昭和18年の5月。
戦況は、分かっていた事とはいえ、悪化の一途を辿っている。
国家総動員体制により、何もかも、足りない物だらけで、
金属製の物は[軍事供出]の名の下に、大切な思い出の品であろうと、
どんな些細なものまで「お国の為に」の一言で取り上げられた。
拒もうものなら、それだけで[非国民]と罵られても仕様のない時代だった。
食料はとうの昔に配給制になっていたし、そうして遂には[人]さえも。
子供達は[皇国の臣]として教育され、憧れを問えば、
声を揃えて[軍隊]と高らかに応えた。
前途有望な学生達を、兵士として徴用する[学徒動員]、
女学生も[挺身隊]として軍需工場等での勤労奉仕を強いられた。
もうこれ以上、何を差し出して、天皇をこの国を守れというのか?
この身を差し出したとしても、最早どうなるものでもないのではないか?
終焉に向かって、この国は堕ち続けているのではないのか?
人々の中には、心の片隅でそう思い始めた者も数知れず居はしたのであろうが、
思うばかりで、それをはっきりと声に出す者・出せる者は居なかった。
何故なら、心の内の何処かしらに、それでも[勝利]という名の幻に、
取り縋っていたいという思いが残っていたからなのかもしれない。



流石に危険な任務ばかりを、続け様に拝命させ過ぎたとでも思ったのだろうか、
最近の浅倉は、甲太郎に内勤ばかりを命じる日々が続いていた。
そうなると、このところ任務多忙と無沙汰ばかりをしていた、
甲太郎も実家である[翠山]に帰らないわけにもいかず、
毎日の様に、実家から軍令部へと通う毎日を送っていた。
そんな或る日、珍しく浅倉の副官の土屋が所用で他出しており、
(所用といっても、結局は土屋個人のモノではなく、
浅倉絡みの用件らしかったのだが)
甲太郎は外出するという浅倉に付いて玄関へと向かっていた。
廊下を歩いていた二人に、前方から声が掛かる。
「よう、お出掛けかい?」
官位が上のものに対するものとしては、
明らかに問題の有るその掛け声の持ち主は、
浅倉とは同期で、且つ、気難しい浅倉が唯一、
そういう口の利き方を許している
諜報部の大湊中佐であった。
我知らず、大湊に対して敬礼しながらも甲太郎は、
中佐の傍らに小柄な姿を探してしまう。
が、残念な事に大湊の連れていたのは副官の中野中尉のみで、
甲太郎の想い人である、木崎の姿は其処には無かった。
目の合った中野が、ペコリと甲太郎に対してお辞儀を寄越してくるのに、
甲太郎も小さく笑って頭を下げた。
自分としては落胆した心の内を面に出したつもりはなかったのだが、
そんな様子の甲太郎に、それまで浅倉と言葉を交し合っていた大湊が、
不意に矛先を変えて話し掛けてきた。
「最近、大事にされてるみてぇじゃねぇか。
 この所、よく此処で姿を見掛けてるぜ」
チラと上司を見れば、片頬で笑っていた。
どう返事をしたものかと逡巡している内に、
先に浅倉の方が返事を返してしまった。
「随分な言い草じゃないか、三吉」
「おい!!その三吉って呼ぶの止めろって何時も言ってんじゃねぇか!!」
「同期同士だ、下の方の名で呼んで何が悪い。
 親愛の情の表れだ、気にするな」
「気にするんだよ、俺ぁ!!
 第一、オメェに[親愛の情]なんて言われた日にゃ・・・・・勘弁してくれ!!」
「ふん・・・器量の狭い男だな・・・・・」
「なにぃ?!」
「ちゅ、中佐・・・・・」
同期とはいえ、流石に上官に向かっての口の聞き方に、
蒼くなった副官の中野が、他の将官にでも聞かれたらと
心配のあまり、背後から軍衣をこっそり引いている。
「高宮は、ウチ大事な部下だ。
 これまでの任務は彼だからこそ任せた任務ばかりだ。
 何もこき使った訳ではないぞ」
なぁ?と同意を求めてくる浅倉に、
甲太郎も軽く辞儀する事で肯定の意を表した。
「どうだかな・・・・・」
それでもそうボソリと呟いた大湊は、再び甲太郎に話し掛けてきた。
「ところでオメェ、今晩も実家か?」
「は?」
突然の話の内容に、甲太郎は訳が分からず戸惑う。
「いや、今晩そっちに寄らせてもらおうと思っててな。
 よければ、座敷の方にも顔くらい出してくれねぇかと思ってよ」
「私が・・・ですか?」
「ああ、なぁに心配すんな。
 幾ら俺が酔狂だっていっても、オメェに酌しろだとかは言わねぇから」
「・・・・・分かりました、伺える様ならご挨拶に伺います」
「頼んだぜ」
返事の代わりに、頭を下げてみせた甲太郎に、
やけに嬉しそうに大湊が笑ってみせた。
「今晩は、アイツも連れて来てやるから待ってな。
 そんじゃ、俺らはこれで。」
片手を挙げた大湊は、途中[アイツ]の所で甲太郎の肩を
バンバンと2つほど叩くと、廊下の奥に向かって歩き出した。
その背中に向かって、浅倉が言った。
「そういえば、聞いたぞ。
 最近、10日と置かずに[翠山]に通ってるそうだな、三吉」
ギッと音でもしそうな物騒な視線が、振り返った大湊から浅倉へと放たれた。
「三吉は止めろ!!」
大湊の剣幕など、浅倉は屁とも思っていないらしい。
構わずに続けた。
「気に入りでも出来たか、三吉?」
ワナワナと震えていた三吉こと大湊は、これ以上浅倉を相手に腹を立てても、
全くの無駄だとやっと気付いたらしく、そのまま踵を反すと、
今度こそ足音も高く、その場を後にした。
慌てて後を追う中野が、浅倉には敬礼を、そして傍らで見送る甲太郎には
ペコペコと頭を下げてみせたのに、甲太郎も律儀に一度、頭を下げた。
「相変わらずの男だな。
 私たちも行くぞ、約束の時間に遅れそうだ」
「はい」
再び玄関へと歩き出した浅倉の背を追いながら、
先ほど聞いた[大湊の気に入り]を思う。
本当に実家の見世の誰かを、気に入って通っているのか?
あの大湊が?
この所実家に居ながら、通っているという大湊の話を聞いた覚えはなかった。
[気に入り]の件等、尚の事で、それが誰の事かなど考えてはみたものの、
その時はまだ思い付きもしない甲太郎だった。
第一、それよりも去り際に大湊が約束してくれた事の方が気になって
その件についてはさっさと考える事を放棄してしまったのだ。



