微かに、音を聞いた気がした。
密やかな衣擦れの音。
それから聞こえたのは、襖の開け閉めの音だろうか?
廊下を踏んで遠ざかる足音。



木崎は目を開けた。



見上げた天井は、夜更けに一度見たけれど、
やはり木崎に見覚えのある自宅の其れではなく、
軍の仮眠室の其れでもなく、
ましてや懐かしい潜水艦の其れでもなく、
まるで見覚えの無い木目も美しい天井だった。



自分は何処に居るのだろう?
此処は一体何処なのだろう?



木崎は今も微かに靄の掛かった頭で夜更けと同じ疑問の答えを考えてみる。
答えは同じで、思い当たらなかった。
最初は視線だけ、それからゆっくりと頭を左右に向けてみた。
外からの光の中、10畳程の広さと思われる座敷に
木崎は一人で横たわっているらしかった。
雪見障子から、庭の様子が伺える。
然程広くは無くとも、充分に手の入った庭に
咲く色取り取りの牡丹に目を奪われた。



ああ・・・美しいなぁ・・・・・



瞬きもせずに花を見詰めていた木崎の双眸から大粒の涙が、
一つ、二つと零れて木崎の頬と枕を濡らした。
濡れた感触を、木崎は僅かの間そのままにしておく。
美しいものを美しいと感じて涙するのは随分と久しぶりな気がして。



けれど何時までもそうしている訳にもいかなくて、
それからそう時間が経たないうちに、
木崎はもう一度視線を辺りに巡らせてみた。
すると足元の片隅に畳まれた一組の夜具が目に入った。
様子からするに新しい物ではなく、誰かが使ったものらしい。
誰かがこの部屋に一緒に泊まったのだろうか?
思い返せば、夜更けに目を醒ました時に誰か居たっけ・・・。
誰が?その誰かは今何処に?
そういえば、此処は何処なのだろう?
木崎は最初の疑問へと思考を戻した。
そうして漸く思い出した。
昨日の忌まわしい夜を。



自分は昨夜、上官の供をして飲み歩いていた。
実の所は、供をすると言うより引っ張り廻されたというのが正しいだろう。
昼間、でっち上げのミスを元に、散々身体を痛めつけられた。
その上で上官命令だの何だのと勝手な事を言い、
他の取り巻き達に身動きするのも辛い木崎を、脇から支え、
半ば拉致するように数件の店に連れ込んでは、
怪我の具合と体調の悪さから、勘弁して欲しいという木崎の言葉を無視して
押さえつける様にして無理矢理口を開かせ、酒を流し込んだ。
飲みに連れ歩くというより、それは新手の私刑の様だった。
最後の方は朧気で、結局何処の店に辿り着いたのかも分からない。
その頃の木崎にはもう、酒を断るのに口を利く気力さえ無かった。
とにかく憶えているのは、これまで経験した事の無い程の虚脱感。
辛うじて意識だけは保てていたが、
身体はまるで言う事をきいてはくれなくなっていた。



意識は夢と現を行ったり来たりする。
現の僅かな間に、唐突に木崎は気付いた。
最初は気のせいだと思った。
第一、現の間の短さが思考を始終中断させるので、
そう思うことで、その件に関する思考を終了させたかったのかもしれない。
けれど・・・生理的な嫌悪感がそれに勝った。
[気のせい]は[確信]に変わった。
料理の載った膳と酒器の載せられた膳の影、
上官の横田の手が木崎に触れてくる。
気付いてからは儘ならない身体を何とか動かし、
横田との距離を少しでもとろうと試みるが、思う様には行かず、
無駄に身体が辛くなるばかりだった。
遂には木崎の太腿の辺りに置かれた手に、思わず睨み付けた。
しかし横田は怯むどころか、益々無体を仕掛けてくる。
木崎は睨み付けたつもりだったが、横田から見ればまるで違った様子に見えた。
酔いと怒りに目元を赤く染め、うるうると濡れた眼差しで睨みつけられても、
それは寧ろ横田の邪な思いを煽るばかりにしかならなかった。
怯みもせずにゆるゆると蠢き始めた指の感触に、
嫌悪感がゾワリと木崎の背筋を這い上がる。
先に視線を逸らしたのは木崎だった。
助けを求めるように周りを見渡すが、取り巻き達も気付いているのか
ニヤニヤと木崎を見るばかり。
固まりかけた視線の先々、その場に居た他の奴や中居達の中には
様子に気付き、痛まし気な視線を返してはきても顔を背けて終わりだった。



