明治の終わりに建てられたという建物の1階、北棟の中程に、
木崎の勤務先の部屋は在った。
正門を入り、正面玄関の入口まで来た木崎はその場に立ち止まり、
建物の全景を見上げると大きく溜息を付いた。
[翠山]を出る時に甲太郎と交わした会話が今更ながらに思い出されて、
木崎の足を押し止めていた。
昨日の今日でという事が気になっていないというのは嘘になる。
けれども、決してあの横田達の理不尽な行状が
恐ろしかった訳ではなかった。
勿論、高宮親子が助けに入ってくれなければどうなっていたか、
考えただけで寒気がしなくはないが、それは恐ろしいと言うよりも、
生理的な、唾棄すべき事程度にしか木崎には思えていなかった。
だから今、木崎の足が進まないのは、また同じ様な、
或いは今まで以上の一日が始まるのかと、
其方の想像がほぼ間違いなく、
当っているのだろうなとの確信が有るからだった。
それでも、此処が今の木崎にとっての職場なのだ。
国のため、家族の為、陸上勤務であろうとも軍務は軍務、
行かなければならなかった。
最後に、更に上を見上げれば何処までも青い空が、
相変わらず木崎を呑み込みそうな大きさで晴れ渡っていた。



それより少し前。
甲太郎は、出勤直後の上司を捉まえていた。
「朝倉大佐!!」
普段ならば、尉官の甲太郎が佐官の朝倉を呼び止めるなど
そうそう許される行為ではなかったが、
それを承知で甲太郎は朝倉を捉まえた。
立ち止まった朝倉の一歩後ろには、土屋少尉が影の様に従っていた。
いつもの如く、寡黙に一言の言葉も発する事無く、、
ただ朝倉を守る仕草でズイと甲太郎の方に身を乗り出してくる。
少し三白眼気味に見上げてくる視線は、
余程胆の据わっている者でなければ身が竦みそうな、
殺気でも込められていそうな冷たさが滲み出ていた。
これも、考え様によっては土屋より上位である甲太郎に対して、
かなり無礼な事に思えたが、そんな事を気にする甲太郎ではなかった。
第一、これが朝倉大佐付きの将校としての土屋少尉の任務なのだろうし、
甲太郎には土屋のその男とは謂え、軍部内でも噂になる程の美貌と、
不釣合いな冷徹な心を映す斬る様な眼差しでさえ、
何という事もなく思えていた。
殊に今は一刻も早く、どうしても朝倉の力を借りれないものかと思うばかりで、
それだけを考えている甲太郎には、
尚の事土屋の好戦的な態度などどうでもよく、
あっさりと無視してもう一度朝倉の名を呼んだ。
「朝倉大佐!!」
立ち止まったままだった朝倉が、ようやっと振り向いてくれた。
「朝から、元気だな・・・どうした、高宮?」
片手の杖に重心を預け、朝倉が片頬だけで笑って聞いてくる。
「お呼び止めして、申し訳ありません」
甲太郎は、まず最敬礼で謝罪した。
「んん・・・確かに、かなり大胆な事だな」
今朝は機嫌がいいのか?
朝倉は笑い続けながら甲太郎の挨拶に、軽く嫌味を返してきた。
「はっ!!
 お叱りは後程、甘んじてお受けいたします。
 ですが・・・今は、重ね重ねの失礼とは知りつつ、
 どうしても大佐にお時間を頂きたく、お待ちしておりました」
「私に?」
「はっ!」
「時間を?」
「はっ!」
「私は、そんなに暇そうにみえるか?」
「いえ、決してその様な事は!!」
「ほう・・・それでも私に、君如きが時間を?くれと?」
「お願い致します!!」
返事の度に、甲太郎は何度も敬礼の姿勢を正し直した。
そんな甲太郎を、先程から睨み続けていた土屋少尉が、
再度身を乗り出す事で、更に牽制を掛けてこようとしたが、
それより早く、朝倉の杖が土屋を遮り、
「土屋、引いていなさい」と窘められた。
渋々といった態で土屋が元の位置まで引いた。
しかし、視線は甲太郎を捕らえたままだ。
嫌味を言いながらも、結構甲太郎の事を買っている朝倉は、
甲太郎の只ならぬ様子に時間を作ってくれる気になったらしい。
「お前程の男が、そこまで切羽詰るとは・・・
 余程の事か・・・・・。
 よろしい、執務室でいいか?
 人払い、した方がいいのだろう?」
「出来ましたら」
時間を取ってもらえるだけでも、朝倉の多忙さを知っている甲太郎には
それだけでも十分にありがたい事で、朝倉の考え次第で人払い云々を
言うつもりはなかった。
けれども出来ればと考えていた甲太郎の心中を察したのか、
朝倉は自身の執務室へと来た廊下を戻り始めた。
すかさず土屋少尉も後に従う。
「ありがとうございます」
振り返りもしないで廊下を行く朝倉に、
甲太郎はもう一度深々と感謝のお辞儀をし、
それから自分も前を行く二人に続いた。



