一目で、長身と分かる青年が立っていた。



布団に正座をしていたせいとはいえ、廊下から座敷に入り、
自分の傍へと近付いてきた若者を木崎は仰向く様にして見上げた。
やはり、自分よりは遙かに高い。
木崎はそう感じた。
そして二人の視線が交差する。
ふっと木崎を見下ろす若者の、
日本人にしては珍しい黄玉色の瞳が膨らんで見えた。
それが自分に対して微笑って寄越したのだと木崎が気付いたのは、
その後暫く経ってから。
その時は、気付きもしなかった。
ただただ自分の傍に腰を降ろそうとしている若者を、
木崎は黙って見詰めていた。
真っ直ぐ過ぎる程の視線を受け止める側の若者は
木崎の隣で正座し、両の腿の上に指先まで伸ばした手を据えて、
黙って深く頭を下げた。
所作の手本の様に美しいお辞儀を終えた若者は、
すっと背を伸ばして口を開いた。
「おはようございます。
 ご気分はいかがですか?
 木崎大尉」
「あ・・・君は?」
木崎の問い掛けるような眼差しに、
若者はホンの少し意外そうな顔をしたが、それは一瞬の事で、
次の瞬間には笑顔で答えていた。
「これまで2度、私は大尉とお会いした事があります」
「会った・・・事が?」
「はい」
こくりと頷かれたが、木崎には咄嗟に相手の名前どころか、
何処で会ったのかさえ思い出せなかった。
「何処で・・・」
考え込む余り、知らず声となって漏れ出た。
笑顔を、微苦笑に変えた若者が、僅かばかりの逡巡の後言った。
「伊16で・・・お目に掛かりました」
「!!」
懐かしい艦の名を聞いた途端、ザワと肌がざわめいた。
木崎の正座した腿の上に揃えていた掌が、
ギュッと浴衣地を握り締める。
期間にしてみればまだ然程の時間は経っていないというのに、
その名の何と遠くなった事か。
自然と懐かしむ様に細められた目が、視線を若者から逸らされ、
自分の手の甲へと落とされた。
俯く視線に痛ましさを感じながらも、若者は続けた。
「2度お会いしたどちらも、
 所属はおろか姓名すらも名乗ってはおりませんでしたので、
 憶えていらっしゃらなくとも無理の無い事かと。
 改めてご挨拶させていただきます」
ゆるゆると木崎は顔を上げ、再び若者へと視線を戻した。
「高宮甲太郎と申します。
 所属は軍令部第一部第一課。
 作戦課長、朝倉良橘が私の直属の上司になります」
ごった返す艦の狭い廊下。
荒くれ者揃いの潜水艦乗り達の容赦の無い視線に、
微動だにせず立っていた若者の姿が、
木崎の記憶の底から今更の様に浮かび上がってきた。



「君は?」と聞かれ、甲太郎は内心で正直驚いていた。
眼の前の人は、自分の事を忘れているらしい。
あの時の光景を甲太郎自身、
これまでに何度も何度も繰り返し思い出していた。
その度に目の前の人の真っ黒な瞳が甲太郎を責め苛んできた。
憎しみさえ込められた瞳に、射竦められた時の事を思い出して、
甲太郎は今まで木崎と対峙する事を避けてきたというのに。
会って、木崎が口を開けば、きっと自分に対する呪いの言葉を吐き、
怒りの気持ちをぶつけてくるに違いないと覚悟していたというのに。
分かっていても、その言葉を聴くのを少しでも遅らせたいと、
出来る事なら聞かずに済みはしないかと。
なのに・・・・・眼の前の人は言うのだ。
お前の存在など、綺麗さっぱり、忘れ果てたという様に。
そもそも会った事等あるのかと。
「君は?」と聞いてきた。
滑稽極まりない話だった。
忘れてしまおうとしても忘れられず、
潤んだ真っ黒な瞳に追われ続けた自分。
声には成らなくとも、その眼差しに詰られた。



お前か?!と。
お前が?!と。
お前なのか?!と。
自分達から・・・自分から奪い、連れ去るのは?!と。



何故?



