大湊の言い付けに従って甲太郎の元へと駆けていた木崎は、 停泊中の船の背後に広がる空に季節の移ろいを感じた。 暑さが其処此処に残っているとはいえ遥か彼方を見上げれば、 まだ夏の色の青空に浮ぶ雲は、確かに秋の訪れを告げていて、 同じ様に海の色もその蒼さに、沈む暗さを混じらせ始めていた。 岸壁近くの海の色はというと、不思議な事に、 これは四季を通じて然程変わっては見えず、今日も何時もの様に、 チャプチャプと音を立てて打ち寄せていた。 そこに離岸の準備のすっかり整った大型船のエンジン音が混じり、 出発間近の慌しさが弥増している。 平時の港ならば、至る処で身内や知り合い同士の、 見送る者、見送られる者の別れの挨拶や再会の約束が交わされる場景が 繰り広げられているところだろうが、此処は軍港で、 しかも戦時の真っ只中だった。 そんな風な感傷的な場景は何処にも見当たらず、 軍人同士の同僚、或いは上官の見送り程度がせめてもといった様子だ。 そんな岸壁を、木崎は甲太郎に向かって駆けて行く。 大湊の心遣い。 遅れ馳せながらではあったが、この時漸く、 木崎は大湊が自分と甲太郎の関係を知っている事に気付いたのだった。 思い返してみれば、もう片方の当事者である甲太郎の方はというと、 とっくにそんな事には気付いていた様に思う。 もしかすると大湊の副官の中野にも、 二人の関係は気付かれているのかもしれない。 こちらについても思い返してみれば、その様な節が感じられる気もする。 他の誰にも憚られる様な自分達の関係を、未だ知られてはいないと思い込んで 安心していたのは、自分だけだったのかと、 自分は何と鈍いのかと苦笑してしまう。 しかし今はその事は措いておく事にした。 こうしている間にも、時間は刻々と過ぎて行き、 最後の乗船者らしい甲太郎がタラップを昇り、乗船したならば、 直ぐにも碇を上げて、出港してしまうだろうから。 この場では、木崎は心の内で大湊に何度も何度も頭を下げて 感謝するだけに留めておいた。 今大事な事は、もう大分離れてしまった背中に、一時も早く追い付く事なのだ。 それなのに、胸の奥底から込み上げてくる熱い固まりに息を付くのも覚束なくて、 中々追い付く事が出来ないのが歯痒い。 途中で脱げて落としそうになって気になって仕方の無かった軍帽を、 いっその事と脱いで手に持つ。 それだけで、僅かながらも走る速度が上がった気がしたが、 やはり距離はそう簡単には縮まらず。 それでも木崎は必死に走った。 遥か先を歩く甲太郎の目前に、乗り込む船のタラップが迫っていた。 もう、間に合わないかもしれない。 木崎がそう思った時だった。 (待て!!待ってくれ、高宮!!) と、心の内で名を叫べば、普段はその存在を疎かに考えている、 [神]とか[仏]とかいう誰かが木崎の努力を目に留めて、 気紛れを起こしてくれたらしい。 タラップの直前で不意に立ち止まった甲太郎が、 木崎の追ってくる気配に気付いてくれた。 木崎が自分の元へと走り寄るのを待っていてくれる。 甲太郎が気付いてくれた事にホッとはしたが、やはり時計が気になる木崎は、 足を緩める事無く、精一杯の足取りで 甲太郎の待つタラップの傍へと駆け続けるのだった。 そうして木崎は、甲太郎に何とか追い付く事が出来た。 木崎が思った通り、乗船する者は粗方乗り込んでしまったらしく、 タラップ近くには見送る側の人が数人程度と、然程人は居なかったので、 その場で話をしても、他人に聞かれる心配は無かったが、 甲太郎はほんの少し、タラップから離れた場所まで木崎を促した。 その程度の距離では、轟々と唸りを上げ続けている 出港直前の大型の船の機関の音が 煩い程に大きな音で聞こえてしまっても仕方の無い事で、 船乗りには馴染みの或るその音に消されない程度の声量で、 甲太郎が木崎に話し掛けてきた。 「どうしたんですか?」 負けずに、木崎も大きな声で応えた。 「大湊中佐から伝言。 『まだまだオメェとは話し足りねぇ。 今度は酒でも飲みながら、話そうぜ。 待ってるからな』だそうだ」 すいっと甲太郎が大湊達の居る方に視線を動かす。 それに倣う様に、木崎もそちらに視線を動かす。 気付いた大湊がこちら側に向かって、 ちょいと被っていた軍帽の鍔先を上げて見せた。 対して甲太郎も、被っていたソフトを軽く持ち上げてみせる。 離れてはいたが、木崎にも大湊が嬉しそうに笑ったのが分かった。 「それで?貴方の方は?」 大湊達の居る方から、自分の傍らに立つ木崎に 視線を戻した甲太郎が聞いてきた。 