今の時節を忘れそうな見世の華やかな明るさも遠い、 角々だけに小振りの灯りが置かれた廊下には二つの人影だけが在った。 この時分になると家人も忙しく、 奥まった場所にあるこの廊下の辺りに人の来る心配は万に一つもなかった。 その事を充分承知していて、甲太郎は木崎を連れて来た訳ではない。 咄嗟の行動だった。 聡い木崎が、甲太郎が断り無くとった所為に気付かない訳はなく、 遅かれ早かれ彼から詰問されるであろう事は、 最初から甲太郎にも容易に想像できていたのだ。 ただ、思い掛けない程早い時期に気付かれたという事と、 これもまた思い掛けない事であったが、 出来れば他人に見られたくないところを見られた事に対する動揺から、 気付けば屋敷の中でも最も奥まった場所へと連れて来てしまっていた。 眼の前の木崎を見遣れば、今し方の厳しい問い質しの時の激情の様が、 すっかり鳴りを潜めていた。 視線は甲太郎から逸らされていたが、 その赤く染まった眼の縁には透明な雫が滲み続けていた。 その雫の行方を、甲太郎も言葉も無く見下ろしていた。 「お願いですから・・・どうか、お願いですから泣かないで下さい」 言えば、廊下の磨き上げられた欅(けやき)の無垢板に、 いつの間にか徐々に広がりを見せ始めた零れ落ちた雫の染みを、 それ以上広がらない様にする事が出来るのだろうかなどと考えながら。 そう思う間に、また一つ雫が伝い落ちた。 その様に居た堪れなくなった甲太郎は、 自分でも気付かず掴んだままだった木崎の二の腕を、 先程とは比べられぬ程の優しさで以って、そうっと引いてみた。 逸らされていた木崎の視線が、甲太郎へと戻ってくる。 自分の腕を引く甲太郎の力の思っても見なかった優しさに、 少し驚いた風に大きくなった瞳は、染まった目尻同様赤く濡れていた。 10も近く歳の離れた人に、慮外な思いが沸き起こる。 幼い頃の誓いを事訳に、とうに抱きながらも目を瞑り、 知らぬ振りを決め込んで凌いできた想いが、 もう耐え切れない、堪らないと甲太郎の胸底から顕現してきた。 [愛しい]と。 それはまだ入隊して間もない頃だったか、 たまたま浅倉と二人きりになった時があった。 海軍一の策略家として名を馳せていた浅倉の部下にと望まれ、 その下に就いたばかりの甲太郎に、 自分が望んだほどの力量と胆力が備わっているか、 確かめる為の初めての任務を甲太郎に課し、 その任務の無事の完了後の報告時だった。 「高宮、今回の任務はどうだった? 新兵に最初だからと、容易な任務を課す上官も居るだろうが、 私はその様な輩達とは違うし、 お前も私の期待を裏切る事は有るまいと思っていたので いささか難易と思われる今回の事案も、敢えてお前に遣らせてみた」 そこまで言って、浅倉は甲太郎の心の中の奥の奥まで、 どんな些細な嘘も怯えも見逃さない、糺す様な視線を向けてきた。 「今回は、無事に済んだ。 だが今後も、無事に済むとは限らん。 むしろ、より以上の困難な任務が待ち受けているだろう。 それでもどうだ? 遣れるか、高宮中尉?」 「はい」 甲太郎は静かに応えた。 多分、それ以外の甲太郎の返答を浅倉は望んではいなかった。 「次は・・・・・死ぬかもしれんぞ。 それでも?」 尚も、重ねられる問い。 「構いません」 あっさりと応えた甲太郎に、浅倉は片眉だけを可笑しそうに持ち上げた。 「やけに簡単に応えるのだな」 一瞬の間の後、甲太郎は言った。 「自分は幼い頃から思い、望んでいた事があります」 「?」 「自分の[死ぬ時]、[死ぬ場所]について」 「ふむ・・・言ってみろ」 「[誰にも知られず、独りで野垂れ死にたい]と」 静かに甲太郎が言い切った時、締め切った執務室の浅倉にも、 甲太郎の心の荒れ野を渡る凍て風が、一陣吹き抜けてみえた。 「そうか・・・・・。 よろしい、もう行け」 退室を促された甲太郎が、敬礼して回れ右し、浅倉の前を辞す。 その背中に向かって浅倉が言って寄越した。 