我ながら、小さい男だと思う。 木崎が言わんとした言葉を、絶対的な確信が有ったればこそ甲太郎は遮った。 その先の言葉が、分かっているからこそ聞きたくなくて遮ってしまった。 「高宮・・・お前は・・・・・お前は俺が、俺が少佐を・・・・・」 きっと遮らなければ、続く言葉は。 「あの人の還りを待っていなさい」と言った自分は 何だったのだと、失笑が漏れる。 幾ら分かっているとは言っても、本人の口から聞くのは耐えられないとは。 自分の卑小さに、嫌気が差す。 思考を途切らせようと、甲太郎は一旦足を止めた。 司令部へと向かう道の途中、突然足を止めた長身の青年士官を、 軍需工場へと動員されているのであろう出勤途中の女学生の一群や、 学童疎開間近の近隣の児童生徒ら、白い割烹着にもんぺ姿の婦人達、 [憲兵]と書かれた腕章を付けた二人組みの兵士、 雑嚢と水筒を両肩から交差させて足にゲートルを巻いた初老の男性、 そうして甲太郎と同じ海軍の兵士達が擦れ違い、追い越していった。 或る者は訝しげに青年を眺め遣り、 或る者は憧れに似た眼差しを送って寄越し、 繰り返し振り返る者さえ居たが、 青年はそのどれさえも気付いた風もなく、 ただじっとその場に立ち尽くしていた。 「軍人さん、どうしたの?」 声と同時に、甲太郎は自分の軍服の太腿の辺りに触れるものを感じ、 ビクリと身体を震わせた。 自分ではそれほど思考に浸っていたつもりはなかったが、 実際はかなりの時間考え込んでいたらしい。 普段鍛錬を積んでいた筈の甲太郎が まるで気配に気付かなかったのだから。 見遣ると、利発そうな男の子が甲太郎の軍袴を引っ張っていた。 「具合、悪いの?」 隣に居た、学友と思しき集団からもう一人の男の子も聞いてくる。 その直後、周りの少年達が一斉に我勝ちに声を上げだした。 「ねぇ、ねぇ」 「ねぇ、軍人さん」 この時代、軍人は少年達の憧れの的だった。 特にここ横須賀では、海軍軍人はその最たるもので、 青年士官の制服は、少年達の幼い心を惹き付けてやまなかった。 けれどそれには畏怖の念も大きく、 おいそれとは気軽に話し掛ける事も出来ないし、中には恐ろしい見てくれに、 憧れの視線を送るのさえ憚られる者も多くなかったのだ。 その憧れの海軍士官に、誰か一人が勇気を振り絞って声を掛けたらしい。 声を掛けられた軍人の方も、 頭ごなしに問答無用で怒る様なタイプには見えないと言う事で、 一緒にいた少年達が、我も我もと一斉に話をしたがって この騒ぎになったらしい。 自分の子供の頃を思い出し、甲太郎も煩さより懐かしさを感じていた。 先程までの思考を、暫くは脇に置いておけそうだ。 そう思って、甲太郎は少年達の相手を始める。 「ちょっと考え事があっただけだから、大丈夫」 軍人とはいえ、その歳若い青年士官が見たままに優しく、 咎めぬ口調で応えたので、これで今度こそ本格的に安堵した少年達は、 尚更に頬を紅潮させ話し掛けてくる。 「危ないよ、道で考え事しちゃ」 「ね〜?そうだよね」 「伸ちゃんなんか、この間先生に、それで怒られたもんね」 「なんだよ〜!!今、そんな事言うなよ〜!!」 「あはは、泣き虫伸ちゃんだ〜」 「ねぇ、軍人さん。 伸ちゃんみたいに直ぐ泣く奴は、軍人さんみたくなれないよね?」 「ね?」 「ねぇ〜?」 一斉に周りが囃すので、遂にはうわーんと声を上げて、 伸ちゃんと呼ばれる男の子が盛大に泣き出した。 苦笑しつつ、甲太郎はその子の頭に大きな手を置いた。 「軍人に、なりたいのかい?」 エグエグとしゃくり上げながらも、大きく頷いてみせる。 「大丈夫、なれるよ。軍人に・・・・・」 「ほ、ホントに?」 甲太郎は、黙って頷いた。 そこに微かな時を知らせる鐘の音が、何処からともなく響いてきた。 「あ、まずい!!遅刻する!!」 唐突な一人のその声を合図に、 少年達は皆で甲太郎に敬礼のポーズをして寄越し、 それに同じ様に敬礼を返した甲太郎の姿に、 益々頬を紅潮させ、囁き交わし合い、学校の方向へと駆け出していった。 その背を見送りながら、甲太郎は心中で呟いた。 「軍人に・・・・・成れるとも。 誰もが否応もなく、軍人に成らざるおえない世の中が 眼の前に迫っているのだから。 だから、君達も・・・・・近い将来、軍服にその身を包み、 或る者は名も知らぬ異国の果てで、或る者は海の底深くで、 或る者は幸運にも祖国の地であるかもしれないが、 ほぼ等しく、その尊い命を散らさねばならないのだ。 