風は凪いでいて、そよりとも吹いているとは感じられない。 それでも天の遥か彼方では、風が吹いているらしい。 その夜の月を、風は次々と雲で覆っては払い、覆っては払いしている。 困窮する物資の節約の為、今では外灯の殆どが灯火されなくなって久しい。 足元を照らしてくれる筈の月明かりも、そんな風に其処此処に漂う雲のせいで、 途切れ途切れにしか地上へ、その光は届かない。 一人実家[翠山]への道を辿り、もう直ぐ其処という所まで帰って来た時に、 甲太郎が何気なく見上げた先の月は、 調度また流れてきた雲の一つに隠れるところだった。 月が隠れると同時に、甲太郎の面もすっと宵闇に覆われた。 「・・・・・逢えないなら、せめてもと思った」 辺りを覆った暗闇の中、唐突に何処からとも無く 居る筈の無い人の声が聞こえた気がして、闇に眼を凝らし、 素早く辺りを伺ったが、目当ての人物を見付けられる筈は無く、 溜息交じりの自嘲が零れ落ちただけだった。 己の溜息を切欠にして、 甲太郎は先に別れたその声の主の事を思い返し始めた。 季節が一つ巡っていた。 師走の西宮邸での晩餐会以来の再会。 聞き間違えようも無い、小さいながら、はっきりと甲太郎に届く声で 木崎は言った。 「・・・・・逢えないなら、せめてもと思った」と。 それまでの、再会と互いの壮健をを喜び合う笑顔は消え、 視線を逸らして俯いた木崎の、居もしない甲太郎の部屋を訪れるという、 自分自身の今回の行動を愚かと、 ひっそりと笑う様を目にした甲太郎の身の内を、 木崎に対する恋情が一気に貫いた。 只々、木崎が愛しかった。 後はもう、甲太郎は衝動を抑える事が出来なかった。 晩餐会の夜の、己の独白に対して、 甲太郎は木崎からの明確な言葉での返答を聞かせて貰えた訳ではなかった。 それでも、逢う事が適わないのならばと木崎は出向いてきてくれたのだと言う。 その部屋を訪れてみたい。 主が不在でも構わない。 部屋に残っているであろう、面影の欠片を拾いたいと。 そんな風に想っていて貰えただけで、甲太郎には充分だった。 思い掛けず、思いも掛けない所で、思いも掛けない言葉を貰えたのだ。 久しく姿を見る事も叶わなかった、 愛しいと想いを寄せている相手からそう告げられたのだ。 抑え等、利こう筈がなかった。 視線を畳に落としたままの木崎に、 それこそ獣が獲物に飛び掛る如くの勢いで飛び付いた。 歳も、官位も木崎より下の甲太郎の前でも、 律儀に正座を崩さなかった木崎の小柄な身体を、 一回りは大きな甲太郎の体が囲い込む。 その勢いの激しさに木崎はバランスを崩してしまい、 木崎を抱き込んだ甲太郎は、もう離すものかと云わんばかりに 畳へと倒れこんでゆく木崎の身体を抱いたまま、 己も追う様に畳みの上に転がった。 木崎は、抱き竦められた身体は勿論の事、 甲太郎が触れる寸前に畳の上から持ち上げた視線さえも捕えられた。 瞬く事も出来ない。 それでも自分の心中に、突然の甲太郎の行動に対する[驚き]は在っても、 [拒絶]や[嫌悪]等という感情が無い事に気付いた木崎は、 大人しく、甲太郎にされるがまま、畳の上へ転がった。 自分のするに任せる木崎の心の内を察した甲太郎は、更に歓喜した。 腕の中の木崎の存在を確かめる様に、甲太郎は暫くは無言で、 木崎をしっかりと抱き締め、畳の上に身を横たえるばかりだった。 その間、僅かでも木崎が身動ぎすればその度に、 尚強い力でその動きさえも封じ込めた。 どれ位そうしていたか・・・また、木崎が小さく身動いだ。 まだ離さないと腕に力を込めようとしたが、 身動ぎが、有ろう事か堪えた笑いの為らしいと気付き、 甲太郎は己の胸元の辺りに有る木崎の顔を訝しげに覗き込んだ。 「・・・・・木崎、さん?」 囁きで名前を呼んでみれば、漸く出来た甲太郎の胸の隙間から 木崎も顔を上げて甲太郎の方を仰ぎ見た。 その貌には、甲太郎が思った通りに笑みが刻み込まれていて、 それでもそれが自分に関しての事で刻まれたものだと 瞬時に理解した甲太郎は、今の状況でどうした事かと 眉根を寄せて胸元の木崎を見下ろした。 木崎はというと、その甲太郎の様子が拗ねた仕草に思えて、 もう一度、貌に微笑みを刻む。 「何が、可笑しいんです?」 不機嫌さを顕にした声音が、木崎に降ってくる。 「いや・・・可笑しいだなんて」 微かに首を左右に振って見せながら、木崎は先を続けた。 