初夏の日暮れが遅いとはいえ、腕の時計で時刻を確認した木崎は、
小さな溜息を付くしかなかった。



移動初日。
只でさえ出遅れた始業開始時間と、陸上勤務になって以来、
これまでこなしてきた仕事と今回からの移動先での仕事は、
同じ事務系の仕事ではあったが、微妙に違うところが随所に有り、
仕事の速度は捗らず、漸くペースを取り戻し、
今日の内に済ませておいた方が良い様な仕事だけでも処理出来た時には、
高宮の実家の[翠山]を尋ねるには、既に遅いと思われる時間になっていた。
仕事の最中、気持ちを切り替えた木崎は、一心不乱に書類に没頭した。
同僚達に気兼ねするわけではなかったが、
仕事に対して、同じ質問を繰り返すのは、性格上嫌であったし、
何よりも仕事の出来ない男と思われるのは、尚の事我慢ならなかった。
第一、同じ過ちや質問は、自分も、教えてくれる同僚達や上司にとっても
時間の無駄に思われた。
だからこそ、仕事の間は雑念を振り払い、仕事をこなしていったのだ。
途中、帰宅する新しい上司の大湊から「無理せず、徐々に慣れていったらいい」
と声を掛けられたし、同僚の大湊付きの中村中尉からも
「今日は初日だったのですから」と気を遣ってもらった。
しかし、木崎の性格上、仕事を遣り遂げずに帰宅するなど考え付きもせず、
結局終わった時には同じ部屋には誰一人居らず、建物の中にも、
木崎のような残業中の者や、当直の者達ばかりが居るばかりとなり、
戸外はとっぷりと闇に包まれてしまっていたのだった。
「しょうがない、今日は帰るか・・・」
見上げた空に朝の青さや眩しい太陽が在る訳も無く、
蒼い空には滲んだ月と瞬く星々が煌くばかりで、
木崎の口から漏れたのは、先程付いた溜息程度の小さな呟きだった。



明日。
そう、また明日がある。



木崎は思い出したように痛みだした、昨夜の暴行で出来た腹の傷を掌で押さえ、
身体を庇う様にゆっくりと自宅への帰り道を辿り始めた。



しかし、物事はそう簡単に木崎の思う通りにはいかなかった。
翌日以降も木崎は仕事に追われ続けた。
片付けても片付けても書類の山が減る事は無く、
寧ろ優秀且つ迅速に仕事をこなす木崎の元には、
次から次へと書類が持ち込まれ、書類は幾層にも積み重なり、
直ぐに新しい山になった。
それは、まるで木崎を新しい職場から離れさせまいとしての
上司の用命の様にも思われ、ふと、そう思い至った木崎だったが、
(どんな手を使ったのかは措いておくとして)
自分をこの部署へと移動させる為に、
手を廻してくれたのであろう高宮にも迷惑は掛けられないと、
眼の前の仕事を、全力で以ってこなしていった。
そうこうしている間に日は経ち、返してきてくれと妻に頼まれた重箱も、
風呂敷に包まれたまま、職場の木崎の私物入れの棚に
置きっ放しになっていった。
その前を通る度、気になって仕方が無かったが、とにかく時間が無く、
やっと取れた僅かな休憩の間に高宮の所属する
第一部の在る階に出掛けてみたが、生憎と、その度に部屋の者達からの応えは
「高宮は出ている」との言葉ばかりで、実際、入り口から伺える部屋の中に、
見知って間もない彼の姿は何処にも無かった。
「高宮に何か?」とか「御用が有れば、伺いますが?」等と何度も訪れるせいか
高宮の同僚達に言ってもらったのだが、木崎は先日来の自分の考えを、
自分が世話になった事やら重箱やらのお礼と供に
高宮に問い質す積りだったので、
「また出直します」とだけ言って帰ってきていた。



そうしている内に、巷は本格的な梅雨の時期を迎えた。
いまだ、木崎はあれ以来高宮に会えずにいた。
会えないどころか、同じ敷地内、階が違うだけで
建物の棟さえ同じだというのに、遠目に姿を見かける事さえなかった。
不慣れなりにこなしてきた仕事も一段落を終え、
流石に、何かおかしいと木崎がいぶかしく思い始めた頃、
見計らった様に上司の大湊から声が掛かった。
呼ばれた木崎が大湊の机の前に立つと、
大らかそうな人柄の伺える笑顔がそれを迎えた。
「どうだい?
 そろそろウチの仕事にも慣れたかい?」
大湊の伝法な話し方は、彼に何とも似合っていた。
木崎も構える事無く、そんな上司の前に在った。
「同僚の方々に手助けしていただき、
 ご迷惑をお掛けしない事だけを考えながら、
 何とか今日まで遣ってこれました」
促されて取った休めの姿勢で両の手を背中で組んで、木崎は応えた。
「まぁ、あの絹見艦長の女房役を難無くこなしてきたお前さんだ。
 その上、横田の所でも散々鍛われてきたんだ、
 仕事の出来るのは分かっちゃいたんだが、想像以上で、
 俺としちゃめっけもんだった」
言いにくい事を、さらりと大湊は言って寄越した。



