お時に教えられた客間へと続く廊下を歩いていた甲太郎の耳に、 最前、小夜の言っていた「御時世のせいで客足が落ちている」という言葉を 疑いたくなる程の騒ぎが、其処此処から入り込んできていた。 流石に、鳴り物は控え目にしてあったが、女の放つ甲高い嬌声や、 男の野太い話声が入り乱れている。 それでも、誰もが楽しい酒の呑み方をしているらしく、 どれもが笑い声の混じるものばかりで、声高な声や怒声など、 見世の何処からも聞こえて来る事はなかった。 しかし、その中の部屋の何処かに妹が妓として居るのだと思えば、 気になってしまうのは仕方がなく、それでいて、己の想い人もまた、 同じくこの見世の部屋の一つに居るのだと思うと、 今度は会えるという事に対して、気分は自ずと高揚した。 喜びと憂い。 甲太郎はその両方に、代わる代わる心を持っていかれていた。 廊下の角を曲がった途端、 甲太郎は反対側から曲がってきた影に気付くのが遅れ、 相手に加減無しで真正面からぶつかってしまった。 ドンという衝撃は、考え事で油断していた分大きく感じ、 その中でも一番に衝撃を感じたのが肩から胸の辺りの高さの部分で、 驚きもあって、瞬間、息が詰まった程だった。 それでも咄嗟に、自分より相手が勢い余って転びそうになったのを、 目測で二の腕の辺りらしき所を掴んで阻止したのは、 我ながら上出来だと思った。 「失礼」 「すみません」 同時に、双方から声は発せられた。 聞き覚えのあるその声に、ハッとして見れば。 果たして、其処には甲太郎の想い人である木崎が、 此方もまた、大層驚いた様子で甲太郎の事を見上げていた。 その様子は、普段でさえ大きな瞳が零れんばかりに見開かれていて、 気付けば甲太郎は、知らぬ内に片方の手で木崎の両の眼を覆ってしまった。 「ど、どうした!?」 突然の甲太郎の不可解な行動に、木崎が驚いた風に声を上げたが、 甲太郎本人も自分の行動の突飛さに驚いていた。 それでも木崎の声に我に返り、慌てて己の手を外す。 ・・・・・外したけれども、其処から現れたのは又しても、いやそれ以上、 今度は尚更、目一杯に大きく見開かれた木崎の瞳で。 甲太郎は再び木崎の瞳を己の手で覆い直し、 もう片方の手でもって、此方の方は木崎の身体ごとを 身の内へと抱き込んだのだった。 甲太郎の胸元から、木崎のくぐもった声が聞こえる。 「だから・・・・・どうしたって聞いてるんだ、高宮!!」 苛立ちの篭った声に、甲太郎は詫びの言葉を呟いた。 「すみません。 自分でも、どうしたんだかサッパリで」 「は?」 「ですから・・・・・自分でも自分の行動に驚いているんです」 「何なんだ、一体?」 木崎を抱いて廊下の一点を見詰めていた甲太郎の目の前を、 覆い隠して見えない様にしている筈の、 直前に見た木崎の濡れた様に潤んだ瞳が過ぎる。 どきりと胸が鳴る。 「あ・・・」 「どうした!?」 甲太郎の声に、胸元で木崎が身じろいだが、 それを、相変わらず抱き締めたままの腕に もう少しだけ力を込める事で大人しくしてもらった。 「何だか、分かった気がします」 「この訳の分からない行動の訳が?」 またしても、くぐもった問い掛けが胸元から上がってきた。 「はい」 その甲太郎の短い返事の中に、妙に戸惑う様な様子が伺えて、 木崎は益々訳が判らず、既に何度目かになる問い掛けを繰り返した。 「で?」 どういう訳なのだ、と。 「目が・・・・・」 「目ェ??」 木崎には、それだけではまだまだ、何が何やらまるで分からなかった。 「ええ、貴方のその大きな瞳です」 「それがどうしたって?」 「・・・・・」 不意に、そこまでで口を噤んでしまった甲太郎に、 焦れた木崎が命令口調で尋ねた。 「どうしたのかと聞いてるんだ!! さっさと答えないか!!」 