結局、夕刻には土屋が軍令部に戻ってきて、
さしたる残業も無かった甲太郎を、昼間の遣り取りを覚えてくれていた浅倉が、
「まぁ、無理に調べる必要は無いが、大湊の気に入りが誰か、
 もしも分かった時は、私に耳打ち位はしてもバチは当らんぞ。
 憶えておけ。
 よし、今日はもういい」
そういって帰してくれた。
素直に浅倉の言葉に従った甲太郎は、その後速やかに軍令部を辞し、
今は[翠山]の庭に敷かれた飛び石を内玄関に向かって歩いていた。
茅葺門の表門を潜っただけで外部と完璧に遮断されるこの場所には
敷石の脇には、今を盛りと菖蒲や杜若の花が咲いている。
庭と敷石の境に在る矢来垣の根元には、青々とした苔が一面に生えているし、
夕焼け越しに見上げた頭上の枝葉も瑞々しく萌えていて、
戦時という特殊な時間を忘れてしまいそうになる。
けれども、確実に何処かしらから近付く沈鬱な気配。
それだけは如何にしても消し去る事は出来かなった。
たとえどのような場所で、どのように過ごそうとも、
絶えず消える事無く、常に存在し続ける諦念に似た気配であったから。



「ただいま戻りました」
内玄関に入り帰宅を告げれば、奥の方から
廊下を急ぎ足で近付いてくる足袋の音がした。
取次の後ろの床まで届きそうな程の長さの長暖簾を上げて、
胡蝶が顔を覗かせた。
「おかえりなさい」
このところ、毎日交わされる挨拶だ。
腰から軍刀を抜けば、当たり前の様に袂を巻いた腕を伸ばして、
胡蝶がそれを受け取ってくれた。
軍帽も外せば、軍刀を胸に抱いた胡蝶が其れも寄越せと掌を差し伸べてくる。
「すいません」
そう言って手渡せば、「何、他人行儀な事言ってるんですか」と
ちょっとむくれた風に唇を尖らせるが、
直ぐに笑顔に戻ると早く奥に行けと促された。
甲太郎の軍刀と軍帽で両手の塞がった胡蝶に、肩で押される様にして、
奥への廊下を歩き出した甲太郎の背から胡蝶の声が聞こえる。
「最近、こうしてウチに帰ってきて下さるから嬉しいわ。
 そういえば、今日はまた一段と早いお帰りでしたわね?」
「上司の浅倉さんから、今日はもういいからと言われたんです。
 日中、私一人で大佐のお世話をしていましたから・・・だからでしょう」
「・・・・・ああ、あの方のねぇ・・・・・」
勿論、[翠山]の客として何度も此処を訪れている浅倉だったので、
胡蝶もその度に浅倉とは顔を合わせている訳で、
一瞬考える風に廊下の片側一面の硝子越しに庭を見て
浅倉の顔を思い出した彼女は、
甲太郎の言わんとするところを察してそれで納得をしたらしく、
さっさと話を他へと移した。
「この後、どうなさる?
 お食事も用意は出来てますけど・・・・・
 お疲れの様なら」
そこで、先程の話を思い出したのだろうクスリと一つ笑うのが聞こえた。
「お風呂も沸いてますよ、どうします?」
確かに今日一日、浅倉の副官として過ごした日中を思い出せば、
忘れていた気疲れを思い出し、風呂にするかと思い掛けたが、
この家に居れば、何処に居ようと微かに聞こえてくる三味の音に、
最初は大湊の、そうして直ぐに大湊が連れてくると言ってくれていた
木崎の面影が過ぎり、先に夕飯を済ませてしまう事にした。
「今晩、大湊さん達がみえるそうですね」
