水を打たれた敷石が、朝の陽にキラキラと光を弾いている。
眩しくて、流した視線の先を黒い影が掠めてゆく。
余りの速さに、視線が追ってしまう。
追った先には夏燕。
夏燕は気持ち良さ気に空をくるりくるりと、上へ下へ、右へ左へ。
梅雨間近の夏燕を遊ばせている空は、
何処までも青く青く、高く高く・・・・・遠く遠く。
懐かしい海のようで、眩しかった。



「大尉?」
背後からの声に、木崎は振り向いた。
眩しかった。
眼に滲みるほどの白さの海軍士官の夏の軍服を身に付けた甲太郎が
軍帽を被りながら立っていた。
具合を直しつつ、鍔の下から木崎の方を伺う。
木崎の視線と、甲太郎の視線がかち合う。
黄玉の瞳が、チカチカと陽を弾いた気がした。
眩しかった。
「どうかしましたか?」
「いや・・・なんか眩しくってな」
木崎は、そう言ってまた眩しそうに目を眇めた。
「そうですね。
 梅雨が始まるまでの、短い間でしょうね。
 こんないい天気が続くのも」
折角良い具合に直した軍帽の鍔を軽く押し上げ、
甲太郎は空を見上げて言った。
何を思って、甲太郎がそう言ったのか、
自分の言葉の意味を甲太郎が天気の事だと取ってくれたのが、
木崎にとっては有り難い事の様に思えた。
「いや、君の制服姿が眩しかったんだ」
とは、自分で考えても可笑しかったし、言える筈もなかったので。
代わりに、甲太郎の言葉に乗ってこう言った。
「梅雨が明けた後の空なんて、眩しいを通り過ぎて、
 見上げた途端、陽の光が眼に刺さって痛いくらいで、
 眩みそうになるほどだものな」
再び見上げた空は、やはり何処までも青く青く、高く高く・・・・・遠く遠く。
懐かしい海のようで、眩しかった。



視線を甲太郎の方へ戻した木崎が、徐に深々と一礼した。
「本当に、昨夜から世話になりっ放しで・・・迷惑を掛けた」
「大尉・・・」
「我ながら、情けないと思っているんだが・・・」
今度は甲太郎から眼を逸らして呟くように零した。
何かしら掛けられる言葉がないものかと、身の内を探してみたが、
どれもがお座成りだったり、口先だけのものにすぎなかったりで、
甲太郎も返す言葉が見付けられず、黙っているしか出来なかった。
僅かな沈黙の後、木崎が声の調子を上げて言った。
「じゃぁ、俺はこれで」
弾かれた様に、甲太郎が木崎を見ていた眼を見開いた。
「軍部に顔出す前に、俺も軍服を夏服に
 着替えてから行かなきゃならないから。
 このまんまで行こうもんなら、
 また煩く言われるに決まってる。
 昨日の今日じゃ、流石に敵わんからな」
苦笑する木崎の言っている事が、満更有り得ない事でもないと、
甲太郎にも言った木崎本人にも分かって、
また重苦しい雰囲気が二人を包んだ。
そうだった。
まだ、何も解決した訳ではなかったのだと、
今更ながらに問題を再認識した二人だった。