「は?」
随分と間の抜けた、凡そ軍人とは思えぬ声が木崎の口から零れた。
部署に着くなり、部屋の全てが見渡せる場所に設けられた、
其処に座っているだけで、然程でなくてもそれなりに偉そうに見えるという
この部屋の責任者の席の前へと呼び付けられた。
部屋中の視線が、針となって、余す所無く木崎の全身を突き刺す。
「木崎大尉」
眼の前の横田少佐が、ジロリと針に毒まで塗ったが如き視線を寄越してくる。
その視線に対する恐れは無くとも視線を合わせる事も今は我慢がならず、
木崎は横田の背後に掛けられた日章旗を見詰めて返事をした。
「はっ!!」
「貴様、早速どんな手管を使って高宮の親子を誑し込んだ?」
横から、取り巻きの副官中川が口を挟む。
一瞬、木崎には意味が分からず怪訝そうな表情で其方を見遣る。
パサと、中川に気を取られていた木崎に向かって白い紙が投げ寄越された。
急な事で、咄嗟に受け止め損ねた其れは木崎の足元へ、
机から滑り落ちて、ヒラリと翻って落ちてきた。
慌てて拾い上げた木崎が内容を見る前に、横田が吐き捨てる様に言った。
「移動命令だ」
「急に、上から言ってきた」
中川が続ける。
その直後、手にした書類に目を通す間も無く、[移動命令]という言葉に対して、
木崎は冒頭の「は?」という間抜けた声だけを残し横田達の居る部屋から
追い立てられる様に荷造りさせられ、蹴り出される様に退去させられた。
廊下に出た木崎は、木箱一つを抱えた格好で途方にくれたが、
木箱の一番上に載せたままだった移動の指令書に気付き、
自分のこれから行く行き先をこの時、漸く確認出来たのだった。
「海軍軍令部・第三部・・・って事は情報部か?」