「あら、よくご存知ですのね」
「今日昼間、軍令部の廊下で会いましてね。
 今晩行くから、後で顔を出せと言われました」
「そうだったんですか」
「多分、顔を出したら直ぐには離してもらえないでしょうし、
 酒の相手もしなきゃならないでしょうから、
 夕飯時の酒は遠慮しときます。
 飯だけもらえれば・・・・・」
自宅で夕飯をとる時、酒は贅沢品、この御時世にとんでもないと何度断っても、
お前の為に、見世のではなくウチ用の分を取って置いたんだ、
呑める時、呑ませてやれる時に呑んでおくれといわれれば、
義母の心根が分かるだけに何度も無下に断る事も出来ず、
出してくれる晩酌の酒を口にしていた甲太郎だった。



軍衣を脱いでくる間に、汁物等を温めておくからと胡蝶に言われ、
甲太郎は自室へと向かう為、義母と廊下を左右に別れた。
途中、妹の小夜の部屋の前を通らなければならないのだが、
部屋の中には複数の気配が感じられた。
年頃の娘らしい、華やいだ妹の声が聞こえ、甲太郎にも笑顔が浮かんだ。
一瞬、声を掛けようかと思ったが、どうせ夕飯の席で顔を合わせるだろうと、
その場では声を掛けずに自室へと向かった。
着替えを終えて、再び妹の部屋を通り掛れば、
いまだにさんざめく気配は続いていて、
今度もまた、甲太郎は声を掛ける事無く、部屋の前を通り過ぎた。



居間には、既に甲太郎の分の夕食の膳が整えられていて、
小鍋に分けられた汁物からは、赤味噌の匂いが蓋の隙間から漏れる
白い湯気に混じって漂ってきた。
膳の上には今夜も、数年前に比べれば大層慎ましやかになったとはいえ、
世間一般の今の食生活を考えれば、夢の様な贅沢な夕飯が並んでいた。
今夜の客のご相伴に預かったものと分かってはいても、
先日視察した南方の戦線等を思えば、罰が当たるどころか、
胸が塞がれ、到底咽喉を通りもしないと思われる。
けれども家族の心尽くしと、明日は我が身と思う事で、
万事に対しての感謝の念を身の内で唱えつつ、
一粒さえ疎かにせず食する事にしていた。
見世の関係上、胡蝶は既に早めの夕食をとってしまっていたらしく、
甲太郎の食後の茶を自分の分と一緒に運んできた。
「折角、早く帰ってきてくれたのに、結局は一緒に食事もとれないなんて」
すまないわと湯飲みを差し出しながら言うのに、
甲太郎も受け取った湯飲みに息を吹きかけつつ、
ウチの仕事が仕事なのだから仕様が無いと笑って応えた。
そうして気付く。
「そういえば・・・小夜は?
 小夜は夕飯、まだなんでしょう?
 一緒にとるかと思ってたんですけど・・・・・」
「ああ・・・その事なんですけどね・・・・・」
胡蝶が言い掛けた時、廊下を人の来る気配がした。
「女将さん、ご用意整いました」
廊下に控えて声を掛けてきたのは、仲居頭のお時だった。
「時間までもう少し在るみたいだね、お入り」
廊下に向かって胡蝶が声を放てば、衣擦れの音がして、
美しく着飾った妓が姿を現した。
「綺麗に出来たじゃないか、ねぇ初見草」
その名の菊をあしらった大振袖を身に纏い、髪を結い、
化粧を施された妹が其処に居た。

                                    〜2の第6週〜