不意に影が動くのを、木崎は自分の黒スグリの色をした瞳を覆っている
薄い瞼を通して感じた。
そして同時に、負担にならない様にとの気遣いのを込めながら
木崎に掛けられていたらしい甲太郎の身体の重みが、
木崎の上から静かに退いてゆく。
閉じていた瞳を開いて見上げれば、甲太郎は半身を起こし、
まだ閉じずにいた縁の外の様子を窺っている様だった。
正直な胸の内を明かせば、始まってしまったこの関係に対して、
四十を目前にしているとはいえ、
木崎には偶然耳に入った噂を知っている程度で、同性同士で想い合い、
情を交し合うという経験等、全く無いと言って等しく、
勿論、自信等、欠片さえも持っては無かった。
そんな心情が不安となって出てしまったのだろうか、
木崎は我知らず傍に在った甲太郎の手を取っていた。
ギュッと握れば、直ぐに甲太郎の視線が木崎へと落ちてきた。



ジリリリリと電話の呼び出しのベルの音が聞こえた気がしたのは、
甲太郎が木崎の唇を堪能し、名残惜しく思いながらも
漸く首筋へとその興味の矛先を向け、木崎の軍衣の詰襟の部分を外し、
肌蹴た襟の隙間から、僅かに覗く鎖骨に指で触れ、
その跡を唇でなぞろうとした時だった。
思いもしていなかった再会と、突然の展開に、
最初は戸惑いが無かったと言えば嘘になるが、
甲太郎としては、やはり想っている相手からの誘いというのは嬉しく、
その行動が自分の想いを受け止めてくれての事と分かれば
尚幸福な事と感じられた。
だからこそ、木崎の小柄な身体を、唇で、指先で、掌で、体中の全てで、
余すところ無く感じようと、夢中になっていた筈だった甲太郎だったが、
つい先刻、軍令部に上官である浅倉に面会を求め、
任務の完了を報告したのだが、そこまでが本来の任務完了時であると
気を張り詰めて、今回の任務を思い返せば、
開始時から数ヶ月を要した長期間のもので、自分でも意識しないままに、
その心持ちを引き摺っていたのかもしれない。
キリキリと引き絞っていた精神が、微かにではあるが、空耳でない、
この場に置いては無粋以外の何物でもないその音を
気付かせてしまったらしかった。
続いて頭に浮かぶ[予感]に、
渋々甲太郎は木崎の身体の上から自分の身を起こし、母屋の方を伺った。
そんな甲太郎の木崎の脇の辺りに付いていた手に、
暖かなものが触れてきたと思ったら、
次の瞬間には、それはギュッと握り締められていた。
微かに驚いて視線を向ければ、木崎の艶々とした黒い瞳が、
何処かしら不安気に甲太郎を見上げていた。
木崎には、甲太郎の耳に届いた電話のベルの音は聞こえなかったとみえる。
突然に自分の身体から離れた甲太郎に、漠然とした不安を感じたらしい。
不安を取り除いてやる為にも、
甲太郎は木崎の手に握られたままだった自分の手を返し、
一回り小さなその手をしっかりと握り返してやった。
それでもまだ何処か覚束ないという表情に、小さく微笑むと、
握り返した手を、今度は自分の口元まで持ち上げて、
そっと木崎の甲の部分に唇を押し当てた。
漸くほっとしたか、木崎がはにかんだ笑顔を甲太郎に寄越す。
甲太郎はそれを見て、空いていた方の手を木崎の肩の下に差し込んで、
軽い反動を付けて畳から木崎を起こした。
「どうしたんだ?」という表情で
甲太郎より少々低い位置から見詰めてくる木崎の視線を受け止めた甲太郎は、
自分が乱してしまった木崎の軍衣の襟元等を直してやりながら言った。
「残念ながら、今回はここまでのようですよ」
ぱちり。
甲太郎の言葉に一度だけ瞬いて、小首を傾げた様子は、
甲太郎に相手が自分より十幾つも年上の同性だと、一瞬ではあったが、
忘れさせた程で・・・・・。
折角抱き起こしたばかりの木崎を、今一度畳へと押し倒し、
我を忘れて抱き締めてしまおうかと思った所に、
この離れに取り付けられた呼び鈴が鳴らされ、
そう長い間も無く母屋の方から砂利を踏む草履の音と、
この様な二人の微妙な雰囲気等、夢にも思っていないからこその、
のんびりとした「坊ちゃま」と自分を呼ぶお久万の声が、
絶妙のタイミングで近付いてきて、何とか甲太郎は心の内で考えていた行動を、
寸での所で思い留まる事が出来たのだった。