例えその時に、何故自分は軍人になりたいなどと 思ったのだろうと後悔しても、何もかもが、既に遅いのだよ子供達。 君達の未来は、決まったようなものなのだ・・・・・ 何処までも暗い未来が、君達を待っている。 今はただ、今だけは、眼の前の儚く脆い[日常]を精一杯享受したまえ」 少年達は、眩い初夏の光の中を見る間に遠ざかっていった。 気晴らしになるかと構った筈の少年達だったが、 結局、甲太郎の思考が憂いを含む内容から逃げる事は叶わなかった。 どうしても行き着くのは戦時中という、今の世の中の有り様で、 自分の身の終え方にしても、先程の少年達の行く末にしても、 何よりこの所、甲太郎の思考の大半を占めている木崎と言う男の存在と、 今だ不明瞭な自分の彼に対する想いの置き場所など、 憂うべき事柄ばかりが、次から次へと甲太郎の思考を埋めていくのだった。 一方、木崎も暫しの間甲太郎の背を見送った後、 漸く自宅への道を再び辿り始めた。 不自然なほど唐突に遮られた言葉と、それ以上の接触を拒む様な態度。 思い返す度に、昨夜からの一連の出来事と 高宮という青年の仕草や言葉が木崎を捉えるので困惑してしまう。 そんな中、ただ一つ間違いないと確信したのは 「彼は俺の気持ちを知っているに違いない」という事で、 別れる間際の甲太郎の言葉や態度が 知っていればこそと思えば納得も容易にいった。 不思議と、今の木崎に知られた事に対する動揺は無かった。 動揺したのは、先程の一瞬だけで・・・・・。 何故なのだろうと思い掛けたところで自宅に到着した。 頑丈なだけが取り柄の、小さな小さな家だった。 玄関を開ければ、眼の前には粗末な衝立が有って、 その向こうは直ぐに家族の居間が広がっているという、 昨夜から滞在していた[翠山]とは何もかもが酷く掛け離れていて、 自分は夢でも見ていたんではないかと思わずにはいられない程だったが、 これが現実だった。 海軍大尉とはいっても、そもそも養い親の伯父達の所から 独り立ちする為に軍人になったのだ。 代々軍人の家系だったとか、元々はやむごとない身分の家柄だったとか、 華々しい商家の跡継ぎ息子だったと言うわけでもない。 妻にも既に両親は亡く、孤児同士の結婚で、 そんな自分達の身に適った新居として見つけた家。 平屋で、部屋も納戸を入れても3部屋の小さな家だった。 猫の額ほどの庭が付いているには付いていたが、 越した当初から物干し場以外に使われた記憶が無かったが、 最近の御時世に、食糧難の足しにでもならないかと物干しの足元には、 手製の小さな家庭菜園が慎ましく今は拓かれている。 玄関脇から見えるそれも、思い出を呼び戻す。 今朝見た花の美しさ。 忘れていた涙さえ零れたほどの美しさだった。 眼の前の庭には春に植えた南瓜や芋の蔓が繁るばかりだ。 ・・・・・羨ましいとか、惨めだとかいう訳ではなかった。 何と住む世界が違うのかと思うばかりで。 ただただ思うばかりで・・・・・。 磨り硝子の引き戸を勢い良く開けた時にやっと、 木崎の脳裏から、[翠山]で彼是や 甲太郎の憂えた笑顔も遠退いて消え去った。 「ただいま!」 木崎の声音に、敏感に変化を感じ取ったのは やはり家族故だったのだろうか? 軍人である夫が、父が、突然帰って来ないという事は、 場合によっては避けられない事で、 その日の覚悟もしているつもりの妻と娘だった。 けれども今、木崎は陸上勤務で、二度と再び帰って来ないという事は、 まず考えにくい事ではあった。 だから家で待っていた二人も然程の心配はせずに夫であり、 父親である木崎の帰宅を待っていたのであった。 そうは言いつつ、特に妻は、折角陸上勤務となって 自宅からの勤務が可能となっても、 何処かしら塞ぎこんだ風の木崎を見るに付け、 陸上勤務になった理由も詳しくは話したがらない木崎と、 その勤務先での新しい上司や同僚達の間の何かしらの軋轢と不遇を 面と向かって尋ねたりはしないものの、薄々とは感じ取って心配していた。 それが何なのか分からなくても、娘の萬波も幼い子供心に同じ様に 父親の事を気に掛けていたのだ。 その木崎が、久々に明るい声で帰宅を告げた。 まず、衝立の陰から萬波が転がり出てきた。 「おとうちゃま!!」 