軍部や政府からのお墨付きを貰っての見世の営業ではあったが、 全盛の頃の華美な支度は流石に自粛をしていたせいで、 小夜の支度も時が時ならば、 着飾った年頃の娘に見えなくもない程度の出で立ちだったが、 豪奢な絹の地に金糸銀糸を惜しげもなく使った刺繍の鮮やかな大振り、 緋縮緬の裾除けと紅い口元が、 両脇の髪を上げて残りを肩に落とした娘らしい髪型に反して、 やはりその生業を意識させずにはいなかった。 「・・・・・!!」 妹の姿に甲太郎は、慌てて義母の方を見た。 「これは・・・・・どういう事なんですか?」 問い掛けられた胡蝶の方は頬に手を当て、困った風に溜息を付いたが、 どう話したものかと考えているのか、後の言葉をなかなか継がなかった。 「お義母さん!」 胡蝶の態度に、苛立ち紛れに問い詰める口調になっていた甲太郎の声に、 それまで黙っていた小夜の声が重なった。 「兄様」 呼ばれて甲太郎が小夜の方を見遣れば、 廊下に立ったままだった小夜が中へと入ってきて、 甲太郎の隣に座り込んだ。 着物の長い裾や袖を綺麗に均し、姿勢を正した小夜が漸く口を開く。 「お義母さんを責めないで」 「しかし・・・」 「兄様、聞いて」 小夜が甲太郎を遮った。 「本当に、お義母さんは悪くないの。 小夜が無理を言って、見世に出してもらってるの」 「けど・・・・・」 と、言い掛けたが甲太郎は小夜の話の続きを待つ。 「戦争のせいで、お席の数もお客様の数も減っていくばっかり。 お姉さん達だけでも、見世は充分過ぎる位に手は足りてるの。 だからホントはアタシみたいな味噌っかすはお呼びじゃないんだけど、 この所、身体の調子もいいの。 アタシだって、ウチの役に立ちたいの。 一人前じゃないのは分かっているから、役に立つって言っても、 自分でも何が出来るかって思っていたのだけれど、 アタシなんかでもお声を掛けて下さる方がいて下さって。 それでこの間から、その方のお相手をさせていただいてるの」 「小夜・・・」 「大丈夫・・・・・」 そう言って、小夜は僅かに俯いた。 「兄様が何を心配して下さってるのか分かってる。 分かってるわ。 でも大丈夫・・・大丈夫なの」 俯いたまま、自分で自分に言い聞かせる様に話す小夜から視線を離し、 甲太郎が胡蝶に心配気な視線を送れば、胡蝶は微苦笑で小さく頷いた。 甲太郎の心配は、無理もなかった。 そもそも成長した暁にはこの見世の妓として評判の妓になるに違いないと、 亡くなった生みの母の妓に面差しの良く似た整った顔立ちの赤子の頃から 随分と将来を期待されていた小夜が、 思い掛けず虚弱で病弱な体質に生まれ付いてしまっている事が分かり、 一応の妓としての教育を施され、今日まで育てられてはきていたものの、 到底[妓として客をとる]事は出来ないだろうと本人を始め、 他の誰もがそう思っていたのに、 その小夜が[翠山]の妓の一人として見世に出ているというのだ。 見世に出る、という事は即ち[客をとる]と考えるのが常道という世界で、 果たして小夜に、目の前で俯く甲太郎の片手ででも 簡単に折ってしまえそうな程に細い項の、 小夜の華奢な身体に耐えられる事なのかと、 いやそれよりも兄として、妹が妓としてこの見世に身を置き、 不特定多数の客を相手に身体を拓くという事が、 甲太郎には耐え難い事に思えてならなかったのだった。 [見世]という特殊な環境に生まれ、 物心付く前から妓達の日々の営みを直ぐ傍で、 妓達を見るともなしに見てきた甲太郎は、 自分自身もその世界の中で暮らしてきていた。 確か、甲太郎に初めて[女の身体]を教えたのもこの見世に居た妓だった。 最初はそう、母の、姉の様な優しさで導かれ、 やがては妓の手練手管の限りを使って歓待される程に可愛がられた。 成長し、予科練へと進んだ甲太郎は寮生活を送る為に長い事自宅を離れ、 休暇で帰った頃には、その妓は見世から姿を消していた。 父や他の妓達に、面と向かって彼女の消息を尋ねるのも、何故か憚られ、 その後、男衆達の立ち話を小耳に挟んだ限りでは、 身体を壊して郷里の家族に引き取られたとも、 彼女を気に入った客に引かれたとも言われていたが、 どちらにしろ実際のところは甲太郎の為にと父が、 手を廻してどうにかしたらしい。 