問い掛ける如く、大きく揺れた記憶の中の真っ黒な瞳に
返す言葉は無く、甲太郎にしては珍しく、
弱々しい眼差しで見返すことしか出来ずに日々を送ってきた。
なのに、眼の前の人は自分の事を憶えていないのだと・・・・・。



無性に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・寂しかった。



軍令部、第一課。
聞きたくも無い部署の名前。
逆恨みの様だとは分かっていても、どうしようもない。
この部署が裁定を下した訳ではないと分かっていても、
どうにも仕様がない。
眼の前の青年には何の咎も無く、
上からの命令に忠実に従っただけなのだと、
分かっていても、どうにもならない。
現実に、あの日絹見を
自分の手の届かぬ場所へと連れ去ったのは、
紛れも無い、目の前のこの青年だった。
何故?どうして?と思う。
これ程までの気持ちを抱かせる青年を、
今の今まで思い出せずにいられたのか?
あの時の事を忘れはしない。
永遠の別れになるかもしれない、あの時の事を。
今も、憶えている。



花を美しいと感じる心を取り戻せたと思い、
涙さえ零した時は粉々に砕けた。
再生の兆しは歯止めの利かない速度で崩れ落ち、
絶望と名を変えた瓦礫となって木崎の心に重く重く積み重なる。



嗚呼・・・・・貴方に逢いたい。



やっと思い出して貰えた。
甲太郎は、木崎の横顔を見詰めながら思った。
木崎は自分の事を、ようやっと思い出してくれたのだ。
そう思った途端、無性に寂しさを訴えていた筈の心が浮上してくる。
これから先、自分を見る木崎の視線の険しさを思う。
これから先、自分を罵る言葉だけを紡ぐであろう口元を思う。
これから先、自分を拒絶するだけの小柄な背中を思う。
それでも不思議と胸には[安堵]の文字。
[高宮甲太郎]の名は、彼の心に今度こそ刻まれた筈だから。

善しとしよう。

以上を望むな。

望むな。
望むな。
望むな。



望めば、叶う?
何を?



とり止めも無く続く思考を遮る仕草で頭を振る代わり、
甲太郎は木崎に再び声を掛けた。
「私はそろそろ司令部へ出勤しなければなりませんので
 これで失礼しますが、大尉はどうぞごゆっくりなさっていって下さい」
ハッと木崎が甲太郎を見る。
「ご気分次第では、召し上がれないかもしれませんが、
 朝食の事も言ってありますので母にでも申し付けていただければ
 直ぐに用意するでしょう。
 ねぇ、母さん」
甲太郎は胡蝶を見る。
「ええ。
 いつでも仰って下さいませ。
 直ぐに此方に用意させますので」
それまで二人の近くで静かに座っていた胡蝶が、
柔らかな声で応えた。
「だそうです。
 それでは私は、これで」
甲太郎はお辞儀をして立ち上がる。
していた筈の覚悟は、情けない事に罵られるであろうその時を、
一時でも先延ばしにしたいと悪足掻きし、一刻も早くこの場を後にしろと
甲太郎を急き立てた。
「あ・・・」
部屋を後にしようと足を踏み出しかけた甲太郎の背中を、
引きとめる声。
思わず振り向いて見下ろした先で、黒い瞳が揺れていた。