「答えなければ、いけませんか?」 酷く言い辛そうに甲太郎は問い返してきたが、 木崎もこのまま聞かずに済ます気は無かった。 「いいから、答えろ!!」 普段の木崎ならば、こんな風に上官風を吹かせた命令口調で 甲太郎を詰問する事など考えられなかったが、今夜の、この状態では、 多少気は引けたが、どうしても話を聞かずにはいられなくて、 厳しい口調で甲太郎に返答を求めたのだった。 木崎の頭上で、甲太郎の重い溜息がハァと聞こえた。 諦めたのか、それとも覚悟を決めたのか、遂に甲太郎が口を開いた。 「自分は、答えながら憤死するかもしれません」 先ずは[前置き]らしい。 「構わん、骨くらいは拾ってやる」 相手の、らしくない往生際の悪さに、バッサリと切り捨てた。 その余りに遠慮会釈の無い物の言い様に、甲太郎が苦笑する。 「貴方の・・・・・」 「俺の?」 「貴方の大き過ぎる瞳が、零れ落ちちゃいけないと」 「・・・・・」 頭に浮んだ情景に、瞬間、木崎は言葉を失った。 それでも何とか気を取り直し、恐る恐る聞いてみた。 「・・・・・まさかと思うんだが・・・・・・・・思ったのか?」 「・・・・・・・・はい」 木崎は、またも言葉を失った。 甲太郎の方も、口を噤んでいる。 「・・・・・」 「・・・・・」 二人して、暫し沈黙する。 その間、実は一度、木崎は呆れて盛大な溜息を付きかけたのだが、 次の瞬間、その言葉の裏に隠されていたモノにハタと気付いてしまい、 顔を真っ赤にして、その溜息を飲み込んだのだった。 いまだに目隠しをされたままの状態で、確認してもいないというのに、 不思議と甲太郎の顔が自分と同じ程度か、それ以上に、 照れくささで赤くなっているに違いないと思えて。 年端も行かない、まだ少年の様な初々しさを見せた恋人。 珍しい事もあったものだと、木崎はそんな甲太郎をいとおしく思った。 普段、甲太郎が自分よりも一回りも年下だという事は余り意識しなかったが、 こんな風に、極稀に、木崎は自分と甲太郎の歳の差を考えさせられる。 会う度、いつの間にかリードされてばかりで、 正直、意識する間もなかったというのが本当のところだった。 だからこそか、木崎の心の内に小さな悪戯心が湧き上がってきた。 どうしても、甲太郎の顔が見たかった。 「なぁ、高宮。 そろそろ・・・・・この手を外してくれないか?」 言ってみれば、戸惑う口振りで甲太郎が言った。 「いや、その・・・・・」 その口振りから察するに、まだ普段の甲太郎からは程遠い様子なのだろう。 「なら、仕方ない」 別段、腕を拘束されていた訳ではなかったので、木崎は自分の手で、 目元を覆っていた甲太郎の手を外した。 再会して、今夜初めてまじまじと見詰めた年下の恋人は、 困ったような笑顔で木崎を見下ろしていた。 「恥ずかしいところを見せてしまって」 木崎の想像通り、その頬にはまだ充分に赤味が残っていて、 今も随分と照れているのだという事が分かった。 木崎の口元に、自然と笑みが浮ぶ。 その口元に、外した甲太郎の手を持って行く。 いとおしくて堪らない。 想いのままに、掌にそっと唇を押し当てれば、 甲太郎が大きく一つ息を呑んだのが分かった。 また悪戯心が擽られ、押し当てた唇で掌をちゅと吸い上げてみた。 その間、互いに見詰め合ったまま。 甲太郎の目が僅かに瞠られたが、見る間にすっと細められた。 それが笑ったのだと気付いた時には、勝手知ったる自分の家だ、 知っていたのだろう、直ぐ隣の無人の部屋へと連れ込まれて、 掠め、啄ばむ程度の、優しく、ふざけ合う様な 普段の口付けの始まりの手順を一切省いた、 貪り尽くす様な荒々しい口付けを、掻き抱かれ、受けさせられていた。 