最初の頃だけは、彼女の消息を気にしない気も無いではなかったが、 格別の感情を彼女に対して持っていたわけでもなかった甲太郎が、 その後、その妓を数ある妓の一人以上に思い出す事は無かった。 つまりは男にとっての妓とはその程度のモノで、 甲太郎も、我ながら冷たいものだと腹の中で己を嘲笑したものだった。 しかし今度は違う。 血の繋がりは無くとも、妹なのだ。 この見世で生まれ、母親を乳から離れる間もなく喪い、 そうして甲太郎の家族として一緒に暮らし始め、 先の知れぬ身体だからという以上に、肉親として慈しんだ大切な妹だった。 その妹が[妓]として[見世]にでて、[客をとる]というのだ。 甲太郎が冷静で居られる訳はなく、だからこそ小夜の言う、 「大丈夫」の言葉にすんなりとは納得など出来ようもなかった。 もう一度、口を開き掛けた甲太郎より早く、 男衆の政次が廊下から声を掛けてきた。 「女将さん、初見草さんのお客がお見えになりました」 弾かれた様に、小夜が俯いていた顔を上げ立ち上がった。 「小夜」 名を呼び、思わず妹の手を掴んだ甲太郎を、この見世で生まれ、育って以来、 こんな日は来ないだろうと言われながらも 身体の髄に教え込まれた[妓]の貌をした小夜が振り見た。 その貌に、後が続かない甲太郎の、自分の手を掴んだその手の上に、 小夜はもう片方の手を重ね、そっと外しながら、瞬間妹の貌に戻って、 周りに届かぬほどの囁く声で告げた。 「私は、兄様にとっては[妹]の他にはなれぬのでしょう?」 以前、自分を好きだと泣いた時の事が思い出されハッとしたが、 「違う」とは言えない甲太郎には、後はもう何も言う事は出来なくて、 裾を引いて部屋を出て行く小夜の後ろ姿を、只黙って見送ったのだった。 その後、居間に一人取り残された甲太郎は、 座敷に向かう小夜に付いて挨拶に行ってしまった胡蝶を待って、 どういう経過で小夜が見世に出る事になったのかを 問い詰め、聞き質そうかとも思っていたが、 結局は間を措かずに自分も自室へと居間を後にした。 自室の磨りガラスのはめ込まれた木製の引き戸を引き開ければ、 軍令部近くの茶室を改築した部屋とは全く趣の違う、 磨き上げられた板張りの洋風の部屋が主を迎えた。 但し、簡素なのはやはり主が主だからなのだろう、この部屋も同様で、 真正面に等身大の鏡の着いた洋箪笥が一棹、 隣に普段着やら着替えの下着やらが入っている引き出し式の箪笥がもう一棹、 片側の壁にはベットが置かれていて、枕元には小さなナイトテーブル、 その上にはランプと読み掛けの本が一冊置いてあった。 もう一方には窓が在って、其処からの光を利用して机が置かれ、 その脇の日の当らない場所に、作り付けの本棚が幅を利かせて存在している。 それっきりの部屋だった。 甲太郎は引き戸を丁寧に閉めると真っ直ぐに机へと向かい、 椅子を引き出して座り込むと足を組んで考え事を始めた。。 どうしても考えてしまうのは、今見送ったばかりの妹の事。 最近は毎日此処へ帰って来ていたというのに、何故気付かなかったかと思う。 しかし考えてみれば、今日の様に早くに帰ってこれたのは、 実は初めてだったという事に思い至る。 3月の終わりに最後の任務から帰還して、 その後一月程は報告書の作成に追われて、実家からではなく、 例の部屋の方から軍令部へと通う日々を送った。 やっとそれが終わって、今度こそ実家から通える様になったのだけれども、 人手不足で忙しさには然程変わりはなく、 結局帰りは日付も代わろうかという刻限で、 それでも軍令部から近い部屋に帰らず実家まで 多少の無理をしてでも帰ってくるのは、胡蝶と小夜という家族の為であった。 戦地に赴いている他の兵士達とは格段に良い境遇で在るものの、 やはり留守がちで、しかも任務の内容が内容なだけに、 毎回任務の度に、何処へ行くか、何時まで行っているのかさえ話せず、 心配を掛けるばかりで、申し訳なく思っていても、 結局はまた次の任務の命令が下れば、何も話さずに一人で黙々と荷物を造り、 帰る予定も告げずに出て行くのだ。 