「・・・・・だがな、高宮」 扉の前で取っ手を握り、背を向けたまま甲太郎は浅倉の続く言葉を待った。 何故か、振り向いて真正面から受け止める言葉ではないと思えて。 「それこそが、何より難しいのだ」 今度こそ扉を開いて室外に出、 深々と一礼して甲太郎は浅倉の執務室を後にした。 人が人を想う気持ちの脆さ、儚さ、 そしてその気持ちを持ち続けることの難しさと苦しさ。 高宮の家に生まれ、両親を、見世の妓達を見てきた甲太郎は、 幼い頃から朧気にではあったが考えていた。 そして明日をも知れぬ現在(いま)の時代。 既に家族の縁を結んでしまった者は別として、 これ以上、己以上の存在、唯一無二の存在の者を持ってはならないと、 近い未来に消え去る筈の命を惜しむ気持ちを 己に持たせる存在が在ってはならないと、 後を憂う事無く、流れる様に潔く死んでゆく為に。 幼くともそれなりに、一途に悩み考えた甲太郎は、 己自身を主に誓ったのだ。 「愛する者を持たず、独りで死んでゆこう」と。 以来、今日まできた。 勿論、身勝手な考えなのは充分に承知している。 甲太郎の誓いを知れば、義理とはいえ母である胡蝶は嘆き悲しむだろう。 甲太郎とて[家族]は大切に思っている。 けれど、[家族]は[家族]だった。 [想い]が違う。 それに彼女には見世が有り、政次が居る。 自分を生かせる仕事と、情を交し合った者が傍に居てくれるのなら、 胡蝶ならば大丈夫だろう。 ならもう一人・・・・・さっき庭で寂し気に俯いていた花は? 彼女の名前は[初見草(はつみぐさ)]。 見世ではそう呼ばれている。 用意された名前、[初見草]は遅咲きの菊の別称であり、 名付けた方はその外見を現すつもりがあった訳ではなかったのだろうが、 彼女の何処か寂し気な外見には皮肉な程似合いの名前だった。 その初見草と甲太郎は、甲太郎が8歳・初見草が3歳の時に 兄妹として育てられるようになった。 初見草が3歳になったその日に、初見草の母親で胡蝶の仲間だった妓が、 まだ若く、健康で、その先もまだまだ続くであろう筈だった己の命の灯心を その美しく整えられた細い指先で、根元から捩じ切って、逝ってしまった。 男が心変わりをしたせいらしい。 似たような哀れな妓みたいな、似たような哀しい、よくある終わり方だった。 残された子供は幸いにも女の子。 しかも、僅か3歳の幼子ではあったが母親に似た、 10年後・15年後を容易に想像出来る整った顔立ちの幼女だった。 この世界では珍しくもない事だったが、初見草の母親は天涯孤独で、 甲太郎の父親は、即座に幼女をこのまま[翠山]に置いておく事を決めた。 将来、見世に出すつもりだったのだろう。 主の命に従い、見世の者達は異を唱える事無く、 これもよくある珍しくもない事と皆で育てた。 その頃の幼女は[小夜]と呼ばれていた。 消えそうに細い、糸の様な月夜に生まれたからだという。 それが死んだ妓の、初見草に母親として付けた最初の名前で、 後に甲太郎の父親に名付けられたのが[初見草]だった。 今も初見草は甲太郎を[兄(あに)さま]と呼び、 幸太郎も初見草を[小夜]と呼んだ。 幼女から少女へ、そして娘へと小夜が成長していく間、 兄妹として育てられてはいたが、小夜には見世での躾や決まり事が教えられ、 やがては妓として見世に出る為の準備が着々と整えられてゆく筈だった。 けれども娘盛りである筈の今、健康的な肌の色に薔薇色の血色の良い頬、 艶々の真っ黒な髪に桜で染めた貝殻みたいな爪、 本来持っているべきそれらを小夜は持ち合わせてはいなかった。 どうしたものか、将来の大切な妓候補の美しい娘は、 粗末にも、手荒くも扱われた訳でもない、 寧ろ大切に、傷などこさえないようにと注意深く育てられた筈なのに、 二十歳の今も少女の容姿のままだった。 年々虚弱になってゆく体質と、病的に白い肌、 艶は有るが染めたような日本人離れした明るい色の髪。 