驚いた。
木崎は自分でも、どうしたんだ?と。
高宮と名乗った青年を、木崎自身、
呼び止める気はまるでなかったというのに、
出かけてしまうという青年の背中に、我知らず声が出てしまった。
恨み言の一つも投げつけてしまいそうな青年が
眼の前から消えてくれるのは、今の自分には
何より喜ばしい事の筈なのに。
どうして呼び止める様な声が零れ出たのか。
その背中。
自分に向けられた背中。
あの人の背中を思い出してしまったのだろうか?
行灯に浮かんだ昨夜の夢現の広い背中の主を確かめたかったのか?
それとも眼の前の青年の背中に滲む・・・・・?
混乱の中、木崎は突然大事な事を思い出した。
「ぐ、軍服は?
 昨夜はその・・・酷く迷惑を掛けてしまって・・・・・」
動揺が滲む声。
今だ自分を見下ろしたままの青年に、
早く消えて欲しいと思う自分が居るのに、
引き止めるような言動をする自分も居る事に驚いた木崎は
尚更動揺が増してしまう。
こんな風に引き止めてどうするつもりなのか、自分でも分からない。
だから益々混乱し、動揺する。



見下ろした先で、酷く動揺した様子を見せる木崎を
黙って見ていた甲太郎は、ふっと安心させるように笑ってみせた。
「大丈夫です。
 ご心配には及びません」
「けど・・・」
「私もうっかりしていたのですが、母に言われて漸く気付いたんです。
 今日は6月の1日。
 調度、今日から夏服に衣替えです。
 これから着替えるのですが、ちゃんと用意してありますので」
「・・・・・6月・・・・・・・」
「はい」
「夏服・・・衣替えか・・・・・。
 あ!!しかし、その・・・私が汚してしまった冬服は」
尚も言い募る木崎を、今度は胡蝶が遮った。
「木崎さま」
木崎は、今度は胡蝶の方を見遣る。
「こんな商売をしておりますと、いろんな事がございましてね。
 昨夜みたいな事は、珍しくもございません。
 ですからもう、ご心配は」
笑う胡蝶につられ、木崎はやっとホッと息を付いた。
軍人にとっての軍服の神聖さは、木崎も身に滲みて分かっていた。
だからこそ昨夜の自分の無様さが、自分自身でも許し難かった。
胡蝶に言われて安堵しつつも、
それでも思い詰めた表情が見え隠れする木崎に、
甲太郎が声を掛ける。
「大尉、大丈夫です」
見上げた甲太郎の笑みは、殊更に木崎を安心させるような其れで、
木崎も如何にか今度こそ、心から安心した。
最後に、もう一度だけ「すまなかった」と一言言って頭を下げた。
いいと言っているのに最後まで律儀に侘びを言う木崎を、
甲太郎と胡蝶の親子は
どちらともなく顔を見合わせ苦笑した。



「さあさ、それじゃ私は木崎さまのお茶を用意してまいりますね」
胡蝶はそう言って座敷を後にした。
後ろ姿の胡蝶には見えないと分かっているだろうに、
それでも性分なのか木崎はぺこりとお辞儀をする。
その姿を見ていた甲太郎も、
このままでは際限がないともう一度木崎に言葉を掛けた。
「では、本当に私もこれで」
「ああ!!
 い、急いでいたのに引き止めて悪かった」
「いいえ」
「そ、そうだ!!」
「え?」
また何かを言い出しそうな木崎に、
甲太郎の方も中々足が踏み出せない。
「俺も・・・俺も失礼するわ」
「は?」
甲太郎の声は、らしくもなく間の抜けた声だった。
「俺も今日は休みって訳じゃないし、今からだったらウチに一旦帰って、
 軍服を夏物に替えて出直すくらいの時間は有るし。
 だから・・・だから俺も、失礼する」
そこまで言って、木崎はいきなりすっくと立ち上がった。
刹那、身体の其処彼処が悲鳴を上げた。
「・・・ぅあっ!!」
顔を顰め、咄嗟に自由の利き辛い身体を如何にか立て直そうと支えを求め、
足掻くように手を伸ばす。
実際は瞬きの間だったのだろう。
けれどもその時、当事者同士には
其々にとてつもなくゆっくりと時が流れた気がした。


                                      〜第22週〜