「嬉しいんだ・・・・・」 「嬉しい?」 問い返す甲太郎の声は、未だに不機嫌さを消してはいない。 「普段、冷静沈着な、余裕が過ぎる程の君がと思ったら・・・・・嬉しくなった」 やはり自分の事を笑ったんじゃないかと、 甲太郎の不機嫌さは容易には消えない。 そこに木崎が、「気を悪くしたんなら謝る、許してくれ」と、 心底済まなそうな表情と声音で詫びてくる。 そんな風に言われてしまえば仕舞いだった。 ふっと溜息混じりに笑って、甲太郎は木崎を抱き直した。 今度こそ、この存外の状況を堪能しようとしていた甲太郎を、 木崎の身動ぎがまたしても遮った。 はぁと重い溜息が甲太郎の口元から漏れた。 「今度は何ですか?」と問いかけようとしたが思い止まる。 落ち着いてよくよく考えてみれば、 先に考えていた事が急に思い浮かんできた。 確かに木崎は自分に逢えないならばと此処に来た理由を話してくれたが、 だからといって今のこの状況をどう思っているか? 偶然にも会えた事を良かったと思ってくれているのだとは思う。 けれどもその後のこの状況はどうなのだろうか? いきなり、官位も下の同性の若造に押し倒されているのだ。 こんなつもりではなかったと思っているのではなかろうか? 自分なりに考えてはみるが、定かではなかった。 今更にその辺りの事に思いが及んだ甲太郎は、 自分の余裕の無さと、相手に対する気遣いの無さに、 遅まきながら腹の底が冷える思いに捕らわれた。 そうなると、このまま木崎を抱き締めているわけにはいかないという気になって、 甲太郎は腕の中から木崎を開放する事にした。 それでも木崎の身体から腕を外すのが渋々といった感じになってしまうのは、 正直、名残惜しさのせいだ。 最後は振り切る勢いで、甲太郎はその身を起こして 傍らの木崎とは反対の方に顔を向けた。 顔を背ける瞬間に見た木崎は、大きな瞳を更に大きく見開いて、 畳の上に転がったまま甲太郎を見上げていた。 その様が余りに無防備に見えて、甲太郎は尚の事、 それ以上木崎の方を見る事は出来なかった。 見ていれば、また同じ様に飛び付く勢いで抱いてしまうと分かっていたから。 胡坐を掻いた甲太郎は、がっくりと項垂れた顔を両の手で覆う様にして隠すと、 指の間から何とか声を押し出した。 「今日のところはもう、帰っていただけませんか・・・・・」 甲太郎の言葉に、畳の上の木崎が起き上がる気配は無い。 その代わり、問い掛けが。 「何故?」 覆っていた手で、上から下へ顔を一撫でした甲太郎は大きく息を吸い込むと、 吐き出すその息に答えを上乗せして木崎に寄越した。 「私の事を[冷戦沈着]だとおっしゃった・・・・・ けれど先程、私の様子を見てお笑いになった」 木崎は黙って聞いている。 「そうなんです。 私は[冷静沈着]なんかではない。 貴方の事を自覚して以来、西宮邸での晩餐会の夜と云い、 今と云い、まるで余裕が無いんです。 ですから・・・・・」 そこで一旦言葉を切ったが、思い切って先を続ける。 「今は、どうぞ帰ってください。 でないと・・・・・私は貴方を、有無を言わさず、 このまま、抱いてしまうかもしれません」 甲太郎の背中越しの畳の辺りから、小さく息を呑む気配が感じられた。 それはそうだろうと思う。 幾ら前もって自分に対しての想いを伝えられていたとはいっても、 そうして木崎自身も他の同性、絹見を想っているのだとはいっても、 同性同士の抱く、抱かれるという尋常ではない言葉を耳にしたのだ。 甲太郎には、木崎の心中が察せられる様だった。 改めて現実を突き付けられたというところか? 動揺しないという方が珍しいだろう。 これできっと、今日のところは木崎も帰ってくれるだろう、 甲太郎がそう思い、目前の懸案だけでもどうにか回避できたと、 こっそり安堵の吐息を吐いた時だった。 かさりと、何処か荒れの残る指肌の感触が、 甲太郎の二の腕の辺りに触れてきた。 いつもなら、自分よりも一回りは大きな、 小柄だとは云っても、同性である自分の男としての身体を、 すっぽりと抱き込んでしまえる程の、年下の男の背中が、 畳に転がったまま見遣った木崎の視線の先、 今は酷く頼り無げに小さく、萎んで見えていた。 聡い男の事だ、きっと自分の事を慮っての事なのだろう。 急に帰れと言い出したのは。 そうして直ぐに木崎の想像は、甲太郎自身の言葉によって肯定された。 けれども・・・・・と木崎は思う。 