[絹見の女房役]。
ドキリと胸が鳴った。


「おい、聞いてるかい?」
いつの間にか、ぼんやりと気を逸らしていたらしい。
大湊の声が急に木崎の耳に届いた。
ハッと我に返って、慌てて大湊を見た。
「す、すみません」
「いんや、いいって事よ。
 ウチに来た早々、大分働かせたからな。
 慣れない仕事ってのは疲れるもんだ。
 どうだ?そんな疲れてる時にナンなんだが・・・。
 今晩、遅くなっちまったがお前さんの歓迎会やろうと思ってんだ。
 どうだい?来てくれるかい?
 主賓が来ないとなりゃ、お流れにするしかねぇんだが・・・・・」
チラッと大湊が横に控えていた中野を見上げた。
「木崎大尉、如何でしょうか?」
自分を見上げてくる大湊の視線を受け止め頷くと、
部屋の責任者の大湊付きとはいえ、自分より官位の上な木崎に対しての
礼節を弁えた中村は、人懐こそうな笑顔を向けつつ
丁寧な口調で木崎に話し掛けると、今度はその視線を木崎の背後へと向けた。
「?」
訝しく思った木崎が、徐に後ろを振り返った。
すると其処には机や書類棚、仕事場の其処此処でこちらの様子を、
其れこそ全身を眼にして耳にして伺っている同僚達の不自然な姿が在った。
「・・・・・」
ぐるりと部屋を見渡した木崎は、それからやっと「お受けします」と苦笑で返した。
次の瞬間、軍令部の、或る意味最高の緊張を求められるべき職場に
不似合いな筈の[歓声]が沸き起こった。



「そういう事ですか・・・・・」
フンと木崎が軽く鼻息を吐いたのは、
[翠山]の塵一つ無い入り口の門の前だった。
ゾロゾロと進む大湊中佐率いる第三部の一団が向かう先、
視線の遙か先の入り口には、先日の記憶通りの
[翠山]と染め抜かれた大暖簾が梅雨の最中の雨に煙って透かし見えている。
勝手にもう少し庶民的な料理屋で位に歓迎会の場所を決め付けていた木崎は、
横に来た中野の一言に納得せざるを得なかったし、
自分の思慮の無さに赤面した。
今のご時世、日々の食料にさえ事欠きつつある。
そんな中で、飲み屋や食堂が何時までも
平時同様の経営を続けていける筈も無く、
例え軍人相手の商売であろうと、
食料や酒を調達し、経営してゆく難しさを、
木崎は今改めて知ったのだった。
そういえば以前、横田達に連れられて行った料亭の中にも、
今晩通り掛かった際には門が閉ざされていた所が何件も在った。
「何だ?」
門の前から動こうとしない木崎に、前を行く大湊が
「文句があるってのか?」と続きそうな顔で振り返った。
「いえ・・・私如きの歓迎会に、いいのかと」
「いんだよ。
 宴会を開くのは上司の俺だ。
 お前さんは、黙って付いて来りゃいいんだ。
 まぁウチの奴らにしてみりゃ、
 お前さんは[刺身のツマ]みたいなもんだろうがな。
 要は、こんな時にでもなけりゃ来れないトコに来れて、
 今じゃ中々飲めない上等の下り酒が浴びる程呑めて、
 忘れちまいそうな料理の彼是を鱈腹腹に詰め込めてってのが何より一番で、
 お前さんの事は、酷い話だろうが二の次ってコトなんだからよ。」
そこで一旦、「がはは」と笑った大湊が後ろの部下達を振り見て言った。
「おい、行くぞ」
号令の様なその掛け声に、部下達は嬉々として従い、
今度は呆然と立ち尽くす木崎と、その背を同情を込めながらも
断固として押す事で、中へと木崎を促す中村だけがその場に残った。



