その頃、甲太郎に盛大に溜息を繰り返させている張本人はどうして居たのかというと、 帰り着いた自宅の庭先を、構って貰おうと父親の帰宅を待ち侘びていた愛娘と共に、 見るともなしに眺めながら、甲太郎と同じ様な溜息を繰り返していた。 木崎の家の庭は[庭]とはいっても、[翠山]の風雅で贅の限りを尽くした日本庭園とは 比べ物にならない程貧相な物で、まるで規模も趣も違った。 そもそも食料事情の悪化する一方の昨今、そろそろ厳しさを増しだした食料統制の下、 大部分の一般家庭の庭という庭は、[庭]という心を安らかに、 四季の美しさを愛で楽しむという本来の姿を、その隅々までを耕し、 [食物]の種や苗を植えた、食糧供給の為の[自家菜園]或いは[畑]へと、 その存在を変えてしまっていた。 木崎の家の猫の額程のささやかな庭も然りで、 いつもなら春先のこの時期、庭には春の可愛らしい花々が 其処此処に咲き始めている筈だったが・・・どうだろう。 少々の無理をしても耕せるだけ耕し作られた畝には、 春野菜がどうにかこうにか細々ながらも育っているし、 もうそう間を置かずに、夏や秋に収穫する為のじゃが芋やさつま芋の種芋を植え、、 保存の利く南瓜等の種も撒かねばならない。 例え、この程度の小さな[畑]で取れる収穫等、微々たる物だと分かってはいても。 そんな実用向きの庭を、どれだけ眺めていても気分が癒される訳もなかったが、 木崎は見え隠れする月明かりの下で、ぼんやりと畝に出たばかりの 柔らかな黄緑色した双葉達を眺め続けていた。 そうこうしている内に、まだ小さな愛娘の萬波は構ってくれない父親に焦れたか、 愛想を尽かしたらしく、今度は母親を呼びながら、家の中に入っていってしまった。 庭に面した居間の縁にぼんやりと腰掛け、 母親の元へ駆け寄ってゆく娘の後ろ姿を見送り、 元の様に庭に視線を戻すと、木崎はまた一つ溜息を付いた。 開いた両膝の間に所在無さげ両の手を放り出した格好で考えているのは、 一時前に別れた青年の事だった。 春が来たとはいえ、3月の朝夕の寒さはまだそこそこの寒さで、 居間と縁の境は小さめの雪見の窓が付いている障子で隔てられていて、 木崎が腰を下ろしている縁側の肌寒さが部屋の方に入り込む心配は殆ど無い。 まだ雨戸の立てられていない縁側で、木崎は尚も一人で物思いに耽り続ける。 何時もならば食事や風呂の事など、帰宅したての木崎に対して聞いてくる妻だったが、 子煩悩な筈の木崎が最愛の一人娘に構わないのは余程の事で、 何かしら軍務上の懸案事項でも抱えているのだろうと思ったらしく、 木崎の方へ近付いてくる気配は無い。 一方で申し訳ないと思いつつも、もう一方で木崎は、 妻のまるで見当違いな気遣いが有り難かった。 そんな自分の複雑な感情に代惑いながら、僅かに上体を横に傾がせれば、 重なったガラス戸に凭れかかる事が出来た。 自分の肩の重みをそれに預けながら、その堅い感触に青年の肩先を重ねた。 アレはもう、[本能]だったと思う。 この不確かな時代に追い詰められている者を、[本能]が煽り立てるのだ。 今、この時。 後は無い、次は無いと。 だから少しでも触れたい、触れて欲しいと、知らぬ間に身体が動いていた。 木崎は自分で自分の先程の行動に、無理矢理にでも、そう理由付けした。 実のところ、自分でも驚いているのだった。 あんな風に、自分から誘う様な言動が出来るとは、思ってもいなかった。 今思い返しても、羞恥に頬が染まるのが分かったが、 直ぐに別の考えが浮かんで頬を染めた熱は急速に冷えてしまう。 鏡で確認した訳でもなかったが、自分の甲太郎に送った視線や仕草は、 物欲しげな、媚の入った醜悪なモノではなかったかと思い、 今頃になって、甲太郎がそれをどう思ったかを考え、ぶるりと身震いが木崎を襲った。 自分を想って、一旦は身を引いてくれた甲太郎を、やはり優しい男だとは思いながらも、 木崎は自分の身の内に湧き上がった[欲]に、更には[本能]に後押しされて、 幼い頃から甲太郎の馴染んできた世界の、その道の者達は勿論の事、 素人でさえ嘲笑するであろう、稚拙で、見え見えな誘いを掛けてしまった。 その時の甲太郎の表情を想い出し、大層、驚いていたなと 片方の口の端に苦笑を浮かべる。 木崎の方から誘ってくる等とは、考えた事も無かったという表情だった。 だからこそ、驚きも大きかったのだろう。 それであの表情だ。 当然といえば、当然か。 また一つ、木崎の唇から溜息が零れる。 加えて、甲太郎には腹立たしい気持ちも有ったのかもしれない。 呻き声の後、木崎が待ち望んでいた腕は、背が軋む程に抱き締めてきた。、 けれども与えられた口付けは、甘く、心地良いものとは程遠い、 木崎にとっては胸に苦しく、唇に痛いものだった。 一人で考えに浸っていた木崎。 やがて知らぬ間に、その指先が己の唇を、記憶を辿ってなぞり始めた。 