(高宮?)
甲太郎の人差し指の指先を銜え、爪の先には軽く歯さえ立てている為、
声には出せなかったが、訝しさに心の内で名を呼んだが応えは無く、
突然、最前と様子の変わってしまった甲太郎に、
木崎はそれが甲太郎に自分の欲を過ぎる程押し付けた己を
厭わしく思っての事ではないかと思い、
先の自分の行動を酒が入っての事とはいえ、
何と浅ましい事をしたものかと恥じると共に深く後悔した。
急速に酔いの醒めてゆく頭と身体。
甲太郎の僅かに節の有る長い指先を銜えたままだったのを思い出し、
おずおずと寄せていた口元を外し、遠ざけた。



指先に冷気を感じ、物思いから我に返った甲太郎は、
目の前の、銜えていた指を離し俯き加減に立つ木崎を見下ろした。
甲太郎の視線を感じ、俯いたままで木崎は一言、ポツリと呟く。
「済まん・・・・・」
その酷く落ち込んだ風な声色に、甲太郎は慌てて放り出された人差し指を、
俯いた木崎の顎に掛け、掬う様にして仰向かせた。
「何を謝るんです?」
そう聞いてくる年下の恋人を、言葉にしろというのかと憎らしく思いもしたが、
それは一瞬で、じっと覗き込んでくる宵闇に普段より濃く見える
甲太郎の金茶色の瞳から目を逸らし、木崎は思っていた事を口にした。
「・・・・・先走って、浅ましい真似をした。
 だから・・・・・」
だから軽蔑しているのだろう?と。
甲太郎は心の内で大きく一つ息を付いた。
こういう時に、十以上も年の離れた恋人の事が、
可愛くて、愛しくて堪らなく思えるのだった。
それで思わず、仰向かせたままだった木崎の薄く開いた唇に、
あやす様な小さな口付けを何度か落としてしまった。
木崎はというと、その口付けで安堵したのか、
甲太郎を見上げてくる表情が、目に見えて和らいだ。
顎に掛けた手の親指の腹で木崎の唇をなぞりながら、甲太郎は言った。
「浅ましいだなんて・・・・・」
もう一度、木崎の唇を啄ばむ。
「あの程度で、思うものですか」
もう一度。
「私など・・・貴方に逢えない日々の間、
 何度貴方の言う、その[浅ましい真似]とやらをした事か」
もう一度。
「夢で、或いは現であってもふと貴方の事を思い出した時、
 その度毎に、心の内の幻の貴方に、懇願していますよ。
 幾度も幾度も触れたい、抱かせて欲しいと掻き口説くんです」
ぽぅと頬の染まる恋人の唇を、今一度啄ばむ。
「勿論、貴方は私に身を委ねてくれます。
 私の望むとおりに。
 何故なら、私の心の内の貴方ですからね。
 私のその時々に想うまま、望む様に応えて下さいます。
 [拒む]という事など思い付きもしない風で、それはもう従順に。
 けれど・・・・・」
甲太郎は一旦、言葉を切った。
「けれど・・・・・?」
自分を掻き口説き、掻き口説かれる自分の様を思っているのか、
木崎が何処か有らぬ所を見る眼差しで甲太郎に先を促す。
そんな木崎を此方へと引き戻すつもりか、促されたその先を話す前に、
甲太郎はそれまでの触れるだけのものとは全く異なった、
深く、熱い口付けを木崎に寄越してきた。
口付けの間に、知らぬ間に甲太郎の首へと縋る様に廻された木崎の両の腕。
必死とでもいえそうな其れに対して、幾ら小柄だとは言っても
立派な成人の男性たる木崎の身体を、
甲太郎は軽々と片腕一本で支え、抱いていた。
もう片方の手はというと、相変わらず木崎の顎に添えられたままだった。