そうして、勢い良く飛びついてきた。 昨夜の暴行の後の打ち身に響いたが、何とか耐え、 手にしていた大事な[翠山]の女将の胡蝶の 心づくしを落とさぬよう気を付けながら、 愛娘の自分に似て歳のわりに幾分小柄な身体を受け止めた。 次いで妻が衝立を除けて出てきた。 「あなた、おかえりなさい」 安堵の滲み出た笑顔に、自分がどれ程の心配を掛けていたのかと、 今更ながらに気付かされた木崎だった。 心中で「すまなかった」と何度も呟きつつ、 木崎は手にしていた包みを妻へと手渡した。 一家の主の無断外泊を心配していた家族に、思い掛けない土産だった。 包みを母親が受け取った時から、 娘はその小さな可愛らしい鼻を盛んにひくつかせていた。 「何だか良い匂いがする」 「あなた、これ・・・」 「昨日、上官の横田少佐にアチコチ連れまわされてな、 みっともなく酔いつぶれてしまって。 たまたま最後に飲んでた料亭が知り合いの中尉の実家でな、 一晩世話になった上に、土産だって言って持たしてくれたんだ」 木崎は、ほぼ有りの儘を妻に話した。 [翠山]の名を出したとしても、悋気を出すような妻ではないと知っていたので、 正直にその名も告げた。 「そうですか」 「おかぁちゃま、開けて」 木崎と妻の間で、小さな萬波がぴょんぴょんと飛び跳ねながら強請る。 「見せて」と。 靴を脱ぐだけの広さしかない玄関で靴を脱ぎ、木崎も家に上がった。 三人で卓袱台に座り、風呂敷を解く。 身を乗り出して見詰めていた萬波の眼が、大きく見開かれた。 子供の萬波は勿論、両親達でさえ見た事も無いほど豪奢な 一面に蒔絵が施された重箱が出てきた。 妻がそっと蓋を開けてみると、今度は声が上がる。 「うわ〜♪」 木崎は既に、今朝馳走になった朝食の彼是が ぎっちりと隙間無く詰められていて、 その下の重には俵型に結ばれた御握りが。 そうして最後の三の重には胡蝶の言っていた小振りの真っ白な上用饅頭や 赤い小豆の鹿の子がふっくらツヤツヤと様子良く並んでいた。 再び歓声が上がった。 「お饅頭!お饅頭よ、おかぁちゃま!!」 パチパチと手を叩いてはしゃぐ娘の顔に、高宮親子の顔が重なった。 「俺はもう充分食べてきたから、後はもうお前達で食べたらいい」 「じゃぁね、おとうちゃま。 お隣の由紀ちゃんちにも、持っていってあげていい?」 「いいぞ、好きなだけ持ってっておあげ」 「はい!」 元気に返事をした娘は、隣に住む同い年の幼馴染にどれを持っていこうかと 卓袱台に頬杖を付いて一生懸命悩みだした。 そんな娘の様子を横目で見ながら、 木崎は妻に夏服の用意が出来ているかと尋ねてみた。 すると流石に軍人の妻だけあって、 用意してありますよとの返事が返ってきた。 「すまなかったな。 俺なんか、すっかり忘れてしまっていてな。 今朝、件の中尉が朝食の時に着てきたのを見て、初めて気付いた。 いや本当に慌てた、慌てた」 「まぁ、そうだったんですか?」 可笑しそうに笑う妻を見ていたら、それが酷く久し振りの事の様に思え、 それだけ自分が家族の事を、最近疎かに考えていたのかと 改めて自身に腹が立って仕方なかった。 「早速でスマン。 言ったように、朝食はもう済ませてるんで、 このまま着替えて直ぐに司令部に出掛けようと思ってるんだが」 「はい、よろしいですけど。 萬波、お父様のお出掛けの準備のお手伝いしてきますからね。 つまみ食いなんてしちゃぁ駄目よ、分かった?」 「はい!」 相変わらず、ああでもないこうでもないと 一心不乱に重箱を眺めて悩んでいる娘は、 眼も離さずに返事だけを寄越してきた。 夫婦で顔を見合わせ苦笑し、着替えの為に木崎と妻は襖一つ隔てただけの 続き部屋へと姿を消した。 用意されていた夏の白い軍衣に袖を通し、妻と娘に見送られ、 今度こそ木崎は勤務先へと家を後にした。 途中、見たばかりの妻や娘の笑顔を思い出し、 その笑顔のきっかけをくれた高宮親子を思い出した。 娘への土産を託してくれた胡蝶の笑顔に、 何処かしらに子供を思う親の顔を覗き見た気がしていたし、 勤務先への道すがらの残りの大部分で、 木崎の心に浮かんで消える事のなかったのは、 別れ際の甲太郎の憂いの見え隠れしていた笑顔だった。 〜第25週〜 |
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