いよいよ、広い[翠山]の敷地をぐるりと囲んでいる
塀の端まで辿り着いた甲太郎は、白い漆喰壁の塀を門に向かって歩きながら、
少し別の人の事を考え始めた。
結局、思い出せば、自分と木崎が
あのまま一線を越える事が出来なくなった切欠は、一本の[無粋な]電話で、
次いで思い出したのは、その電話を寄越した義母の事で、
思い浮かべた義母である胡蝶のニンマリとした笑みに向かって、
小さく悪態の言葉を呟いた。
「今日という今日は、ちょっと貴女が恨めしく思えますよ・・・・・義母さん」
実家の方へ顔を出すと軍令部に出かける前に一度、連絡を横越しておきながら、
なかなか姿を現さない義理の息子に、
待ち草臥れたとの理由で寄越された電話だったのだが、
甲太郎にはその話がどうにも素直に受け取り難く思われてならなかったのだった。
そんな甲太郎がとうとう[翠山]の門に辿り着いた。
門を潜れば、日暮れと共に灯されたのであろう見世の玄関へと続く道の
飛び石近くの其処此処には灯篭が据えられていて、
それらには既に灯が灯されていた。
柔らかな灯りに迎えられた甲太郎は、僅かに離れた所に在る明かりの外に、
見覚えのある2つの影を見た。
甲太郎並みに上背の有る影の傍に、やっとその胸元に届くか届かない程の、
ほっそりと華奢な影が俯き加減に立っている。
甲太郎の知る、普段、その影の直ぐ傍にいる筈の者の影とは
明らかに違う小柄な影が、
此方の視線に気付いたらしい大柄な方の影から教えられたのか、
様子を伺って風だったが、此方が誰だか気付いたのだろう、
大急ぎの態で灯篭の柔らかな明かりの中へと駆け込んできた。
最初に灯りの輪の中に入ってきたのは、
真っ白の足袋と眼にも鮮やかな赤い鼻緒の下駄を履いた爪先。
それから黒を地にした上物の絹の着物の裾。
季節はもう春で、時期を過ぎた感はあったが、
そういえば好きだと言っていた紅梅・白梅の模様の初春の大振袖。
一見、白に見える半襟にも、同色の絹糸で全体に
梅の花々の刺繍が施されていて、
その上に一層、透ける程に白い面が現れた。
夜の闇に、ふぅっと華が開いた。
「やっぱり・・・・・兄様(あにさま)」
血の繋がりは無くとも、只一人の大切な妹が、
嬉しそうに笑った。