その場に立ち尽くしていた二人の眼の前で、
[翠山]と染め抜かれた大暖簾がひらりと揺れて胡蝶が顔を出した。
「ああ、木崎さま。
 良かった、まだお出ででいらしたんですね」
ホッとした様に笑いながら、
手にしていた風呂敷包みを木崎に差し出した。
「あの、これ失礼なんですけれど」
戸惑いがちの木崎は、差し出された風呂敷包みを受け取りもせず、
胡蝶と包みを交互に見詰めた。
「こんな差し出がましい事をして、ご気分を害されるのではないかと
 思いもしたのですけれど、お聞きしましたらお嬢様がおいでとか?
 ウチの商売が商売でございますから、
 奥様もお気に召さないかと存じます。
 ですが、もし・・・・・もしよろしければ、
 お持ちいただけませんでしょうか?
 食べ盛りの、何より甘いものがお好きなお年頃のお嬢様には、
 きっと喜んでいただける物が入っておりますから」
「え?な、何を?」
「今朝召し上がっていただいた朝食と
 同じものをお重に詰めております。
 それから、お客様方のお茶菓子にと思って
 蒸し上げておりましたお饅頭を少し。
 お嬢様、甘いものはお好きでいらっしゃいましょう?
 ウチの板場の者達も、是非にと申しておりました」
「・・・・・」
木崎は応えず、黙って風呂敷包みを見詰める。
それを、木崎が立腹しての事だと受け取った胡蝶は、
微かに顔色を蒼褪めさせながら、慌てて詫びの言葉を口にした。
「申し訳ございません。
 本当に、出すぎた事でございました」
「あ、いや・・・そんな・・・・・」
慌てた様子の木崎が、助けを求める様に甲太郎を見遣る。
決して腹を立てている訳ではないのだと、
うろたえた表情が伝えてくる。
胡蝶の心づくしが不快だった木崎ではなかった。
むしろ、自分が朝食の時に言った
不用意な言葉を覚えていてもらった事が有難く、
感謝の気持ちで一杯ではあったのだ。
けれど、余りに思い掛けない事であったので、
どう返せばいいのか分からず、それで無言でいただけだったのだ。
事訳と礼を言うタイミングを逸した木崎を察した甲太郎が助け舟を出す。
「母さん、大尉は昨日の怪我で腕が痛いそうだから、
 重いものは持ち辛くていらっしゃるんだ。
 だから、私が預かって持って行くよ」
胡蝶が両手で持っていた風呂敷包みを、
甲太郎が片手で軽々と取り上げた。
チラリと胡蝶が木崎を伺う。
本当は、自分でも楽に持てそうな荷物ではあったのだが、
甲太郎の機転を利かせた芝居に木崎も付き合う事にした。
今度こそ、礼を言わねばと木崎は急いで頭を下げた。
「お気遣い、ありがとうございます」
胡蝶の顔にも笑顔が戻る。
「いいえ、いいえ。
 お嬢様や奥様に喜んでいただければ、私も嬉しゅうございます」
「ええ、きっと大喜びするでしょう。
 二人とも、饅頭なんてここ暫く食べてないでしょうから。
 大好物なんですよ、甘いものが。
 きっと、きっと喜びます。
 本当に、ありがとうございます」
もう一度頭を下げた木崎が顔を上げた時、傍らに立つ甲太郎には
木崎の目尻が濡れている様に見受けられた。
「じゃぁ母さん、私達行くから」
甲太郎の隣では、木崎が手にしていた略帽を被る。
「気を付けて。
 今夜は甲太郎さん、お帰りなの?」
「暫くは、毎日帰ってこれますよ」
「そう、分かったわ。
 行ってらっしゃい。
 木崎さま、是非またどうぞお寄り下さいませ。
 お待ちしておりますから」
「いや、私の様な者には敷居が高くて。
 二度目はどうでしょう。
 恥ずかしながら、先立つものも・・・・・」
木崎は正直に言って笑った。
「あら、まぁ・・・」
「大尉」
甲太郎が木崎に声を掛ける。
「母が言っているのは見世の話ではなくて、
 内所の方に寄ってくれと言っているんですよ。
 そうですよね、母さん」
「はい」
胡蝶が大きく頷いた。
「そ、それは・・・」
「普段、私も任務で長い事留守にするので、
 母には随分寂しい思いもさせているんです。
 それに、母は私には家に訪ねてくれる知り合いの一人も居ないと
 思われているようでしてね。
 中尉の私が大尉を知り合い扱いするのは、
 不敬に当たると充分に承知しているのですが、
 是非、またぶらりと知り合いの家へ寄られるつもりで
 いらして下さると、母も喜ぶんですが」
随分と気を回した言い方だったが、その意を木崎は汲むことにした。
「じゃぁ、またそのうちに」
「はい、お待ちしております」
固辞する木崎を通りまで見送りに出てきた胡蝶に、
木崎は律儀にその姿が見えなくなるまで何度も何度も
立ち止まっては深々とお辞儀をした。
甲太郎はといえば、最後に一度だけ母に向かって手を振ってみせた。