突然、もうこれまでだと諦観する。
悪習を知らなかった訳ではない。
軍隊に入ってからは尚の事、実際目にした事も無ければ、
こんな風に自分の身に降りかかってきた事も今までは無かった。
けれども、今の状況から考えるに、そういう事なのだろうなぁと木崎は思った。
まさか?何故自分が?
此れはあれだろうか?これまでの数々の嫌がらせの延長だろうか?
にしては余りに性質が悪い。
醜悪過ぎる。
そう思いはしても、今のこの状況から逃げ出す術も思い付けず、
身体も限界が近いのを感じていた。
もう如何なってもいい。
大した事ではない。
木崎は思考を投げ出し、また夢と現の境へと戻っていった。



割り切ったつもりでも、正直嫌悪感が皆無になる訳ではなかった。
暫くすると、いよいよ気分の悪さは限界に来た。
相変わらず無理矢理飲まされる酒と、横田の手の感触が拍車を掛ける。
誰でもいい、凭れ掛かれば少しは楽になれそうな気がしたが出来るはずも無く、
何とか最後の気力だけで持たせていた。
自然と俯きがちになってゆく。
畳に付いて己が身を支えていた手も、
今にもがくりと折れて突っ伏してしまいそうだった。
その場の雰囲気が変わったのを感じたのは、そんなギリギリの時だった。
木崎は翳む頭を如何にか起こして視線を上げた。
眼の先に美しい女(ひと)。
そしてその隣に・・・・・。



見覚えがある気はしたのだけれど、思い出す前に夢がまた木崎を捕まえた。
俯いた木崎の耳には既に真横に居る横田の声でさえ届かなくなっていた。
今度こそもう限界だと、畳に付いていた腕が折れ掛けた所を二の腕を取られ、
恐ろしい程の力で引き上げられた。
咄嗟に何事かと上を向いたのが止めだった。
押さえの利かない嘔吐感が木崎を襲う。
空いている方の手で口元を押さえる。
無意識に捕えられている方の腕も口元に持っていきたいと
自分の方に無駄と知りつつ引き寄せてみると、
思いがけず其れは自分の思い通りに動いた。
が、安堵する間も無い。
駄目だ、堪えられない。
両の手で口元を押さえる。
周りを気にする余裕も無い筈だったが、
こんな所では拙いとチラリと頭を過ぎった。
瞬間、一杯に広がった濃紺。
何?
軍服?
如何して?
誰だ?
思ったと同時に、木崎はえづき始めた。
駄目だ?!
思いに反して一度始まってしまった其れは、木崎自身にも止められない。
其れこそ涙と鼻水、体中が拒否して搾り出さんとする自分の吐瀉物で
木崎は顔といわず、口元を覆っていた手といわず、汚れてゆく。
同じ様に木崎の眼の前を覆う濃紺の制服も汚れてゆく。
軍人としての誇りを具現化している軍服を汚してしまった。
しかも自分の物は致し方ないとしても、
何処の誰とも分からない者の大切な軍服まで汚しているのだ。
木崎は途切れ途切れながら、必死に謝罪の言葉を口にした。
今の木崎には、そうする事しか出来なかったから。
罵声の一つも浴びせられるかと思っていたが、
頭上から降ってきたのは酷く優しげな声だった。
「構いませんから。
 楽になったら、もう目を閉じていらっしゃい」
既に木崎が自分では支えられなくなった身体を、
声の主がしっかりと抱き止めて囁いた。
もう、意識を手放してもいいのだと。
その言葉が合図の様に、
木崎はいつの間にか眼の前の軍服の濃紺に代わって広がった
真っ暗な闇の入り口に、その身を滑り込ませた。




木崎が憶えているのは此れだけだ。
今更ながらに気付いた木崎は、
ハッとして自分に掛けられていた薄手の夏蒲団をはぐると
大急ぎでその身を布団の上へ起こした。
ぐにゃりと視界が歪む。
慌てて、再び布団へ倒れこみそうになる身体を脇に手を付いて支える。
ふぅふぅと浅い呼吸を繰り返す。
ばくばくと心臓が暴れだす。
去ったはずの嘔吐感がぶり返す。
が、それを何とか遣り過ごし、木崎は気分が落ち着くのを待った。
どれ程たった頃だろうか?
余り間を措く事無く、眩暈や嘔吐感は無くなった。
大きく一つ溜息を付いて、やっと木崎は自分の措かれた状況を省みてみた。
汚れていた筈の軍服は浴衣に着替えさせて貰っていた。
勿論、自分自身もいつの間にかサッパリと洗い清められたらしい。
片手を鼻先に持ってきて、くんと嗅いでみたが、
覚えのある悪臭など微かにも臭わず、
仄かに香るのは夜具に薫き染められた香の移り香だけ。
自分で風呂を使った覚えが無い以上、
誰かが入れてくれたのだと改めて思った木崎は、
急に居た堪れなくなった。
そうして遅ればせながら帰らなければと思い至り、
漸く自分の衣服を探すべく辺りをもう一度見渡した。
けれども見渡す限りに自分の衣服は無い。
部屋の片隅に畳まれた夜具の隣に乱れ箱を見付けた木崎は、
先程の眩暈や嘔吐感を思い出し、極力ゆっくりと、
静かな動作で其方へ移動する事にした。
格好に拘っている場合では無い、と木崎は
這うようにして一歩目を踏み出し掛けた。
其処へ、廊下を此方に近付いてくる足音が聞こえてきた。



