黒曜の瞳と黄玉の瞳が、互いに大きく見開かれた。 驚きながらも、軍人として鍛えられた甲太郎の身体は 躊躇する事無く次の行動をとった。 木崎の筋肉質ではあるがほっそりとした二の腕に、 一回りしても余る程大きな甲太郎の掌が添えられた。 と思ったら、ぐいとその手の持ち主の方へと引き寄せられる。 木崎はと言えば、身体の痛みもあって否応もない。 その手の強さに引かれるまま甲太郎へと身を投げ出す。 小柄な上に、この所の心労に尚細くなってしまった身体とはいえ、 木崎の身体の重みを受け止めた甲太郎の身体は 微動だにする事もなかった。 すっぽりと覆う様に木崎を抱き止め、 考える間も無く自然に胸元に抱き寄せた。 どんと軽い衝撃が有ったが、互いに然程のダメージも無く、 甲太郎は木崎を胸の内に抱き、 木崎は幸太郎の胸元に顔を寄せる様にして、2人は立ち尽くした。 戸惑いの中、木崎は甲太郎のシャツの胸元から懐かしい香りを嗅ぎ取った。 ふわりと鼻腔を擽る、憶えのある煙草の香り。 戦時中の今、物資の不足している世の中で、 国の為に戦う軍人への支給は、民間人への配給を後回しにしてでも、 最優先で辛うじてまだ何とか続けられてはいたが、 それも何時まで、どの程度の物が支給出来るか、 先行きは果てしなく暗く絶望的な状態だった。 日に日に物資は底を尽き、当然の如く、嗜好品等もその例にもれなかった。 そんな中であったから、支給の煙草にしても銘柄など無いに等しい。 選り好み等していては吸えない。 他に選択肢は無いのだ。 嫌なら吸わなければいい。 どんなものでもいいから吸いたいという者は幾らでもいるのだから。 支給された煙草が気に入らないという事は、 数少ない楽しみが一つ減るだけ。 ただそれだけの事だった。 だからだと思った。 上級将校達ならばともかく、 既に下士官等は一兵卒と同様の煙草を吸わざるをえない状況で、 だからなのだろうと木崎は考えた。 皆が同じ煙草しか吸えないのだから、だから仕方が無いのだと。 あの人と同じ煙草を、眼の前の青年が吸っていて、 だから懐かしい煙草の匂いが彼の胸元から香ってきたのだと。 嗅ぎ慣れたタバコの臭いに動揺するのは、 思いがけず突然の出来事に、記憶を揺り起こされてしまったから。 まさか、こんな時に。 まさか、こんな場所でとは、夢にも思っていなかったから。 それだけ・・・・・そう、ただそれだけ。 (木崎・・・) 「木崎さん」 名を呼ばれた。 調度、忘れられない人が自分を呼ぶ時の声音を思い出していた時に。 ハッとして確かめる様に顔を上げて、声の主を見上げた。 分かっていた。 あの人である筈が無い事は。 一瞬でも期待した、浅ましい自分への侮蔑を込めた溜息。 喜びに震える筈だった胸には鈍く深い痛み。 あの人を映す筈だった瞳には空しさと現実だけが映る。 想いを込めた声であの人の名を呼ばわる筈の唇は、固く、固く、閉じられた。 あの人ではないのだから。 その名を口にしてはならない。 眼の前の青年は、あの人ではないのだから。 昂ぶった心を、そっと鎮める。 乱れた息を抑えて殺す。 人恋しさを、気取られぬ様に。 眼の前にいるのは、あの人ではないのだから。 薄い、木綿の長袖のシャツの下。 抱き寄せた小柄な身体の感触に、全身が粟立つ。 これが始めてではないのに。 昨夜は意識が無いとはいっても、その身体を抱いて、 あまつさえ風呂にまで入れたのに。 何故?どうして? 今になって、この時に? ああ・・・分かった。 昨夜は閉じられていた瞼が邪魔をしていたのだ。 間近に見詰めてくる瞳に、今一度魅せられてしまったのだ。 気を失う前の、酒気に翳んだ瞳ではない。 あの日、艦内で見た生気に溢れた瞳。 突然の理不尽な出来事に驚き、哀しみ、憤った黒い瞳。 力強い瞳が、私を射竦めた。 そして今、あの時よりも尚、間近い距離で自分を見上げてきた。 生気に溢れた目は、何より美しかった。 