「先日は、お世話になりました」
大湊の言葉どおり、遅れて来た木崎の事など置いて、
さっさと座敷に上がった第三部の連中の姿は既に玄関には無く、
今此処には、木崎と眼の前の胡蝶しか居ない。
「借り物の重箱も、妻には早くに返してきておいてくれと預かっていたのですが、
 ずっと私の職場に置いたままで・・・
 一人で此方の門を潜るには、やはり敷居が高くて」
頭を掻きつつ、木崎は苦笑を漏らした。
「あら、そんな・・・重箱の事はお気になさらないで下さい。
 木崎様なら、いつでもお待ちしておりますからどうぞお寄り下さい。
 そうそう、ウチの甲太郎に預けて下さっても結構でしたのに」
女将の装いで、胡蝶が艶やかに笑う。
「それが・・・あれ以来、あの朝以来、高宮中尉には会っておりません。
 不思議な話しなんですが、同じ建物に居るはずが、
 一度たりとも会えずに今日の今まで」
「・・・・・まぁ・・・・・?」
小首を傾げる胡蝶の仕草が可愛らしい。
「失礼とは思ったのですが、高宮中尉に会って礼を言って、
 拝借していた器を返して貰うつもりでいたのですが・・・。
 すみません、自分自身でお返しにあがればよかったのに。
 今度、なるべく早い内に自分で返しに伺います」
「まぁ、そんな。
 本当によろしいんですよ、甲太郎に持たせて下さって。
 ・・・・・でも・・・・・変ですわね?」
「え?」
「今の木崎様のお話で思い当ったんですけれど。
 実は、甲太郎・・・ウチの方にも帰ってきていなくて」
「帰って・・・ない?」
「はい、ウチの方もあの日の翌日から」
木崎の眉が思案気に寄せられた。
「あの日の夜だけは『暫くは、毎日帰れるよ』と言っていた通りに、
 ちゃんと帰宅したんですが、その日以来、ウチの方には帰っておりません。
 けれど、普段から忙しい時用にと軍令部近くにウチの貸家の一部屋を
 使える様にしてありまして、其方で生活したりしますから、
 今回もそうなのだとばかり・・・・・
 軍令部でも、姿を見てはいらっしゃらないと?」
「ええ、一度も」
「そうですか・・・・・ならきっと・・・・・」
「きっと?」
木崎の問い掛けに応えようとした胡蝶を、コチラも先日世話になった
仲居頭だという使用人が呼びに来て、その話はそこまでとなってしまったが、
木崎には胡蝶の言葉の続きが気掛かりで仕方がなく、
胡蝶と仲居頭のお時に連れられ座敷へと向かう間中も、
座敷に入って宴会が始まったその後も、大湊に指摘されるまで、
何処か上の空で何時までも考えずにはいられなかった。



大湊に声を掛けられ我に返った木崎が見渡した座敷は宴もたけなわで、
その様子を脇息に身体を半分預けた格好の大湊が愉快そうに眺めていた。
笑顔はそのままに、盛り上がる部下達から視線を外しもせず
主賓として大湊の隣に座らされていた木崎に、大湊は声だけを寄越してきた。
「また考え事かい?」
またとは、昼間の思い掛けない、絹見の名を聞いた時の、
一瞬の動揺の事を言っているのだと分かった。
「そんなに、何を気にしてる?」
何も無いと言おうとした木崎の気配を、
相変わらず前を向いて笑ったままの大湊の気配がやんわりと圧する。
その雰囲気に呑まれた訳ではなかったが、周りの騒ぎに紛れて、
気になっていた事を聞いてみる事にした。
「此処が、第一部に所属している高宮甲太郎中尉の実家だと謂う事は?」
「知ってる」
「先日、その高宮君に色々と世話になりました」
「ふん」
大湊は軽く頷いた。
「礼も兼ねて、少し話がしたかったのですが、軍令部でも掴まらず、
 先程、御母堂にお尋ねしましたら、此方へもずっと帰宅していないとの事で、
 どうしたものかと考えておりました」
数拍の間の後、大湊が何と言う事も無い風に言った。
「アレは今、作戦行動中だ」
空にしたまま手に持っていた杯を落としそうになった木崎は、
慌ててそれを膳の隅に置いて、改めて大湊の方を見た。
「お前さんが高宮と話をしたい事とやらを想像するのは容易い。
 そして、アレの答えもな」
「では、やはり!!」
周りに気を遣いつつも、幾分木崎の声が大きくなった。
「けど、俺は答えを知っててもお前さんには教えねぇよ。
 首を縦にも横にもふらねぇってこった。
 どうしてもって言うのなら、やっぱりアレに直に聞きな」
「・・・・・」
思い詰めた眼で見詰めてくる木崎に、
コレでこの話はお終いだと言い渡す間際に、
一言だけ大湊は独り言の様に零した。
「今度の作戦行動は、随分と急で危ねぇ作戦だって事で
 人選に手間取ってたらしいんだが、
 どういう訳だか、アレが真っ先に志願したんだってよ。
 何か朝倉に、借りでも有ったのかねぇ・・・・・」



ゾッと悪寒が走り、木崎の身体を一瞬大きく震え上がらせた。

                                       〜第27週〜