座敷の喧騒も遠い庭の片隅に、その花は在った。 庭の所々に置かれた灯篭の明かりが微かに届くだけの宵闇の中に、 寂しげに俯いて咲く花は、遅咲きの菊の面影でひっそりと其処に。 一粒、ニ粒、項垂れて夜露を零す白い菊の花。 見てはいけないもの。 その姿に浮かんだのは、そんな言葉だった。 「中佐・・・すみません。 やはり疲れが溜まっていた様で、だらしの無い話なのですが、 少し悪酔いした様なので、庭で夜風に当ってこようかと思うのですが。 席を外してもよろしいでしょうか?」 大湊には今更隠し様も無い程の動揺であったが、 周りにまでも気付かせるつもりはない。 せめてこの部屋を出るまではと、精一杯に気持ちを抑えて大湊に許しを求めた。 「ああ、構わねぇよ。 主賓のお前さんが居ようと居まいと、皆こんだけ出来上がってるんだ、 誰も気に掛けやしねぇよ。 気分が良くなるまで、いいからゆっくりしてきな」 「ありがとうございます」 言葉の最後に重きを置いた上司の謎掛けに気付く余裕も無く、 それだけを返した木崎は、 皆の関心を集めぬ程度の早足で座敷を抜け、 廊下に出るとそのまま、濡れ縁から履物を拝借して庭へと降り立った。 宴会が始まって直ぐ、人いきれと汚れを気にして脱いだ軍衣の白い上着は 座敷の隅に誂えられている衣紋掛けに仲居が掛けてくれていたので、 今の木崎はシャツ一枚で広い庭を当ても無く歩いていた。 梅雨のこの時期、僅かに肌寒さを感じる事も有ったが、 それでも今夜の大気には湿り気が満ちていて、 ベタベタと木崎の全身に纏わり付いていた。 実際は、大湊に言った「悪酔い」する程には酒は進んではいなかったが、 大湊もそれに気付いていながら 木崎の願いを快く許してくれたのだと思われる。 改めて、今度は良い上司に恵まれたと考えながらも、 だからこそ直ぐに考えが先程の大湊の言葉に戻る。 「アレは今、作戦行動中だ」 「何か浅倉に、借りでも有ったのかねぇ・・・・・」 あんな言い回しをされなくても、木崎には大湊の言わんとしている事が、 即座に理解できた。 答えは遣らないと言いつつ、 甲太郎が木崎を配置換えする為に払った代償について、 甲太郎のその身こそが代償であったのだと伝えてきたのだ。 浅倉が甲太郎の[生殺与奪の権]を握っている。 戦時下に措いて、『死』は事の他近しいもので、 日常の中でさえ傍近くに在った。 木崎自身、軍令さえ下れば、明日にでも最前線へと送られても否応も無い。 ただ黙って従うだけだった。 潜水艦に乗り、深い海の底近くで戦っていた時も。 このまま浮上できずに、やがて酸素が無くなって 窒息して死ぬのではないのかとか、何処までも深い淵まで引きずり込まれ、 幻覚で窒息より先に胸苦しさを感じ、圧死する恐怖に気が違いそうになったり。 直に敵の眉間に向け引き金を絞ったり、 銃剣を相手の急所に突き立て血肉を浴びる事は無くとも、 艦長の号令を艦内に復唱して響かせた数瞬後に響いてくる魚雷の発射振動と 沈黙の後に襲ってくる敵艦撃沈時の爆発音と 聞こえるはずも無い数多の乗組員の断末魔の叫び声。 『死』は絶えず傍に在った。 それでも、他人の『死』を自分がこれほど怖じ恐れるとは思ってもいなかった。 しかも、木崎の個人的な事の為に命を落とすかもしれない。 今も考えただけで身震いが止まらなくなり、大気の湿り気以上に、 己の身体から滲み出る冷えた汗が粘り付いてきて、尚更木崎を不快にさせた。 僅かに含んだ酒の気等、とうの昔に消え去っている。 額にも滲んでいた粘る汗を、握り締めた手の甲で勢い良くグイと拭う。 勢いに任せた頭が逆らう事無く引いた手と反対の方向を向いた先に、 季節外れの白い菊の花が咲いていた。 花の顔(かんばせ)から、夜露が一粒、ニ粒と零れ落ちる。 