慌てて飛び石を近付いて来ようとしている小夜に、
灯篭が其処此処で足元を照らしているとはいっても、やはり夜の闇は深く、
石を踏み外したり、下駄を滑らせたりしてはと甲太郎が急いで近付いた。
小夜も、甲太郎の気遣いを察したのだろう。
数歩近付き掛けたところで、自分の方へと直ぐ様歩き出した甲太郎を見て、
飛び石の一つで立ち止まり、兄が近付いてくるのを大人しく待っていた。
甲太郎の足ならば、小夜の元まで辿り着くのは数回瞬く間の事で、
妹の立っている飛び石の手前の石の上で立ち止まると、優しく声を掛けた。
「だたいま、小夜」
「お帰りなさい、兄様」
朧な灯篭の光でさえ、微かに頬を上気させた妹は、
最後に見た時より、遥かに元気そうに見え、幼い頃から病気がちで、
普段から何時も何処かしら辛そうにしている様子ばかりを見てきた甲太郎は、
ホッとして、思ったままを告げ様と口を開き掛けた。
と、妹の背後にもう一つの影だった者が灯りにその身を晒した。
同時に、甲太郎は背をピシリと伸ばし、指先までにも神経を行き渡らせ、
手本の如き敬礼を行う。
灯りに、ゆらりと姿を現したのは甲太郎の思っていた通りの人物、
大湊中佐、その人だった。
「よう」
自分の直属の上官である浅倉に比べれば、遥かに人の良さそうな外見ながら、
実は同じ位に油断のならない人物である大湊の視線を、
甲太郎は真正面から受けた。
隠し事でも有れば、洗い浚い吐かせるぞとでも言う様な視線が
甲太郎に寄越される。
だが、油断のならないとは言っても、甲太郎は大湊に対して、
浅倉よりは遥かに人間的に好感を持っていたし、
大湊の方も甲太郎の事を気にってくれているらしく、
次の瞬間にはもう、その視線は長い任務明けの甲太郎を
気遣うモノへと変化していた。
ヒラヒラと目の前で手を振って、硬い挨拶は抜きだと言葉にせずに寄越してくる。
甲太郎も了解の意を示すべく、敬礼を解き、
被っていた軍帽を外してペコリと一つお辞儀をした。
「ご無沙汰しております、中佐」
「今度は随分長い事、留守していた様だな」
「はい」
「どの位だ?」
諜報部の貴方が知らない事は無いでしょうと思いながらも、甲太郎は答えた。
「年明け、松の内も終わらない頃に出発しましたから、
 かれこれ三月(みつき)になりますか・・・」
「お疲れさん」
「任務ですから」
甲太郎の応えに、大湊は片方の眉をあげてみせた。