「貴方からは私に、何も言って下さる言葉はないのですか?」 とでも言う様な眼差しで。 その眼差しが木崎には、 酷く自分の事を思い遣ってくれている優しげなものに思え、 また或いは彼自身の為に、心を許し、通わせ合った相手からの餞の言葉を待つ、 恋情を伴う眼差しにも思え、嬉しさとも寂しさとも付かぬ想いが突然、 胸の奥深くから溢れかえるみたいに湧いてきて、息が詰まってしまった木崎は、 そっと甲太郎の眼差しから自分の心の内を隠す為に面を伏せた。 そんな風な木崎の様子も、以前より多少なりとも彼の、 その人となりを分かり始めていた甲太郎には喜ばしい事だとは思えても、 情の薄い人だとか物足りぬ人だとかいう思いは欠片ほども浮ぶ事は無かった。 ・・・・・などと物分りの良い恋人の振りをしている甲太郎ではあったが、 此れが今生の別れとなるかも知れないと思う気持ちも その身の内には確かに在って、 せめて一言、木崎自身の言葉で「無事に帰ってきて欲しい」と 言ってはもらえないものかと思いはしても、到底言葉には出来ずに、 只々目の前で俯く小振りな肩を見詰めるばかりだった。 一方、出港の時間はもう目前に迫っているのに違いなく、 どうしたものかと思案に暮れて俯いたままの木崎はというと、 此方も無骨で言葉の足りない甲太郎に負けず劣らずの口下手で、 自分の心情をどう伝えたら良いものかと焦りを感じながら懊悩していた。 毎回、当たり前の事ではあるが、木崎が甲太郎の赴く任務の内容を 教えてもらった事など無かったし、有り得ぬ事だった。 後々軍令部内で見聞きしたり、 自分の上官である大湊から直に教えられたりして、 遅れ馳せながらに甲太郎の任務の難しさ、厳しさを知らされたものだった。 甲太郎の所属する部署の職務上、 今回の任務も容易には果たせないものであろう事は 陸上勤務の上に、専ら事務方仕事の木崎でさえも容易に想像できて、 取り敢えず、甲太郎に命だけはと、無事で帰ってきてくれと言いたかった。 けれどそれは今の世に在って、 軍人を家族に、恋人に、知人に持つ誰もが言いたくて、 世間を、時代を憚って、表立っては言えずにいる言葉。 当の軍人である自分が、この言葉を口にする事は尚の事憚られるのだった。 それでも、木崎は言わずにはいられなくなり、遂には伏せていた面を上げ、 自分を静かに見詰め続けていた甲太郎の視線を捕らえ、いざ口を開いたその時、 調度着岸してきた軍艦から鋭い汽笛が発せられ、 甲太郎が乗船する予定の船からも応える様に汽笛が鳴らされた。 二度・三度と鳴らされる汽笛は、 同時にいよいよの出港を知らせるものでもあって、 ジリジリと残る乗船者の甲太郎の乗船を促している様だった。 汽笛によって漸く決心した自分の身の内の言葉を 告げる機会を遮られてしまった木崎は、 今まさに最初の言葉の形に開かれていた口を堅く引き結び、 甲太郎から数歩分離れると脇に挟んでいた軍帽を被り直し、 姿勢を正して、それはそれは美しい敬礼を餞に送った。 甲太郎もその姿を見て、もう何も言わず、自分は敬礼の代わりにキビキビとした 軍隊流のお辞儀を一つして船へと踵を反した。 「行ってこい」「行ってまいります」とは、双方共に言えなかった。 待つ方も、待たせる方も、明日は分からぬ身に代わりはないのだから。 内地に居る木崎でさえ、本土への敵機の空爆が始まり始めた今日では 最早安全とは言えなかったし、戦況によっては、兵の数の不足の続く前線に、 何時何時配置換えにならないとも限らなかった。 甲太郎に措いては、況やをやであった。 離れた所から二人の遣り取りを、見るともなしに見ていた大湊と中野だったが、 別れてゆく様子を見るに至って、それまで黙っていた上官の方が 遂には大きな溜息を吐いた。 「何なんだ、ありゃ?」 「はぁ・・・・・」 「人が折角二人にしてやったって言うのによ」 「いや・・・流石にこの場では、いくら二人にしてもらったからと言って・・・・・」 「テメェ、何暢気な事言ってんだ!! 俺とオメェだって、明日は知れないんだぞ!!」 「エエッ!?」 妙な悲鳴を上げた副官に、大湊が怒鳴る。 「オイッ!!テメェ、今何気色の悪ィ事考えやがった!! 俺にはソッチの気はねぇぞッ!!」 「・・・・・あ、そうなんですか・・・・・・・(ほっ)」 大湊はブルリと一つ身震いしたが、別方向の視線の先に目当てを見付け、 それまでの話を打ち切るみたいにして言った。 「おい、来たぞ」 大湊の、それまでとは打って変わった物言いに、 慌てて中野も上官の視線の先を追った。 何歩か歩いた甲太郎が立ち止まり、木崎には背を向けたまま聞いてきた。 