触れれば壊れそうな身体に、客の相手は無理だった。 幼い頃、誰もが思った通りにそれはそれは美しく成長した小夜。 けれども何処か浮世離れしたその娘は、 [翠山]の内所の一角にひっそりと暮らしていた。 実家に帰ってくると、甲太郎は必ず小夜のご機嫌を伺いに部屋を訪れた。 そうして少しでも皆と一緒に食事を取ったり話をしたりする事で、 小夜の気が紛れやしないかと彼是と世話を焼いてくれるのだった。 小夜に言わせると、胡蝶を始め[翠山]皆は本当に良くしてくれたが、 実の兄妹とはこんなものかしらと思う程に、 幼い頃から甲太郎は小夜を可愛がり、我が儘をきき、 傍にいてくれたのだ。 「小夜」「小夜」と、それは優しく名を呼んでくれた。 自分を優しく呼んでくれる、甲太郎の声は今も変わらない。 その甲太郎の[様子]が変わった。 何処か遠くを見詰めたまま時を過ごすようになった。 以前なら、小夜が甲太郎と二人きりで居たいと言ったなら、 甲太郎は構わないよ、そうしようと笑ってくれた。 そして言葉どうりに甲太郎は小夜の傍らで厳しい本を読み始め、 小夜も挿絵の入った美しい詩集を眺めて過ごした。 二人で一緒に静かに在るだけの時間。 たとえ合間に何か一言でも言葉を交わす事がなくても、 甲太郎は小夜と一緒に、同じ場所に居てくれた。 なのに・・・今の甲太郎は、一緒に居ても心が此処に居なかった。 それが寂しいと、どうしてしまったのかと、 甲太郎は先程小夜に聞き糺されていたのだった。 思い詰めた眼をして縋り付いてくる小夜の身体は、 甲太郎が軽く腕を引くだけで振り払えただろうが、 憶えていたものより、また一段と細く、華奢になっていて、 甲太郎にはそうする事が出来なかった。 「私の事を好いていて下さった兄さまは、何処に行ってしまわれたの?」 甲太郎の事を[兄さま]と呼びながら、 小夜の瞳に、最早隠す事もなく、明示されたのは甲太郎に対する 妹としてではない、一人の女としての恋情の想い。 「小夜は・・・小夜は兄さまが好き」 大振りの茶褐色の瞳が見る見る潤んだ。 胡蝶と政次、お時とその家族達、その他の使用人達の連れ合いや恋人、 見世の逞しく、強かな妓達の姿が思い浮かんだが、眼の前の義妹だけは、 どうしても独りで寂し気に佇んでいる姿しか思い浮かばない。 普段、どんなに可愛がられ、どれ程構われていようとも・・・・・ 果ては一人だった。 幼い頃の甲太郎とそっくり同じ光景が浮かぶ。 大勢の人の中で、置き去られる感覚。 独りぼっちの甲太郎。 独りぼっちの小夜。 不意に黒目勝ちの瞳が小夜の茶褐色の瞳に重なった。 見る間に潤んでいた黒曜の色の瞳が苛烈な意志を帯びて輝きだした。 目の前の小夜を、此処には居ない筈の人が凌ぐ。 しかも、記憶の中の眼差しだけで。 小夜は可愛い。 可愛いけれど、甲太郎に持てるのは妹に対しての思いだけで、 恋情と云うには穏かで、優しすぎる気持ちだった。 幻の瞳を思い返しながら、甲太郎は小夜に告げる。 「妹としての小夜を、大切に思っているよ」 嫌々と被りを振る様が、夜露を振り落とす白菊に似て、 小夜の涙がその度に闇に散った。 月のない闇夜に、明り取りの灯の映る涙が。 「甲太郎兄さま・・・・・!!」 振り絞る様な一声と乾いた枝の折れる音。 何故か、甲太郎には後者がより大きく、鮮明に耳に届いて、 思わず大きな声で誰何していた。 記憶の中に在る筈の、幻のはずの瞳が其処に在った。 気付けば小夜を置き去りに、甲太郎は有無も言わさず木崎の二の腕を取り、 勢いのまま今のこの場所へと攫う様に伴ってきてしまった。 そしてこの状況。 今度は甲太郎の番だった。 眼を背け続けた思いを認めた今、甲太郎はこれから先を考えあぐね、 木崎の滲む雫の行く先を見下ろして立ち尽くすばかりだった。 〜第29週〜 |
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