自分は男社会の軍隊に、職業軍人として入隊して、 既に20年近くを経ている。 その間、男盛りの同性が殆どの、しかも潜水艦の中という特殊な環境の中、 噂に聞くばかりでなく、実際目の当たりにした事だとて遇った。 己に関しては、小柄な体躯と面差しのせいで、その様な対象としてみられたり、 実際言い寄られたり、無理強いされようとしたりした事もあったが、 同期や同位以下の輩に対しては、その腕っ節の強さで、 或いは気の好さを気に入られていた上官達からの擁護もあって、 悉くそのどれもを退けてきた。 結婚をしてからは妻だけを愛しいと想い、 同性ばかりの軍隊という世界を過ごしてきたのだった。 絹見を知り、甲太郎を知るまでは・・・・・。 そんな風な木崎だったから、これまでの経験と云えば、 偶然の、突発的な事故とさえ云えそうな絹見との口付けと、 先日、想いを打ち明けられた時の甲太郎からの、 暫くは時折、唇が訳もなくひりつく様に感じられた程の熱い口付け位だった。 あの時の事を思い出し、確かにと木崎も思う。 このまま、折角の甲太郎の気遣いを無視して、事に及ぼうとしても、 結局自分が寸での所で二の足を踏むに違いないと。 それでも・・・・・せめてもと、こうして逢えたのだからと、 木崎は自分から甲太郎に手を伸ばした。 見上げていた月が、再び雲間から顔を覗かせるには、 凪いだ風のせいで随分と時間が掛かった。 その長い時間を、甲太郎は先程までの木崎との時間を思い返して過ごした。 木崎に触れられた事で、ピクリと身じろいだ甲太郎の反応に、 まるで的外れの事で木崎は謝ってきた。 「あ・・・すまない・・・・・。 艦を降りて、もう大分経つというのに、 身体がそういう風になってしまっているんだろうな。 水を扱う部署でも、外を歩き回る部署でもないのに、 指先が・・・冬になると荒れてしまって。 春先の今頃になっても、まだ少し、こんな風にかさ付きが残って、 朝晩の寒さに、赤くなっている娘の頬を擦ってやる度、 痛いと言って嫌がられるんだ」 そう言うと、木崎は甲太郎の二の腕の辺りに触れさせていた指先を引っ込めた。 けれど、その指先が木崎の元に戻る前に、もう一つ、別の指先が絡まってきて、 木崎は畳から一瞬にして上半身を引き起こされた。 起き上がった木崎を、身体を反転させた甲太郎が抱き留める。 木崎の肩口に埋まった甲太郎の口元からは、呻きにも似た声が吐き出された。 「・・・・・だからッ!!どうして貴方は!!」 一方的に抱き締められていた先程とは違い、今度こそ、 木崎も甲太郎に負けない程の一途さで、その背を抱き返して応えた。 「君の・・・・・君の義母上のお使いを、きちんとこなしたんだ。 褒美の一つもくれないか?」 木崎の言葉に驚き、その肩口から顔を上げた甲太郎に、 発言者は柔らかく微笑んでみせた。 「此処までの道を、君の事だけを想いながら来たんだから」 未だに呆然と木崎を見詰めるばかりの甲太郎に、止めとも云える一言が、 木崎の口から放たれた。 「口付けの一つ位・・・・・くれても、良いだろう?」 もう一度眼を瞠り、それから強く強く眼を瞑った甲太郎は、次の瞬間、 眼を開くと同時に木崎の小振りな顔を両の手で掴むみたいにして捕らえると、 自分の体中に有る木崎を想う気持ちを全て送り込む様な、 木崎の自分に対する想いの一欠けらでも構わないから この身の内に取り込みたいとでも云う様な、 激しくも切ない口付けを、木崎の唇へと施しのだった。 と、そこまでを思い返した甲太郎は、また一つ大きな溜息を零した。 結局は言葉通りに、口付けを一つ交わしただけで 木崎を自宅へと送り出したしたのだが、 その為には、自分の身体の中に残っていた、なけなしの[理性]とやらを 総動員しても危ういところだった。 調度、実家の[翠山]からの電話を知らせる母屋からの呼び鈴が鳴らなければ、 或いは行きつく所まで行っていたかもしれなかった。 こうして月を見上げながら、木崎を想う甲太郎の心の内を、 残念に思う気持ちと、ホッと安堵している気持ちの双方が順繰りに 占めては入れ替わり、占めては入れ替わりしていた。 次に木崎に逢えた時、自分がどんな行動をとるのか? 甲太郎は自分の事ながら、どうにも思い至らず、 繰り返しの溜息を零すばかりだった。 〜2の第3週〜 |
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