思い掛けなく早い足取りの持ち主が座敷の戸を、音も無く開いた時と、
木崎が軽い眩暈や嘔吐感を我慢して布団の上へ正座したのはほぼ同時だった。
「あ・・・ら・・・・・」
朦朧とした意識の中でも、鮮やかな美貌は残っていた。
昨夜見た美しい女(ひと)が障子を開けた手もそのままに、木崎を見詰めた。
パチパチと数度瞬きを繰り返すと、にっこりと笑い掛ける。
「お目覚めでしたか、おはようございます」
「あ、お、おはようございます」
「よくおやすみになれました?」
「は、お陰様で」
確かに、今朝の木崎はこの所の不眠や、
浅い眠りが嘘の様にすっきりと目覚めていた。
二日酔いの気分の悪さを差し引いても、自分がぐっすりと眠った事は、
身体の調子から言って間違いないだろう。
「調度お召し物が乾きましたから、お持ちした所だったんです。
 まだおやすみの様だから、静かに置いてくるようにと言われていたんですけど、
 もしか、起こしてしまいましたんでしょうか?」
「いえ、目は覚めていました。
 私も自分の服を探そうとしていたところで。
 すみません、何から何までご迷惑をお掛けしたようで」
木崎は言って、ぺこりと頭を下げた。
拍子にまた軽い嘔吐感が襲う。
思わず口元に遣った手に、眼の前の女(ひと)がクスリと笑った。
「ご気分が優れなくていらっしゃるようですね。
 直ぐに梅の入ったお茶をお持ちします。
 少しは気分が楽になると思いますから」
「・・・すいません」
木崎はまた頭を下げるしかなかった。
「いいえ、お気になさらないで下さいましな。
 起きられたら用意するよう、言い付かっておりましたから」
言いながら廊下に座っていた女(ひと)は立ち上がって部屋へと入ってきた。
空の乱れ箱の前に座ると手にしていた木崎の衣服を一揃い置いて、
直ぐにまた立ち上がる。
廊下に座ってもう一度木崎を見遣る。
「お茶のご用意をしてまいります。
 他に何か御用はございませんか?」
「えっと・・・」
「そうそう、あたしは此処の女将で[胡蝶]と申します。
 御用の折には、[胡蝶]とお呼び下さい」
「女将って?」
未だに此処が何処なのか見当も付かずにいる木崎は、
いい機会だと思って聞いてみた。
「此処は[翠山]でございますよ。
 アタシはその[翠山]の女将でございます」
胡蝶が夜を思い出す笑顔で艶やかに笑う。
木崎は一瞬眩しそうな視線を向けたが、
[翠山]の名に我に返らざるを得ない。
[翠山]といえば、軍でも上層部の人間御用達の超が付く高級店なのだ。
自分如き下士官がほいほい揚がれる店ではない。
二日酔いとは別の意味で、顔から血の気が引いてゆく。
あの上司が自分の分までお金を払っていってくれているとは、
どんなにお人好しでも思わないだろうし、木崎も実際そう思っていた。
「昨日のお客様のお連れの方々ですけど・・・」
ドキリと胸が鳴る。
「実は私共がご機嫌を損ねてしまって・・・・・。
 それはもう大変なご立腹で、ウチの方でもせめてものお詫びにと
 お支払いはお断りしたんですけれど、余りにお腹立ちだったせいか、
 ご気分の悪くなられた此方様を置き去りにしてお帰りになられてしまって。
 本当に、ご迷惑をお掛けしました」
深々とお辞儀をする胡蝶に、
木崎はどうなっているんだと首を傾げるしかなかった。
「いや、あの胡蝶さん」
「はい」
顔を上げた胡蝶が、またにっこりと笑う。
「結局、私はこの後どうすれば?」
途方に呉れた様子の木崎に、助け舟が遣ってきた。
「遠慮せずに、ゆっくりと休んでいかれればいいんですよ」
昨夜の声の主が、障子の影からその姿を現した。


                                           〜第21週〜