軍令部の中央階段を昇っていた甲太郎を、
呼び止める声が上方から降ってきた。
「よう、[朝倉のお気に入り]」
はっとして顔を上げれば、踊り場に二人の人影が認められた。
階上の二人の背後には光採りの為の大きな窓が有って、
差し込む昼近い、眩いほどの陽の光のせいで
階下から見上げる甲太郎にはその程度の認識しか出来ない。
眩しさに、思わず光を遮ろうと手を翳した所で、
先方の方がさっさと階段を降りてきた。
最初は真っ黒だった人形(ひとがた)をした影が近付いて来るにしたがって、
徐々に人格をもった一人の人としての形を成してきた。
相手が誰なのかを認識した甲太郎は、敬礼で降りてきた二人を迎えた。
そんな甲太郎に、敬礼を返しながら一人が言った。
「お前さん、よっぽど朝倉に気に入られてるんだな」
相手が手を下ろしたのを見て、甲太郎も黙って手を下ろした。
「朝から俺の所にわざわざお出ましになった上に、
 『無理を承知で頼みたい』とご丁寧に頭まで下げてったぜ」
「では、大尉は・・・・・」
「おう、ウチで預かる事になった」
「ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
「いや、いいって事よ。
 こっちこそ、朝倉に貸しが出来てよかった位だ。
 あいつとは士官学校からの同窓生なんだが、
 いつも、何でも先を越されて・・・
 正直、そろそろ何とかしたかったところだ。
 調度良かったってことだな。
 もし、木崎と連絡が取りたかったらウチの部署に来るか、
 或いはコイツに言ってくれ」
それまで二人の会話を傍らに控えて聞いていたもう一人が、
上官の大湊中佐に顎で促され、ここで初めて口を開いた。
「初めまして・・・というか、お噂はかねがね伺っております。
 自分は第三部諜報主任大湊中佐付き、中村中尉です。
 お役に立てるよう、精一杯努めますので、
 気がかりな事など生じられた際には、どうぞご遠慮なさらず、
 いつでもご連絡下さい。
 お待ちしております」
甲太郎と同じ中尉だという中村の握手を求めてきた手を、
躊躇する事無く甲太郎は握り返した。
至極誠実そうな、人好きのする笑顔に、
甲太郎も思わず笑顔で応えていた。
「第一部第一課の朝倉大佐の下で働いております、高宮です。
 こちらこそ無理をお願いして、申し訳ない事ですが、
 遠慮なく、頼らせていただきます」
歳も近そうな二人の会話を隣で聞いていた大湊だったが、
徐に懐中時計を取り出して時間を確認して言った。
「それじゃ、俺らはこれから(外に)出なきゃならんので失礼する」
「お時間の無いところを、わざわざお声を掛けていただき、
 ありがとうございました」
「ああ、いいって事よ」
「では、高宮さん」
ひらひらと遠ざかりながら後ろ姿で手を振る大湊と、
その後ろでペコリと甲太郎に中村が頭を下げて寄越してきた。
「あの!!」
「ん?」
階段を降りて行ってしまいかけた大湊を、
甲太郎は朝と全く同じ状況だという事も忘れて呼び止めた。
振り向いた二人を見て直ぐに思い出したが、
今度も今更遅いと覚悟を決めて話し出す。
「恐れ入りますが、中佐。
 大尉は・・・木崎大尉はどの様な仕事を・・・・・」
「・・・ああ」
ふっと大湊が笑う。
「我が情報部が諜報活動をしているとは言いましても、
 専門的な訓練も受けていない、素人同然の木崎大尉に
 重要な仕事はや危険な仕事は任せられません。
 いや、大尉があぶないからと言う訳ではないのです。
 失敗すれば、我々だけでない、国や国民にさえ
 大なり小なりの影響が出ないとも限りませんから。
 ですから、デスクワーク専門でやっていただきます。
 かなり退屈な事になるだろうとは思いますが・・・」
最後の一言を、苦笑いしながら大湊の代わりに中村が言った。
「何から何まで・・・ご配慮、ありがとうございます」
深々と頭を垂れた甲太郎の視界を、今度こそ大湊と中村は通り過ぎて
残りの階段を降りて消え去った。
大湊の後ろ姿を見送った、甲太郎はこの人の元でならばと安心し、
自分も残りの階段を、キビキビとした足取りで昇っていった。



今度の移動先では、上手くやっていけそうな気がする。
いや、何としてもやっていかなければならない。
自分には、その時を信じてやっておかなければならない事が出来たのだから。
木崎は、人の殆どで払った情報部で与えられた仕事をこなしながら思った。
移動初日という事で、大量に溜まったままの書類の整理やらから
まずは慣れていくようにと言いつけられていた。
情報部だけあって、眼の前に詰まれた書類だけでも半端な量ではない。
これだけでも数日は掛かりそうな状況だった。
黙々と目と手を動かして書類の山を片づけていたが、
ふいに今回の移動の件が頭を過ぎった。
今度の移動も[昨日の今日]の出来事。
「貴様、早速どんな手管を使って高宮の親子を誑し込んだ?」
横田の言葉が蘇る。
最初は訝しく思えるばかりだったが、あの親子の事を言われて納得がいった。
つまりはそういう事なのだと。
多分・・・・・いや、間違いなく、あの高宮親子が手を廻した結果なのだ。
今、自分がこうして居られるのは。
別れ際の高宮が言っていた[日々鍛錬を怠らず、気力、体力を整える]には
仕事の量、環境、上司や同僚との関係、
どれをとってもここは今の自分にとって最適の職場だろうと思える。
しかし、そこまで考えた所で、木崎は自分の考えに引っ掛かるものを感じた。
これは・・・高宮親子が整えてくれた話ではなく、
高宮甲太郎個人が考え、整えてくれた事なのではないのか?
木崎の考えは、結局そこに思い至った。



会おう。
高宮甲太郎に会って、確かめよう。
木崎は心の内でそれだけを思い定めると、滞らせていた仕事を再開し、
後は黙々と眼の前の書類の山を片付ける事に専念した。

                                      〜第26週〜