「甲太郎兄様」
それまで大人しく二人の挨拶を傍で聞いていた小夜が、
とうとう我慢できずに甲太郎を呼んだ。
甲太郎と大湊が視線を落として小夜を見遣れば、
挨拶の邪魔をしてしまったと思ったのか、
バツが悪そうに目を逸らし、俯いて詫びの言葉を小さな声で呟いた。
「ご、ごめんなさい・・・」
頼り無げな風情に、「いや、いいんだよ」と言ってやりたくはあったが、
気安い雰囲気で話をしていても、そこは一応、上官と話をしていたのだ。
甲太郎の方から先に許しの言葉を掛けてやる事も憚られ、
甲太郎はチラリと大湊を見た。
すると大湊は、「分かっているさ」とばかりに笑い、小夜に告げた。
「小夜ちゃん、すまねぇがお袋さんに甲太郎が帰ってきたって知らせるついでに、
 ちょいと野暮用で話があるから、もうちっとばかし
 コイツ借りるって言っといてくんな。
 ま、そう大して時間はかからねぇ。
 直ぐにそっちに返すから、もう晩飯も温めてやってくれていていいぜ」
「・・・・・はい」
大湊に言付けられ、小夜はその場を去り難そうにしながらも、
結局は言われたとおり、玄関に向かって、途中、
何度か振り返りつつ行ってしまった。
小夜の姿が視界から消え、注意深く辺りを伺った後、
再び甲太郎を捉えた大湊の視線は、厳しい、軍人の其れへと変化していた。
「明日になれば、朝倉に頼み込んで聞くつもりじゃあるんだが・・・・・」
一旦、言葉を切った大湊が後に続けるであろう内容が、
甲太郎には分かり過ぎるほど分かっていた。
「で?どうだった?」
主語をすっ飛ばし聞いてきた大湊の目は、有りの儘を話せと言っていた。
「先ず、私は大陸へと渡りました。
 満州、朝鮮はまだ何とか・・・と言っても、何時まで持つか」
むぅと大湊の口元が曲がる。
「其れよりも問題は南方です。
 やはり、軍令部がひた隠しにしている昨年6月のミッドウェー海戦での敗北が、
 此処にきて大きく響いています。
 既に、其処彼処の南方洋上の管制はガタガタで、
 拡大しすぎた戦線に補給を行き渡らせる為の護衛も
 充分には機能しておりませんし、
 何より我が軍は、既に、疲弊し過ぎています。
 援軍どころか、僅かな物資さえ届かず、苦戦を強いられ
 孤立しつつある部隊も多い。
 このままでは、先程のミッドウェー海戦の件ではありませんが、
 同じく昨年の4月の、この戦争で初の東京への空襲を
 憶えていらっしゃるでしょう?
 アレの何倍もの規模の本土への空襲も時間の問題だと思われます」
いつの間にか眼を閉じて甲太郎の話を聞いていた大湊の厚い胸板から、
重い溜息が長々と漏れた。
「確かアレは4月18日だったな。
 空母ホーネットから飛び立った爆撃機が、飛んできたんだった。
 途中でホーネットを護衛する航空母艦エンタープライズ始め、
 巡洋艦5隻、駆逐艦7隻と遭遇した此方の海軍の哨戒艇を沈めてる。
 東京、横須賀、川崎、それから名古屋、四日市、神戸を爆撃、
 先の哨戒艇の乗組員14人は艇と運命を共にしたし、
 確かもう一艇、同じく哨戒艇が撃沈されているな。
 結局、この日の爆撃で此方の被害者は50名、262戸の家屋に被害が及び、
 そのほかに味方の誤射による軍人の死亡者が一人、それから・・・・・」
「帰宅途中の小学生が機銃掃射で一人、亡くなっています」
「うん・・・・・そうだった・・・・・」
「中佐・・・・・」
「ん?」
「この国は、後どれ位持つんでしょう?」
じっと大湊を見詰めれば、大湊も逸らす事無く甲太郎の目を見返した。
大湊が何と答えるか?
答えを待ち続ける甲太郎に、けれども大湊は明確な答えを返してはくれず、
代わりに何時もの人を食った風な表情でこう言った。
「おいおい、お坊ちゃま気を付けろ。
 そんな恐ろしい事、頭ん中では考えてもいいが、
 口に出すなんて・・・・・危ねぇぞ?
 何処に目や耳が有るか分かんねぇからな、気ぃ付けろ。
 明日には最前線、飛ばされっちまうぞ」
「最前線なら、今回も行って来ました」
「バーカ。
 俺が言ってんのは、そのまま行きっ放しにされっちまうぞってこった」
流石に、甲太郎も口を噤む。
「よし、分かった。
 お袋さんも小夜ちゃんも待ってる。
 そろそろ行こうぜ」
唐突にこの件についての話を切り上げる事にした大湊に促され、
甲太郎は大湊の後ろを、家に向かって歩き出した。
そして玄関に入る寸前、誰にとも無く呟いた大湊の言葉に、
我知らず甲太郎はゴクリと咽喉を鳴らした。



「そうさな・・・2年てトコか。
 或いは、何とか2年と半年持ちゃぁ御の字だがな。
 この先、どう進むかは・・・・・
 それこそ『神のみぞ知る』だな」



この日から約半月足らずの後、大湊の言っていた神様とやらは大日本帝国に、
また一つ試練をお与えになった。



昭和18年4月18日。
連合艦隊司令官、山本五十六海軍大将はブーゲンビル島上空に於いて、
日本軍の暗号を解読したアメリカ軍の待ち伏せに遭い、
搭乗していた一式陸上攻撃機の一番機ごと撃墜され、
同乗していた10名の部下と共に死亡した。
[海軍甲事件]である。

                                       〜2の第5週〜