それこそ、感嘆の溜息が零れそうな程。 けれど突然の変化。 諦めにも似た眼差しに摩り替わる。 間際に一瞬滲み出した気配は何だったのだろう? 人恋しさではなかったのだろうか? そうでしょう? 違いますか? ・・・・・聞けやしなかった。 聞いても応えてはくれないだろう。 何故なら、唇は固く、固く、閉じられ、 尋ねても、容易く応えてはもらえない様に思われたから。 ならば自分には分からない。 一人で死んでゆこうと決めた時点では知らなかった。 そうして今、この時になっても、人を恋しいと思う気持ちがどういうものか、 自分は知らずにいたし、まだ当分分かりそうになかったから。 互いの胸の内の葛藤と、 口に出せない問い掛けに立ち尽くしていた二人を、 現実(いま)へと呼び戻したものは思いも掛けないものだった。 内所の奥に有る台所の方から微かに漂ってきた。 甲太郎にとっては良く知る匂い。 木崎から視線を離し、何枚もの襖や壁に遮られた先の台所の方を見遣る。 他人の腕の中にいるのも忘れ、気になるのか、木崎も其方の様子を伺う。 途端に、木崎の腹の辺りからくぅと聞こえた。 思わず腕に抱いたままの木崎を見下ろす。 自分でも自覚の無い、その上に抑えも効かない身体の自然な欲求の声に、 木崎は見る見る頬を赤く染めた。 その様子に、くすりと甲太郎が笑う。 気配に、自分が笑われたのだと気付いた木崎の頬は益々赤く染まってゆく。 俯く事で己の醜態を甲太郎の視線から隠そうと、木崎は慌てて面を伏せた。 薄く微笑んだまま、甲太郎はそっと木崎の身体を己の胸の内から離した。 「うちの母の味噌汁は旨いですよ」 弾かれた様に、木崎はまだ赤みの残る顔を上げた。 「どんなに見世の仕事が忙しかろうと、内所(うち)に入ってからは、 必ず朝飯は母が自分で作ってくれていました。 特に味噌汁はお奨めです。 其々のお宅で[お袋の味]ってものが有ありますから、 ひょっとするとお気に召さないかもしれませんが、 なかなかいい線いってるんじゃないかと 息子の私は思ってるので、是非どうぞ」 「・・・・・」 無言で見上げてくる木崎に、甲太郎は続けた。 「あ・・・木崎さんは奥様がいらっしゃるのでしたね。 じゃあ、[お袋の味]って言うよりも[奥様の味]ですね。 うちは亡くなった母は体が丈夫ではなかったものですから、 今の義母の味噌汁の味がお袋の味なんですが」 木崎が心の隅に、ツキリと傷みを感じたのは 妻の事を持ち出されたからだろう。 それでもそれを無理矢理押し遣って、何でも無い風を装って、 木崎はやっと返事をした。 「・・・飯、ご馳走になります」 「良かった」 甲太郎は、にこりと笑って見せた。 甲太郎の笑顔に、木崎は目を瞬いた。 物静かだと思い込んでいた眼の前の青年が、随分と饒舌なのに驚いて。 そういえば、甲太郎に対する第一印象は正直良いものではなかった。 寧ろどちらかというと最悪に近いだろう。 なのに、正体も無くなるほど酔わされていた昨夜はともかく、 今朝の青年は、これまでの木崎の甲太郎に対する印象を、悉く覆している。 うろ覚えの記憶の青年は、 歳の若さに不似合いなほどの不敵さで艦に乗艦してきた。 荒くれ者達に囲まれても、表情一つ変える事は無かったように憶えている。 表情を変えないというより、 感情を面に表さないというのが正しいかもしれない。 それがどうした事だろう? たった今、青年は木崎に向かってにこりと笑って見せた。 目を瞬いてしまった。 思い掛けな過ぎて。 そんな木崎の心の内など甲太郎は知らない。 「どうぞ、着替えてください」 そう言うと、さっさと木崎を開放し、部屋の片隅の乱れ箱の方へと軽く押し遣り、 自分はというと畳みに延べられたままだった寝具をテキパキと片し始めた。 「あっ、すまん! 着替えたら、直ぐに俺が片付けるから」 慌てて木崎が言って、手伝おうと伸ばしかけた手はやんわりと断られて、 反対に着替えに専念するよう言って返された。 