梅雨の最中の雨空に、月も星も無かったけれど、 厚く垂れ込める雨雲は存在しても辛うじて雨だけは降らずにいる。 そんな闇夜の庭の片隅。 季節外れの白い菊の花が咲いていた。 海で鍛えた視力でよくよく伺い見れば、 遅咲きの菊の寂しさを漂わせていたのは、 それはまだ若い、少女と言っても差し支えないと思える美しい娘で、 俯いた拍子に涙が零れ落ちたらしかった。 陽の光に当った事があるのか疑いたくなる程の肌の白さに加え、 その身に着けている着物までもが光沢のある白地の着物で、 だからこそ、この闇夜に在って木崎の目に留まったのだろう。 ぽうと浮かび上がる姿は、何処か浮世離れした感で、 不可思議なものを日頃は気に掛けたりしない木崎でさえ気になって、 目を離すことも出来ずに黙って見詰めていた。 そうして、やっと別の存在に気付いたのは娘が身じろいだからだった。 娘は一人ではなかった。 相手も同じ白い服を着ていたせいで気付くのが遅れた。 白い服を着けた、娘より遙かに上背のある大柄な後ろ姿は 相手が男だと教えている。 その片方の腕に縋る様に寄り添って、娘は泣いていた。 嫌々と頭を振る度に、涙は幾つも幾つも零れ落ちた。 これ以上、此処に居てはいけない。 気付かなかったとはいえ、これ以上此処に居て、 万が一にも二人の邪魔になったり面倒に巻き込まれては適わないと思い、 そっとその場を立ち去ろうとした時に、 娘の振り絞るような一声が木崎の耳に届いてしまった。 「甲太郎兄さま・・・!!」 木崎の足元で、思いがけずパキリと枝の折れる音が大きく響いた。 しまったと思うより早く、誰何する声が木崎の背に寄越された。 「誰だ!!」 間違いの無い声だった。 高宮甲太郎の声。 咽喉のゴクリと鳴る音さえも聞こえそうなほど、 その場はしんと静まり返っている。 もう一度、誰かと誰何する気は無いらしい甲太郎の、 強い視線だけが木崎の背に突き刺さる。 この様な再会は、思ってもいない事だったけれども、 覚悟を決めた木崎は漸く振り返った。 はっと甲太郎が息を呑む。 けれどもその様子に木崎は気付く余裕も無かった。 随分と合えずにいた間に甲太郎の身に在ってはならない物を見付け、 言葉も無く立ち尽くす木崎の二の腕を掴んだ甲太郎は、 「行きましょう」と一言言った以外、 後は黙ったまま暗い庭を迷う事無く抜けて行った。 その間、少し伸びた甲太郎の前髪から ちらりちらりと見え隠れする表情は厳しいもので、 木崎は何も言えずに、甲太郎に手を引かれるまま黙って後に従った。 そうして何処をどう連れられて歩いたのか、 気の動転していた木崎はいつの間にか着いた、 眼の前の縁の縁(えんのふち)から廊下へと引き上げられていた。 「このまま、真っ直ぐ行けば貴方方の座敷に行けます」 それだけ言い置くと、甲太郎は木崎をその場に残して 廊下の反対側へと歩き出そうとした。 今度は、木崎が甲太郎の二の腕を掴む。 不機嫌さを隠そうともせず、甲太郎が木崎を睨み付けるのにも怯まず、 木崎も甲太郎を睨み返した。 暫くの間睨み合っていた二人の、どちらが先に視線を逸らしたのか・・・・・。 多分、先に視線を逸らしたのは甲太郎の方だった。 ほぼ同時に、微かに遅れて視線を逸らした木崎は、 もう手を離しても甲太郎は行ってしまわないと思い、 甲太郎の二の腕から掴んでいた手を下ろした。 もう一度、ゆっくりと顔を上げて甲太郎を見る。 其処には左の目を覆う見慣れぬ包帯が、夜目にもはっきりと存在していた。 つい先程までの不快感が蘇り、震えだした身体。 自ずと甲太郎に声を掛けようと開いた木崎の唇も小さく戦慄く。 「・・・・・俺の・・・・・俺のせいだな・・・・・」 震える唇からは、囁く程度の声しか出なかった。 だから聞こえなかったのか、甲太郎は返事をしなかった。 