やがて互いの息さえ交換し合う様な口付けを漸く終え、
名残惜し気に離れた互いの間を、
瞬きの間、宵の闇の中にも煌く細い銀の糸が繋いでいるのが見えた。
それが消え去るのを見届け、甲太郎が再び口を開いた。
「幾ら私の心の内の貴方が、想う通りの貴方であったとしても、
 やはりこうして、触れ合える目の前の貴方には敵いません。
 自分から、私に触れてきて下さる貴方に敵う訳が無い」
真摯に告げる甲太郎に、木崎は嬉しいと笑ってみせた。
「ああ・・・もう、約束など放って措いて、
 これから離れにでも引き篭もってしまいたい」
木崎の笑みに、甲太郎が呻くように溢せば、木崎が不思議そうに小首を傾げた。
「約束?」
その仕草に、再び小さく呻いた甲太郎は、木崎の上司の名を挙げた。
「大湊中佐です」
「え?」
「大湊さんに、見世に行くから顔を出せと言われていて・・・・・」
「え・・・あ?!」
「木崎さん?」
急にうろたえだした恋人に、どうしたのかと問い掛ければ、
先程廊下で会ったのは、大湊に言われて甲太郎を呼びに、
母屋へ尋ねて行く途中だったのだと答えが返ってきた。
「しまった・・・・・」
「どうしよう・・・・・」
双方が、同時に呟いた。
暫しの沈黙の後、意を決した風に甲太郎が言った。
「仕様がありません。
 大湊さんに嫌がらせをされている様な気がしてならないのですが、
 此処は離れの件は諦めて、急いで挨拶に向かいましょう」
はぁと甲太郎の胸元から木崎の溜息が漏れ聞こえた。
それが肯定の意を表すものだと解釈して、甲太郎は木崎を覗き込んで
囁きの声で言った。
「この部屋を出る前に、もう一度だけ・・・・・」
はっと顔を上げた木崎は、自分を見詰めてくる甲太郎の眼差しの中に
無理矢理に鎮め様としてし切れなかった、最後の欲の欠片を見て、
それを拾い上げ次の逢瀬まで大切に育てる為にもと、
軽く自分から唇を開く仕草で、これが今夜の最後の口付けとばかりに、
殊更時間をかけ、ゆっくりと降りてくる甲太郎の口付けを待った。



部屋はドンちゃん騒ぎという程ではないとはいっても、
そこそこに鳴り物が鳴っていてみたり、会話が弾み、
その合間にはドッと笑いが起こったりしていて、そこそこの騒がしさだった。
客としては大湊と副官の中野、そうしてもう一人の副官の補助的役目の木崎、
その三人だけの筈のお座敷であったが、
普段から賑やかな事の方が好きな大湊が、その個人の財力でもって、
遊びに寄る度に大勢の妓達を部屋へと招くせいで、
今夜も十畳の部屋を2つ、間の襖を取り払っての宴会となっていたのだった。
部屋の中には女将である胡蝶も居た。
話相手をしていた中野との会話の合間に相槌を打ったり、
酒器や料理の器の空き具合に注意を払ったりとしながら、
チラリと大湊の方を見遣った。
その家柄や資産から、どう考えても下町育ちとは思えない。
けれども何故だかいつも、伝法な言葉遣いで、
それでいてそれは決して周りに不快な感情を持たせる事は無く、
寧ろその懐の大きさには似合っている様に思えた。
自分の方の好き嫌いに加えて、相手からの好かれたり嫌われたりも
はっきりと分かれる性質らしかった。
強い立場の者や上官達には案の定煙たがられ、
弱者や下からは非常に慕われている男だった。
胡蝶の義理の息子である甲太郎はといえば、
会う度に良い様にからかわれているせいか、
多少苦手意識を持ちつつも、実際は直属の上官である浅倉よりは、
この少々歳の離れた兄の様な大湊に懐いている様に思えた。
上司の浅倉の性格もあるのだろうが、大湊との方が節度をもちつつも、
遥かに気を許して話をしている気がする。
第一に、口の悪さはともかくとして、何よりこの大湊と言う男は心根が優しかった。
戦時も佳境に入ったのであろうこの時節に、[翠山]に足を運んでは、
こんな宴会を度々開いてくれていた。
表向きは「湿っぽいのは苦手だ」「陽気にやろうぜ」と言ってはいるが、
その実、客にあぶれた妓達を呼んでくれているのだと、
見世を切り盛りする中心の者達はじめ、今では呼ばれている妓達も知っていて、
口には出さなくても、心で感謝しつつ、その来訪を待ち兼ねている程であった。
その大湊が、入り口の障子の外の気配を伺った。
つられて胡蝶もそちらを見れば、騒がしかった部屋にも通る声で、
入室を求める甲太郎の声が聞こえてきた。