商売柄、例え内所であっても季節の機微を感じさせる小道具には そこそこ神経を使っている家なのだろう、 木崎の着替えの入れてある筈の乱れ箱は、 夏の屏風、葦屏風の後ろに置かれているのが透けて見えた。 「・・・・・じゃぁ」 それだけ言って、おずおずと木崎は葦屏風の裏に廻った。 散々汚れていた筈の軍服は、滲み一つ残ってはおらず、 寧ろ僅かながら良い状態で乱れ箱の中に畳み置かれてあった。 しげしげと眺めた後、木崎はやっと着替えを始める事にした。 浴衣の帯を解き、浴衣を勢い良く脱いだところで、 再び身体の其処此処が激痛を訴える。 「・・・・・っ!!」 しかし先程一度、その激痛を体感していたおかげで、 今度は充分に心の準備が出来ていた分、 不用意に痛みによろめいたりする事も無く、 上がる声も最低限に抑えることが出来た。 それでも一瞬、身体は痛みに固まった。 立ち尽くす木崎を、敷布を畳んでいた手を止め、 背中から痛まし気に甲太郎が見詰めていた。 軍服の、上着だけをまだ着けずに、木崎は一人、 昨夜寝所として使わせてもらった座敷の隣の小座敷にぽつねんと座っていた。 「直ぐに朝食を持って越させます。 それまで此方で楽にしていてください」 眼の前の庭が、一番良い眺めの場所に座布団を運んできて据えると、 甲太郎はそれだけ言って、一旦木崎の前から姿を消した。 ちーんと音がして振り向けば、床の間の和時計が7時を告げていた。 甲太郎に言われた通り、木崎は胡坐を掻いて座っていた。 慣れない雰囲気と、手持ち無沙汰で、落ち着かない。 そこに足袋の滑る音が近付いてきた。 「おはようございます。 良くおやすみになれましたか?」 年配の、和服に割烹着姿の女性が姿を現す。 廊下に正座をして、一つお辞儀を寄越す。 木崎も慌てて姿勢を正した。 「ご朝食の用意が出来ましたので、此方にお運びするようにと、 甲太郎坊ちゃんから言い付かりましたが」 「あ、すいません」 木崎の様子に、ニコニコと笑う女性は実はお時だったのだが、 昨夜の状態の木崎が憶えていられる筈も無く、 初対面と思い込んだまま、木崎も言葉を返した。 「その前に、木崎様。 廊下の突き当たりに身支度用のお湯やら剃刀やら 一式用意してございますので、 どうぞ、お済ませになっていらしたら如何ですか? さっぱりとなさってから、ゆっくりお召し上がりになられたら?」 ハッとして手を遣れば、髪はぼさぼさで、 顔を擦った手もざらりと気になってきた。 「何から何まで・・・それじゃ、お言葉に甘えついでにお世話になります」 「はいはい、どうぞコチラです」 傍らに用意していたのであろう手拭を両手で差し出したお時から、 それを受け取った木崎は、かなりな居た堪れなさを感じつつ、 先に立って案内するお時に付いて廊下を歩いていった。 「ふぅ」 心地良さに、心底からの溜息を付いた木崎が、 新しく貸して貰った手拭を肩にかけて小座敷に戻ってくると、 そこには既に箱膳に載せられ、朝食が用意されていた。 ふっくらと焼かれた玉子焼き。 香ばしく焼けた旬の鰆の西京漬け。 眼にも鮮やかな青菜のお浸し。 自家製と、一目で分かる香の物の盛り合わせ。 膳の隣には小振りのお櫃が用意されていて、 多分蓋を開ければ真っ白なご飯がたっぷりと入っているのだろう。 これが戦時中の、しかも朝食なのかと目を見張る。 この所の自宅の食卓の有様を思い出す。 妻や、食べ盛りの娘の顔が浮かんだ。 「はぁ」 今度は重い溜息が漏れた。 「どうか、しましたか?」 鍛えられたそれで、足音も立てずに戻ってきた甲太郎は、 彼も軍服に着替えてきたらしく、手には上着と軍帽を携えていた。 軽く後ろに撫で付けられた髪に、 また少し印象が違うなと木崎はぼんやり考えた。 「大尉?」 慌てて手を振った。 「いや、何でもないんだ・・・何でも。 