だから、せめて傍に居られそうな時は家族孝行の真似事でもいいからと、 夜がどれ程更けていようとも、無理をしてでも帰宅していたのだった。 そうして帰った時刻に、小夜の姿を奥で見る事は無かったけれども、 以前から身体の為に早く床に就かされていた小夜だったので、 その分、朝の出掛けるまでの時間に一緒に朝食を摂ったり、 前の日の出来事を話し合ったりする事で、 妹の日常を全て把握しているつもりでいたのだった。 毎朝顔を合わせる妹の笑顔は、何の変化も伝えてはくれなかった。 変わらぬ笑顔だったと、甲太郎は今でも信じられない思いで、 今朝も見た妹の笑顔を思い出していた。 「坊ちゃん」 扉越しの遠慮がちな男の声が、 一人で小夜の事を黙想していた甲太郎を引き戻した。 「政次か?」 「へぇ」 「どうした?」 「大湊の旦那が坊ちゃんを呼んでこいと仰ってまして・・・」 ああ、そうだったと昼間、 軍令部の廊下で大湊に会った時の事を思い出した甲太郎は、 はぁと小さく息を吐いた。 「直ぐに行くと、先に戻って伝えてくれ」 「承知しました」 返事をして去ろうとした政次を、 調度、磨りガラスの部分を影が横切ろうとした所で呼び止める。 「政次!」 影が、ピタリと止まる。 「何でしょう?」 つい今し方まで暗澹たる思いで、 その身を思い遣っていたのは妹の事だった筈なのに、 自分でも見下げ果てたヤツだと、自分自身に唾を吐く思いながら、 それでも大湊の名を聞いた途端に胸に浮かんだ想い人の名を口にした。 「待っていらっしゃるのは大湊さんだけか? 中野さんや・・・・・木崎さんは?」 流石に一等最初には聞けなかったが。 「お二人共、お揃いでいらっしゃってます」 「そうか・・・分かった」 「それじゃ」 「ああ、頼んだ。 俺も、直ぐに行くから」 微かに廊下の軋む音が遠ざかってゆくのを聞きながら、 一時、無理矢理に小夜の事を心の奥底に追い遣る事にして、 甲太郎はこれから会う、木崎の笑顔を思い浮かべた。 奥から見世へ行くには、厨房の前を通らなければならない。 厨房の前まで歩いてきた甲太郎は、今になって政次から、 大湊達の居る部屋の名を告げられていない事に気付いて足を止めた。 こんな事は滅多にない政次だったが、 自分もうっかりしていたので仕方がないと、 厨房の壁に在る木板に掛けられている其々の部屋の名札の所に、 今日訪れている客達の名を確かめようと覗いてみたが、 生憎と、其処には現在の料理の運び具合が書いてあるだけで、 客の名は何処にも見つける事が出来なかった。 どうしたものかと思案していた甲太郎の前に、 空になった酒器を取替えに来たお時が、 見世の方から忙し気に早足で戻ってきた。 「あら、坊ちゃん。 こんなトコで如何なさいました? 大湊の旦那が、もう随分とお待ちですよ」 「いや、部屋が何処か聞いてなくてね。 お時が帰ってきてくれて調度良かった。 教えてくれないかな」 「[牡丹の間]ですよ」 「そう、助かった。 ところで・・・もう一つ聞きたいんだけど、いいかい?」 「何でしょう?」 「政次といい、お時といい・・・何だって大湊さんの事を [旦那]って呼ぶんだい? さっきっから不思議で仕様がないんだけど」 「別に、大して意味は無いんですけどね。 ただ、あの口調がねぇ。 [中佐様]って言うよりも[旦那]って感じじゃありませんか?」 「そうは言っても。 大湊さん本人は何て言ってるんだい?」 「ああ、大丈夫ですよ。 ソッチの方は。 あの御方の方も[旦那]で面白いからいいって仰ってますから」 「ならいいんだけど・・・じゃぁ、行ってくる」 「はい、行ってらっしゃいませ」 お時の元気な声に送られ、甲太郎は盆の窪の辺りを片手で摩りながら、 教えられた部屋の方へと歩いていった。 〜2の第7週〜 |
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