そう思った木崎は、そこで再び繰り返す。 「俺のせいだな」と。 今度は先程より、はっきりと声が出せた気がした。 けれども甲太郎は返事を寄越さない。 ギリと奥歯を噛み締め、震えを押さえて、低いけれどもハッキリと、 間違いなく相手に届くだろう筈の大きさの声で木崎は言った。 「答えろ・・・・・その包帯は、俺のせいだな」 「違います」 今度は思いがけず、あっさりと返事が返ってきた。 「嘘を付け!!」 「嘘なんか付いて、どうするんです」 激昂する木崎に対して、甲太郎は何処までも平静を崩さない。 「私は情報部の人間として働いているんです。 この程度の怪我は日常茶飯事。 寧ろ、任務の最中の怪我は己の未熟さ故。 恥じねばならない事です」 甲太郎の言葉に、木崎は両の手を拳にして握り締める。 如何にかして甲太郎の口から、木崎自身が推察した事についての 返答を聞き出したくて、必死に考えを巡らせていた木崎が 思いついた事を口にした。 「大湊中佐から聞いた」 勝手に、大湊が何もかも全部話して聞かせてくれたという事にしてみたのだ。 途端に、それまで冷静だった甲太郎がチッと舌打ちする。 「『木崎茂房の配置換えの代わりとして浅倉大佐が所望されたのは、 高宮甲太郎の[生殺与奪の権]』だと」 「軍人は皆、上官に命を握られています。 私だけが特別という事ではありませんよ」 直ぐに内情を立て直した甲太郎は、元の通りに平然と返してくる。 「貴方だけの為に、この身を差し出すなど・・・。 この身は現人神、天皇陛下に捧げて」 「もう、いい!!」 ダンと傍に在った柱を木崎が拳で打ちつけ、甲太郎の話を遮った。 柱を打ちつけた拳に頭を押し付け、 抑えがたい感情をそれでも如何にか抑えようと肩が大きく上下する。 そしてそれが甲太郎の目にも納まり掛けて見えだした頃、 木崎は決した声で甲太郎に告げた。 「早速、明日にでも浅倉大佐に面会を願い出る」 甲太郎が息を呑む気配を感じたが、顔を伏せたまま木崎は続けた。 「他人に命を掛けて貰って安寧に暮せる訳がない。 お前がどう思っていようが、もういい。 俺も俺のいい様に解釈させてもらう。 浅倉大佐に面会して、元の部署に戻してもらう。 そもそも、お前に俺の身の心配をしてもらう必要なんて・・・!!」 いきなり伸びてきた甲太郎の手が、再び木崎の二の腕を掴んで 自分の方へと引き寄せようしたが、木崎は踏ん張ってそれに逆らった。 顔も俯いたまま、甲太郎の方を見ようともしない。 「何を・・・何を馬鹿な事を言ってるんです!!」 「馬鹿な事じゃない」 「充分、馬鹿な事言ってるんですよ貴方は・・・。 第一、大佐はそうそう簡単には面会してくれません」 「なら、大湊中佐に間に立って貰う」 「幾ら中佐でも無理ですよ。 しばらく大佐は、此処(横須賀)から離れていらっしゃいますから」 「電話でも構わない」 「電話如きで済む事ですか」 「何故? この間の移動は、やけに簡単に受理されたそうじゃないか」 「とにかく、貴方は黙って今の部署で働いていらっしゃればいいんです」 「だから!! それは出来ないと言っている!!」 とうとう木崎が顔を上げた。 元から激し易い性質なのか、 甲太郎を睨み上げてくる目元が赤く染まっている。 「お前が、どう言おうと駄目なものは駄目だ!!」 感情の不安定さが、知らないうちに木崎に甲太郎を [君]ではなく[お前]と呼ばせていた。 遂に、木崎の赤く染まった目尻の端から透明な感情の欠片が滑り落ちた。 その行く先を目で追う甲太郎は、先ほど泣かせた娘を思い出し、 一夜に大切な人を二人も泣かせてしまった自分を心底軽蔑し、嘲笑した。 〜第28週〜 |
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