ちょっとびっくりしただけで・・・・・」 「?」 座敷の入り口から、先を捉す眼差しを向けられて、 戸惑いつつ木崎は口を開く。 「こんな朝飯、何時以来かなと思ってな。 なんか、世界が違うっていうか・・・家族に食わせてやれたら、 娘なんか大喜びして飛び跳ねるかもしれないなぁなんて思ってた」 木崎は切なく笑う。 甲太郎も黙って見返した。 くぅと、また聞こえてきた。 さっきよりは幾分見られる程度ではあったが、やはり頬を染めた木崎が、 切ない笑顔のままで言った。 「とか言いながら、腹の虫は正直って事だ。 遠慮なく、食わせてもらうな」 甲太郎は、黙って木崎の傍に正座すると、 傍らに用意されていたお櫃の蓋を開けた。 木崎の予想通り、暖かな湯気の隙間から、 真っ白な白米のご飯が見え隠れする。 「失礼します」 木崎の箱膳に伏せてあった飯碗を取り上げ、 甲太郎が手ずからご飯をよそった。 手渡された飯碗を木崎が受け取ったのを見ていたかの様に、 先程からいい匂いをさせていた味噌汁の入った小鍋を提げた胡蝶が 部屋へと入ってきた。 「お待たせしました。 さ、どうぞ召し上がって下さいませ」 甲太郎の差し出した汁椀を受け取った胡蝶が、 急いで味噌汁を注ぎわける。 小盆に載せられた汁椀を受け取り箱膳に置くと、 木崎は両手を合わせる。 「いただきます」 深々と一礼して、漸く木崎は箸を手にした。 そうして味噌汁に口を付けるべく、 汁椀を持ち上げた所で気付いて声を上げた。 「そうだ!」 「なにか?」 「君は?」 「私が?」 「朝食は?もう食ったのか?」 「いえ、まだ・・・あちらで皆と食べようと思っていたので」 「付き合ってくれないか?」 「は?」 「折角のご馳走なんだが、一人で食っても味気ない。 一緒に食ってもらえたら、倍旨いと思うんだ。 どうだろう?」 そこまで言って、木崎はまたハッと赤くなった。 「いや・・・その、無理にだったらいいんだ。 そうだな、君だって碌に知らない野郎相手に飯食ったって 不味くなるだけだな。 うん、そうだ。 いやすまなかった、許してくれ。 遅刻してはナンだ、俺の事なぞ放っておいてくれて結構だ。 お替りも自分でよそおわせてもらうから。 気にせずに、飯、食ってきてくれ」 勝手に言うだけ言うと、今度こそ木崎は汁椀から味噌汁を啜り、 白米を口に頬張り、おかずに箸を伸ばし始めた。 顔を見合わせた甲太郎と胡蝶親子には眼も呉れず、一心に。 そこにもう一箱、箱膳を抱えたお時が遣って来た。 「坊ちゃん、お待たせしました」 「!?」 「お時!?」 2人の様子に、今度はお時が慌てた。 「あ、あら?私間違えました?? 坊ちゃん、此方でお召し上がりとばっかり 思っていましたもんですから、私」 オロオロと箱膳を抱えたまま立ち尽くすお時に、 立ち上がった甲太郎が近付いていき、ひょいと箱膳を取り上げた。 「いいんだよ。 私もこっちに運んでもらおうかと思ったりしてたんだ。 すまなかったね、助かったよ」 甲太郎の言葉に、お時はホッとした様子で、 小座敷の隅から甲太郎用にと座布団を取ってきてくれた。 上座に木崎が座り、その左前方に その座布団を据えさせた甲太郎が腰を下ろす。 直ぐに胡蝶とお時が飯椀と汁椀を取り上げ、 甲太郎の膳の上にも朝食の用意が整った。 両手を合わせ「いただきます」と呟いた甲太郎が、 その様を箸を止めて見入っていた木崎に笑い掛けた。 「どうです? 母の味噌汁、旨いでしょう?」 「おう、旨い!! 自慢しただけある。 久しぶりに、懐かしい[お袋の味]堪能させてもらう」 「お替り、仰って下さいね」 「ご飯も、たんと用意してございますから」 その朝食で、木崎は久し振りに何度も飯椀と汁椀を交互に差し出した。 〜第23週〜 |
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