息を継ぐ間も許されず、深く、深く、探ってくる口付けに、 酩酊感に襲われた木崎は立っていられず、 甲太郎の背に両の手を廻し縋り付いた。 「・・・・・ん・・・ぅ・・・・・・」 苦しさに、つい呻く様な声が漏れたが、それでもまだ満足した訳ではなく、 木崎は止めてくれるなとばかりに、縋る手に力を込めた。 くすりと甲太郎が鼻で笑った気配に目を開けてみれば、 甲太郎も目を開けて木崎を見下ろしていた。 木崎の赤く色付いた唇を、真っ白な歯を、暖かな口腔を、 我が物顔で自在に動き回っていた存在が徐々に退いてゆく感触に、 それまでの息苦しさを忘れ、自分から後を追い、 それでも追い付けなかった悔しさに、甲太郎の下唇を軽く噛んだ。 「痛いな・・・・・」 甲太郎は言ったが、目は優しく笑っていたので、 木崎は乱れた息を整えながら「それっ位で」と言ってやった。 今度こそ、「あはは」と声に出して笑った甲太郎は、 木崎のこめかみの辺りに唇を寄せ囁いた。 「どうしたんです? 今夜は、酷く積極的だ。 こんな木崎さんは初めてで、知らない人みたいです」 囁く甲太郎の吐息に擽られ、肩を竦めて笑う木崎が言った。 「積極的? ああ・・・さっきまで、散々中佐に付き合わされて、飲まされてたからな。 大分出来上がってるんだ。 だからじゃないか」 「あの人に付き合ってって・・・・・あの人は笊でしょう? それに付き合って、気分は?大丈夫ですか?」 急に心配そうな声で尋ねてきた甲太郎に、木崎は大丈夫と笑ってみせる。 「笊とはいかないけれど、俺もそこそこ酒には強いんだ。 大丈夫、気分はいいよ」 そう言って、また甲太郎の唇を軽く噛む。 「そうでなければ、こんな事出来ない」 にっこりと笑う木崎に誘われ、また口付けを交わそうと唇を寄せながら、 甲太郎は木崎が実の所、かなり酔っていたのだと、今更に確信したのだった。 それでも口付けを再開しようとしていた甲太郎の耳に、 聞き慣れた声が聞こえてきたのは、 今まさに木崎の薄っすらと開かれた唇に触れるか触れないかの際どい所だった。 はっとして耳を澄ませば、それは先ほど厨房で会ったお時のもので、 「おかしいわね? 甲太郎坊ちゃまは何処に行かれたのかしら?? 大湊の旦那が待ってらっしゃるって言ったのに」 カチャカチャと鳴るのは、また空になった酒器でも運んでいるのだろう。 木崎との事に夢中になっている間に、お時は大湊の居る部屋へ一度、 新しい酒を届け、甲太郎が来ていないと大湊から苦情を言われ、 序にとまた空になった酒器を持たされ、部屋から帰ってくる途中らしい。 近付いてくる足袋の畳を滑る音に、息を潜め、 状況の分かっていない酔っ払いの恋人の唇に、しっと人差し指を押し当てた。 二人の居る部屋の障子の端に、廊下の明かりを受けて出来たお時の影が映り、 一枚目、二枚目と障子の向こうを通り過ぎて行く。 最後の一枚。 目で、耳で、全身で影を追っていた甲太郎が、ビクリと身を竦ませた。 「!!」 上げ掛けた声を、必死に飲み込む。 影が去り、足音も遠ざかったのを確認した甲太郎が漸く視線を戻せば、 やはり間違いなく酔っているに違いない木崎が、口寂しい子供がするみたいに、 甲太郎の人差し指の指先を銜え、またあの潤んだ様な黒い瞳で じっと見上げてきていた。 胸が鳴り、下腹にも誤魔化し様のない滾りを感じた甲太郎だったが、 何時、誰が入って来るかも分からないこの部屋で、 これ以上の事に及ぶのは憚られたし、 流石に大湊の事も気になり初めていた。 そうして凝然と立ち竦む。 持て余しそうだった滾りさえ、瞬時に治まる。 思い出した。 並ぶ部屋の何処かで、妹が誰かの相手をしていたのだという事を。 〜2の第8週〜 |
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