「そう言えば、今日はどうして此処に? まさか、皆さんお揃いで私の見送りに・・・・・なんて事は有り得ませんよね?」 先程着岸した軍艦が、乗員の上陸準備に取り掛かったらしい、 ガラガラとタラップを降ろす為の鎖の音が煩いほどだ。 そんな環境だから、本来ならまたどちらかが相手に駆け寄って、 相手の傍で話をした方が聞き逃し無く会話をする事が出来るのだろうけれども、 もう傍に行っては行けないと、双方が思っていて、 だから質問を受けた木崎も、自分に背を向けて立ち止まっている甲太郎の、 今では見慣れてしまった自分のものよりも一回りは大きな背中を その場に立ち尽くして見詰めながら、甲太郎の耳に届く程度の、 良くとおる大きな声で応えたのだった。 「実は、俺も詳しい事は聞いていないんだ。 今朝いきなり、これから港に行くと言われて・・・・・。 けれど、出迎えだとだけは聞かされた」 甲太郎は木崎の言葉に何気無く、たった今着岸したばかりの、 自分達の船とは入れ替わりになる軍艦の方を見遣った。 調度その視線の先には、軍艦から降ろされたタラップが。 そこを、既に下船する乗組員やらが一人・二人と降りて来始めている。 「確かこの艦は、先日(昭和18年9月10日)の[鳥取地震]の折に、 被災地の救援や物資の輸送に使われた艦ですよね?」 上官や甲太郎が目を遣っていた軍艦のタラップを自分も倣って見遣りながら、 中野は大湊に聞いた。 「そうだ。あの震災で鳥取市の中心部はほぼ壊滅状態らしい。 しかし、こんなご時世でも何かしら幸いする事があってな、 関東大震災の時とは違い、空襲等に備えての防火訓練と、 ご時世そのもののお陰で統率が出来ていたらしい。 略奪なども横行せずに済んだそうだ」 「それで?」 「戦時下に措いても、敵味方の関係なく、 各国から救援の手が差し伸べられたし、 陸路や空路は勿論の事、我々海軍からも迅速な救援を差し向けた。 その中の一隻がこの艦だったんだ」 上官の話を聞いている中野の目は、 タラップを降りてくる乗員達の姿を追い続ける。 それは大湊も同じで、二人は並んで軍艦を、 慌しく乗り降りする乗員達を見詰めていた。 やがて、大湊が片方の眉を上げて呟いた。 「御出座しだ、行くぞ」 一瞬だけ離れた先の二人をチラリと見た中野が 軍艦に向かって歩き出した上官の後を小さく溜息を吐いて追った。 上官の行く先、軍艦のタラップには・・・・・。 乗り降りの人影の多くなってきたタラップは、 水兵の姿や、下級の乗組員達でごった返してきた。 その中には、チラホラと士官の白い制服も混じっている。 唐突に、甲太郎は前夜に浅倉が別れしなに言っていた言葉を思い出した。 「明日は港で、思い掛けないものを目にするかも知れんぞ」 そんな事を言っていたと記憶している。 妙に引っ掛かる物言いだった。 確かに木崎に会えたのは思い掛けない事ではあったが、 浅倉の言葉のニュアンスは、この事ではないと告げていて。 嫌な言い方だった。 軍艦に目を遣ったまま、忙しく頭を働かせて気付く。 甲太郎の所属する部署にも、情報部の大湊達の所と同様に 様々な情報が入ってくるのである。 例えば、この港への今日の入港予定の船舶の事だとか。 そう思い付いて見れば、もしやこの艦は、 先日の地震の被災地の支援の為にと動かされた艦ではなかったか? 確か所属は・・・・・そこまで考えてハッと気付く。 ニヤリと、頭の中で浅倉が人の悪い笑みを浮かべた。 同時に、タラップから岸壁へと降り立った人影が嫌でも甲太郎の目に付いた。 「一年ぶりか・・・・・」 地面へと降り立った白い軍衣姿の佐官は、 被っていた少々草臥れ気味の帽子を今一度被り直す。 肩に担いでいるのは使い慣れた鞄が一つ。 それを地面に置いて、来てくれている筈の 迎えの者の姿を探して辺りを見渡してみる。 今回、上層部からひょっとすると長い滞在になるかもしれないとは言われたが、 己の身の回りの物等、この鞄一つで事足りた。 残りの荷物等殆ど無かったが、どうせ暫くすれば戻るのだからと、 それ等は兵舎に置いてきた。 天涯孤独の身のその佐官には、既に物に対する執着は、 殆どと言っていいほど無くなっていた。 (唯一、何より代え難い大切な物といえば・・・・・) 佐官は何時もの癖で、己の左手首へと指先を伸ばした。 思い出に触れる為に。 鈍く銀色に光る、思い出の腕時計へと。 〜2の第12週〜 |
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