な、迎えに行くんだ」 「は・・・ぁ・・・・・」 それでもまだよく分からない。 チラッとミラー越しに視線を感じてそちらに視線を向ければ、 目の合った中野が慌てて前方を視線を戻した。 「?」 益々訳が分からない。 「で、何方を?」 「ん〜まぁ、着きゃあ分かるさ」 大湊にしては、何とも歯切れの悪い返答だった。 釈然としないままの木崎を乗せた車はその後直ぐ、再びの質問を遮るみたいに、 大きなカーブを切って軍港の入り口へと入っていった。 軍港には様々な艦船が停泊していた。 中には一見してでは軍用艦とは思えない船も停泊していて、 木崎の目には、港はかなりの混雑ぶりに思えた。 木崎の隣では、大湊と中野が懐中時計を取り出し時間を確かめている。 パチリと蓋を閉じたそれを仕舞う大湊に、 もう一度誰の出迎えなのかと尋ねようとしたところで、 三人の後ろを通り過ぎる者達の会話が耳に入った。 「三国同盟の・・・・・」 「・・・・・イタリアが・・・・・」 「無条件降伏・・・・・」 切れ切れに聞こえたのは、月の初旬の9月18日、 連合国側に無条件降伏した同盟国イタリアの話だった。 思わず振り向いて話の主達を目で追ってしまった。 戦況は酷くなる一方だった。 軍人の中にも、聡い者はとっくにこの戦争の結末を悟っていて、 残る考えは、その終わり方がどの様な途を辿って、 そこに至るのかという事ばかり。 堪らず、木崎は二度・三度と頭を振った。 と、目の前の巡洋艦のタラップを昇ってゆく、 思い掛けない人の姿を見かけて胸が高鳴った。 「ん、どしたぃ?」 目敏い大湊が、木崎の様子に気付いてタラップを見上げた。 「おんや〜、ありゃ高宮の坊ちゃまじゃねぇか?」 「ええ、多分・・・」 木崎の船乗りの視力で視たその姿は、大方間違いなく甲太郎だと思われた。 「え?誰ですか?高宮中尉? あ、ホントだ! おーい、高宮さーん!!」 中野も漸く二人の会話に気付いたらしく、 船上に向かう人影に向かって手を振った。 タラップを昇っていた人影が足を止めて、此方の方をじっと伺っている。 どうやら此方に気付いたらしい。 傍らを過ぎようとしていた水兵に一言二言何やら声を掛けると、 手に持っていたトランクを預け、折角甲板近くまで昇っていたタラップを、 軽い身の熟しで駆け下り始めた。 人影は、見る間に岸壁に降り立ち、此方に向かって駆け寄ってきた。 徐々に近付く人影は、やはり甲太郎その人で、 木崎は知らぬ内に笑みを浮べ、恋人が傍まで来るのを待っていた。 ここで、時間は少し遡って前日の夜である。 「高宮!」 海軍軍令部第一部第一課、通称作戦課の室内奥に位置する浅倉の席から、 甲太郎の名を呼ぶ声が発せられた。 自席で報告書の作成の詰めを行っていた甲太郎が顔を上げ、 浅倉の席の方を見遣れば、座り心地の良さ気な革張りの椅子に座った浅倉が、 目の合った甲太郎に、グイと顎を引く簡単な身振りで此方に来いと示した。 甲太郎も承知の旨を目礼で返し、すぐさま席を立って浅倉の元へと向かった。 同僚達の席の間を擦り抜け、浅倉の机の前に立つ。 姿勢を正し、上司の言葉を待った。 「どうだね、その後?」 「・・・・・」 浅倉の問い掛けが、何を指してのものなのか、 ハッキリとしない場合には、下手な返事はしない方がいい。 甲太郎が浅倉の部下となって、最初に憶えた事だった。 的外れな答えを返せば、とことんまで揚げ足を取られ、 知られなくてもいい事までを、事細かに親告させられてしまうのだ。 だからこそ、今回も甲太郎は上司の次の言葉を無言で待った。 その様子を見て、はっと浅倉が笑う。 「段々と、私の元で働くという事に慣れてきたようだな」 「・・・・・」 甲太郎は背中の腰の辺りに手を組んで、 変わらず浅倉の前に微動だにせず立っている。 「まぁいい」 浅倉が、本題に入る気になったらしい。 「どうだねと聞いたのは、君の身体の事だ。 