甲太郎の部屋。 しっかりと、力を込めて閉じていた訳ではなかった瞼を開いてみれば、 木崎の瞳には、職人の手で丁寧に張り合わされたらしい、 少しのズレさえ見当たらない、整然と並んだ木目の天井板が映った。 どうやら口付けの間に、畳の上へと横たえられたらしいと、 その美しい木目を眼でなぞりながら、木崎は漸く理解した。 ふっと、そんな木崎の視界を影が覆う。 余りに間近に迫ったそれが、最初は何なのか分からずに居たが、 焦点を合わせれば、次の瞬間にはそれが今し方、 自分の胸を痛いほどに苦しめた若者が覗き込んできた為に出来た影だと知れた。 木崎は、更に焦点を若者の自分を見下ろしている視線へと合わせた。 その瞳に未だ僅かに残る逡巡。 夕闇の近付く室内の暗させいで、何時もより僅かに濃い色の黄玉の瞳。 木崎が微笑んで見せれば、気持ちの所在が決まったのか、 若者も小さく笑い返してきた。 笑みと同時に、そっと木崎の唇に触れてくる、微かに乾いた感触。 唇の感触、その柔らかさを、弾力を、確かめる様に触れてくるのは若者の指先だろう。 思い掛けなく繊細な動きでゆっくりと、線をなぞる様に滑ってゆく指先に、 自分に対する若者の想いを感じ、誘われる様に木崎の瞼は、再び自ずから閉じられた。 全身全霊で、僅かな若者の指先の行方を感じ取る為に。 随分と長い事、木崎の唇に留まっていた若者の指先が 次に訪れたのはこめかみの辺りで、それから額へと移動して、 最近手入れの行き届いていない、元は短髪だった伸びすぎた木崎の真っ黒な髪を、 撫でる様に、梳く様に動いた。 優しい指先の動きに、気持ちが良くて満足の意の篭った溜息が漏れる。 やがて、それまで優しい動きで木崎に触れていた指先が徐々に場所を変え始めた。 木崎は瞳を閉じたまま、その動きを追う。 何時しか若者が木崎に触れるのは、指先だけではなくなり、 その小振りな頭や面を、すっぽりと覆えそうな大きな掌までで触れだしていた。 頬を滑り、頤をなぞり、僅かな戸惑いの間の後、親指と人差し指で耳朶を摘まれた。 摘んだまま、それを擦り合わす様に動かされれば、 くすぐったさに小さく片側の肩が竦み、首が傾ぐ。 くすりと若者が笑った気配に、閉じていた瞳を開けば、 案の定、若者は目を細めて木崎を見下ろしていて、 木崎は俄かに頬を染めると、照れた表情をを隠すみたいに 若者の掌に自分の頬を寄せた。 そんな木崎の面に、若者のもう片方の掌が添えられる。 僅かに込められた力に、頬の朱が消える間もなく、 木崎は若者と正面から向き合わざるをえなくなった。 いい歳をした大の男が、初心な小娘でもあるまいし、 頬を染める様等、流石の若者も呆れ返っているだろうと想像し、 それでも自分の身体が、自分のものでありながら、 自分でも自分の思い通りになってはくれないのだからしようがないと、 開き直りにも似た気持ちで意を決して見上げた若者は、 木崎の想像を見事に裏切り、 その貌に木崎に対して呆れた表情を浮かべているどころか、 むしろ厳かと形容した方がしっくりきそうな表情で木崎を見詰めていた。 息を呑んで見詰め返せば、額へと唇が押し付けられた。 唇の感触に、条件反射か、木崎の瞳はまた瞼の下に隠れた。 それを知っているみたいに、若者の唇は、今度は木崎のその閉じられた瞼に。 右の瞼に、そして左の瞼に。 目尻でほんの少し留まって、男にしては長い木崎の睫を 若者の唇が引っ張る様にして通り過ぎた。 こめかみや頬をなぞり、時には跡を残さぬ程度に強く吸いながら。 何時しか、木崎はまた自分の唇に若者の指先の感触を感じていた。 両の掌は頬に添えられたままだったので、触れているのは双方の親指らしい。 二本の親指の腹で、何度か下唇を撫でていたが、 片方の指の先にくっと力が込められて、促された木崎の唇が薄っすらと開かされた。 もう片方の指の先にも同様に力が込められれば、木崎の唇は僅かだが更に開いた。 指の先に押さえつけられていない上唇が、 若者の微かにタバコの匂いの残る唇に啄ばまれる。 何度も、何度も。 たかが二本の指に邪魔をされ、自分の側から返せない口付けに、 木崎がもどかしさを覚え、遂には音を上げる寸前。 若者は囁いた。 「・・・・・このままで・・・・・」 何の事を言っているのかと思う間に外された指に、 漸く二人の唇はピッタリと重なり合った。 甲太郎の言葉の意味を理解するまでもいかずに薄く開いたままだった唇の隙間に、 今度は木崎が自分より僅かに熱いと感じる若者の舌先がするりと入り込んできて、 驚きながらも、若者の言った「このまま」が 唇を閉じずに開いておくようにと言っていたのだと 若者との口付けの心地良さを追い始めて翳み始めた頭の隅で思い至った。 〜2の第4週〜 |
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