「中佐、高宮です。
 入ってもよろしいでしょうか」
「おう、入れ」
部屋の喧騒が、一気に静まり返った。
皆が注視する中、障子が音も無く開かれ、廊下に端座した甲太郎が、
白い障子の影から現れた。
その傍らには、大湊の部下で、先程甲太郎を呼んでくる様言い付かって、
部屋を出ていった木崎も控えていた。
部屋の上座に居る大湊を見る為に向けられた甲太郎の視線が、
僅かの間、瞬きも忘れて其処に据えられたが、一度瞬いた後は、
もう何事も無い事と、普段と変わらぬ様子で一礼して座敷の中へと入ってきた。
後に入ってきた木崎を促し、甲太郎が障子を閉める。
先に自分の膳の場所へと戻った木崎の膳の前の辺りに
甲太郎が腰を降ろして正座をすれば、鉤の形に座っていた主従の、
調度床の間を背にして座る大湊の真正面に座る事になった。
一旦背筋を伸ばし、それから両手を畳に付いて
深々と大湊に向かってお辞儀をした。
そうして顔を上げないまま、挨拶をする。
「今宵は、お運びありがとうございます。
 軍令部でお声を掛けて頂いておきながら、
 ご挨拶に罷り出るのが遅くなりまして、申し訳ございません」
プッと噴き出したのは大湊で、その後は例の豪快な笑いが続いた。
「おい、他人行儀な挨拶はそれっ位にしときな」
僅かに顔を上げた甲太郎が、大湊を見上げてニヤリと笑った。
「一応、この見世の息子として、それに大湊中佐は上官ですから
 最初の挨拶くらいはと思いまして」
大湊に促されて挨拶を打ち切った甲太郎が言えば、
「ふん、何が上官を敬えだ。
 思ってもねぇ事をぬかすな。
 オメェにそんな愁傷な口を利かれたんじゃぁ寒気がすらぁ」
そういって、大湊が大袈裟に身震いをしてみせた。
二人を見ていた座敷の中の者達がドッと笑った。
甲太郎も「そんな言い方は酷いですよ」と苦笑する。
座敷中が笑う中、強張った表情で甲太郎を見詰める者が居た。
大湊の傍らに座る小夜だった。



甲太郎が視線を動かす。
華奢な身体が竦む。
奥で別れた時の、一人前の妓の初見草としての貌は其処に無く、
甲太郎のよく知る妹の小夜の貌をした娘が、甲太郎を見ていた。
血の繋がりの無い筈の妹であったのに、透けそうに薄い白い肌の色は別として、
生粋の日本人にしては茶色掛かった髪の色や、黄玉色した瞳の色等、
似通ったところの有る兄妹であった。
その黄玉の瞳を、見る間に濡れた薄い膜が覆うのを見る前に、
甲太郎は大湊へと視線を移した。
そんな甲太郎の姿を眼で追いながら、けれども小夜は涙を零す事は無かった。
本来ならば生れ落ちた時に定まっていた事だった。
身体が付いてゆかないからとこれまで触れられずにこれた。
正直、何もせずにこの家に置いてもらっているという気兼ねが
無い訳では無かった。
そう思っていた自分が望まれた。
相手に対する嫌悪感なぞ何処にも無く、寧ろこんな自分でもとホッと安堵した。
何かしら、この家の役に立つ事が出来ると。
けれど・・・・・望んだ事とは言え、望まれた事とは言え、
好いた相手に、客の隣に侍る姿を見られたくは無かった。
妹とでしか傍には置いてもらえない相手でも。
何時までも濡れた膜が瞳を覆ってはいたけれども、それでも其れは、
涙の雫となって小夜の頬を零れ落ちる事は無かった。
その代わりに、小夜の薄く痛む胸の中を
幾つも幾つも絶え間なく零れて落ちていった。



甲太郎や他の皆と言葉を交わしながら酒を口にしていた大湊は、
空になった杯を持っていた手を何気なく隣に座る初見草の方に伸ばし、
僅かの間の後、自分の元に引き戻して口に運んだ。
しかし杯の中には、口中を潤す筈の酒は入ってはいなかった。
ん?と思いはしたが、周囲に悟らせない仕草で隣を見遣れば、
酒器を手にはしていたものの、初見草の視線は
調度自分に側頭部を見せる位置で中野達と話を始めた甲太郎を見詰めていた。
「お初ちゃん」
弾かれた様に初見草が大湊を見上げた。
その目の中に見えたモノに、大湊でさえ胸が痛んだ。
伊達に情報部の佐官をやっている訳ではなかった。
大らかな気性とは対照的に、大湊は他人の感情の機微には、
例えどんなに些細であっても聡い男だったのである。
そんな男が、痛む初見草の心の内を気付かない訳はなかった。
少女の様な容姿の妓の大きな瞳が、普段より一層、
不安で大きく見開かれて大湊を見上げている。
「酒、もう一杯頼めるかい?」
それは大湊が、自分でも驚くほどの優しい声色だった。
「は、はい」
何か感じるものがあったのだろう。
初見草は表情を和らげ、微かに微笑んでみせた。
改めて大湊の差し出した杯に、
初見草が酒を注ごうと酒器を持ち上げ傾け様とする所に、
大湊はすっと身体を近付けた。
そうして空いていた方の手で酒器を持つ初見草の手を、
キュッと一つ握ってやった。
大湊の男としても大きめな掌に、少女の手は有り余る程の小ささだった。

                                       〜2の第9週〜