そろそろ前回の任務から間も空いて、 気力・体力共に元に戻った頃ではないかと思ってね、 尋ねてみたんだが、どうだね?」 椅子の肘宛に片肘を付いて、それに頭を持たせ掛ける様にして座る浅倉が、 この所、誰に話す事も無く、密かに甲太郎が思っていた事を尋ねてきた。 「やはりきたか」と思った。 この質問の答えは、何度も繰り返していたのですんなりと口に出来た。 「長い間、内勤をさせていただいておりましたので、 もうすっかり疲れも取れ、気力も充実しております。 御命令下さりさえすれば何時なりと、先方へと向かう準備は出来ております」 「そうか、では早速だが・・・・・」 そうして告げられた、甲太郎の次の任務。 出発は辞令を受けた翌日、つまり明日だった。 珍しい事ではなかった。 「謹んで、拝命いたします」 受諾の言葉と敬礼。 「今夜はもう、帰りたまえ」 調度出来上がった報告書を提出し、浅倉の言葉に従って、 甲太郎は軍令部を後にした。 任務の遂行の出来次第では二度と還る事の叶わぬ軍令部の建物を、 門扉の前で途中一度だけ振り返り、甲太郎は月夜の道を一人きりで歩き出した。 家への道すがら、立ち止まって見上げた月に木崎を想い、 会いたいと願ったが、生憎と夜も更けていた。 連絡を取ろうにも、木崎の家に電話は無く、 第一、課も違う木崎に何と言って連絡を取ればいいのか。 木崎には、嘘を付いて家を出て来る事など出来はしないだろう。 出て来て会ってくれと我が儘を言っても、木崎には無理な話だ。 再び会えないかもしれなくとも仕方の無い事、此れこそが運命なのだと、 甲太郎は残る想いを振り切った。 「よぉ、また人使いの荒い上司に何処か遣られるのか?」 大湊が直球で甲太郎に尋ねれば、甲太郎も「はい」と素直に応えた。 思い掛けず会えた事での木崎の胸の高鳴りは、 甲太郎の応えの意味する所を知って凍り付いた。 「詳しい事は言えねぇだろうが、言えるとこまででいい。 今度は何処だ?南方か?大陸か?」 甲太郎が困ったように笑う。 「中佐程の情報通でいらっしゃれば、私なぞにお尋ねにならずとも、 もう既にご存知なのでは?」 「ふふん、まぁな」 大湊は肩を一つ竦めてみせた。 「まぁ何処に行くにせよ、三国同盟のイタリアが敗戦し、 助力を頼もうにもドイツも遥か彼方のヨーロッパで孤立無援で戦ってる。 日本だって何時までもつか時間の問題だ」 「ちゅ、中佐?!」 話の際どさに、中野が悲鳴を上げた。 何処で誰が聞いているのか分からないのだ。 それを笑い飛ばして、大湊は続けた。 「とにかく、『命あっての物種』だ。 やばいと思ったら、尻に帆掛けて戻ってこい」 心底困った風に甲太郎は笑って言った。 「中佐、それは・・・・・無理と言うものです」 軍人として、出来る筈もない事だと木崎にも分かる。 軍人にとって、軍令は絶対だった。 それぞれが物思いに沈む中、汽笛が鳴った。 「それでは私はこれで」 相変わらず、軍人の所作の手本の様に美しい敬礼を残し、 甲太郎が自分の乗り込む艦へと戻ろうとするのに、 せめて一言なりともと思った木崎だったが、 大湊や中野の前では、流石にそれは憚られ、 どうする事も出来ず、黙って自分も敬礼でその背を見送った。 踵を反して艦に向かう刹那、二人の目が合った。 凪いだ海の様に穏か過ぎる眼差しが、不吉な何かを感じさせ、 居ても立っても居られなかったが、どうしても後の一歩が踏み出せない。 そうして居る間にも、甲太郎の背はどんどん遠ざかって行く。 「おい」 突然に大湊から声を掛けられ、慌てて振り向いた。 「はい」 「すまねぇが、アイツを追っ掛けて伝言を頼まぁ」 「は、はい」 「『まだまだオメェとは話し足りねぇ。 今度は酒でも飲みながら、話そうぜ。 待ってるからな』ってな、伝えてきてくれ」 「はい!!」 それだけ返事をすると、木崎は全速力で甲太郎を追った。 〜2の第11週〜 |