木崎の自宅への道すがら、
二人は何を話すでもなくその歩を進めていた。
そうしてどれ程歩いた頃だろうか、木崎が言った。
「なんだかもう、何から何まで世話になりっ放しだな」
黙って甲太郎は傍らを歩く、自分より小柄な木崎を見下ろした。
はぁと木崎が溜息を付く。
「情けない」
きゅっと唇を噛み締める。
「ドンガメ乗りは、陸(おか)の上では皆、こんなものでしょう」
本当は、あの人の傍で働けないから辛いのでしょうと言いたかった。
それを誤魔化す口調で続ける。
「海に、艦に戻れれば、きっと大丈夫ですよ」
「いや・・・それはどうだろう。
 第一、このまま日干しかもしれんのだから」
もしも戻れたとしても、それがあの人の傍らの定位置だとは限らない。
それならいっそ、陸の上で日干しになった方がましかもしれない。
どうしてもネガティブな思考へと傾いてゆく。
「きっと、もう暫くの辛抱ですよ」
見上げた甲太郎は、妙に確信の篭った顔で木崎を見返した。
「な・・・にを・・・・・?」
知っている?
問い掛けてくる眼差しに、笑い返す。
けれど次の言葉の前には、その顔から笑顔は消え去った。
「母といい、私といい、つくづく似たもの親子で
 お節介だと分かってるんですが・・・・・」
無表情とさえ言える整った面立ちに、木崎はゾクリと背筋が震えた。
「聡い貴方の事です、お気付きかとは思いますが、
 この戦い、近々軍民挙げての総力戦になります。
 恐らく、本土決戦さえ避けられぬでしょう。
 今日明日ではないものの、やがては・・・・・」
いつの間にかカラカラに乾いた喉が、ゴクリと嫌な風に鳴った。
「一年先か、二年先か今の段階では、まだ定かではないのですが、
 避けられぬ事だとだけは言えます。
 ですからきっと、また貴方は潜水艦に戻れます。
 避けられぬその日を、一時でも先延ばしにする為に」
結末の分かっている戦いに、それでも出て行けという事は、
つまりは時間稼ぎの為に、無駄死にしろという事だった。
生まれて一年足らずの娘と、その子を抱いて笑う妻の顔が浮かんだ。
そして、あの人の顔が。
見透かしたように、甲太郎が言葉を続けた。
「あれほどの技量の佐官を放っておく筈がありません。
 絹見少佐は、きっと還ってきます。
 貴方は、待っていらっしゃればいいんです。
 少佐に呼び戻されるであろうその日まで、
 航海長としての技量を、勘働きを、
 間違っても以前より衰えさせる事なく、
 より正確で、素早く、的確に遂行出来るよう、
 日々鍛錬を怠らず、気力、体力を整え待っていらっしゃればいい」
そこまで言って、それまでの無表情じみた甲太郎の面に
ふっと笑顔が浮かんだ。
「まぁ、今の赴任先では容易い事ではないでしょうが、
 あの稀代の艦長の片腕というポジションに戻りたいと、
 心底思っていらっしゃるのならば
 出来ない事ではないと思うのですが」
「高宮・・・お前は・・・・・お前は俺が、俺が少佐を・・・・・」
その先を遮るように、甲太郎の視線が逸らされ、
取り出した懐中時計の文字盤へと注がれた。
「ああ・・・すみません。
 お宅まで荷物をお持ちするお約束でしたが、
 私も大切な軍務を思い出しましたので此処でお別れします。
 それから、よもや今の話を口外なさらないと、
 信じていてもよろしいですね?」
木崎はこくこくと首を縦に振った。
「結構です」
パチンと音を立てて閉められた懐中時計をさっさと仕舞うと、
甲太郎は手にしていた風呂敷包みを木崎へと手渡した。
「では、失礼します」
手渡された荷物を受け取ったまま呆然と立ち尽くす木崎に、
優雅な敬礼と優し気な笑みを残し、高宮甲太郎は去っていった。
一人路上に取り残された木崎は、
その後ろ姿を暫くは身動きどころか、瞬き一つせず見送った。



暫しの後、我に返った木崎は
別れ際の甲太郎の優しい笑みの片隅に、
何処か憂いが見え隠れしている様に思えて、
それが酷く気になった。


                                   〜第24週〜