唐突に、大湊が今までの話はこれまでと話題を変えてきた。
何処か面白がった声音で甲太郎に聞いてくる。
「オメェ、その傷どうしたよ?」
「そうそう、そうですよ。
 どうなさったんですか?」
それまで直属の上司である大湊と甲太郎の間で、
居場所なさ気にソワソワと落ち着きのなかった中野までが、
甲太郎の左目の辺りを覆う包帯に興味を示してきた。
「くつり」と甲太郎が笑う。
「この包帯の訳が『鍛錬不足の不注意で、怪我をしてしまいました』では
 納得、なさらないのでしょう?
 第一中佐におかれましては、既にご承知の事とばかり思っておりましたが。
 違いましたか?」
チッと大湊が聞こえよがしな舌打ちを放つ。
「ホント、オメェ浅倉に似てきたぞ。
 その物言いなんかそっくりじゃねぇか。
 可愛げのねぇ野郎だぜ、全く」
「中佐!!」
大湊のあまりの言い様に、中野が慌てて窘める。
それに対して大湊は、軽く肩を一つ竦めてみせる。
「まぁ、それにしても何だな。
 オメェも大概お人好しっちゅうか、物好きっちゅうか。
 いや、それよりかあれだな・・・。
 オメェやオメェの後ろ盾を知って、
 それでも悪足掻きみたいなちょっかいを出してくる、
 アイツ等の方が余程どうしようもねぇんだな。
 この危急存亡の御時世に、余程あの部署は
 やる事がねぇのかねぇ?」
「部署自体は如何でしょう?
 それこそこのご時世、何処も忙しく動いていらっしゃると思います。
 それに少なくとも、あの方達も明日から忙しくなられるでしょうね。
 私や木崎大尉にちょっかいを出す間も無いほど・・・
 いや、ちょっと違いますね。
 ちょっかいを出そうにも、出せなくなるんでした。
 今日発令されたはずです、あの方達の配置移動の命令が」
「えっ?!」
それまで黙っていた中村が、驚いて声を上げた。
「[小笠原]の方でしたか。
 中佐、ご存知だったのでは?」
甲太郎が再度大湊を見上げれば、大湊はニヤリと笑い返した。
「俺はこれでも一応は情報部の主任だからな。
 この程度の事、知っていなくてどうする?って言いてぇのか?
 知っていたともよ。
 今度の事が無かったとしても、どの途、奴等はこうなってただろうな。
 軍部の笠の下、少々街でのオイタが過ぎていやがったから。
 ちっとばかし、お仕置きが早まっただけってことだろ。
 何より『前線』『前線』と騒いでたんだ。
 最前線じゃねぇがここいらよりかは格段に前線に近い。
 さぞや張り切って出掛けるだろうよ」
ここで漸く、中村にも[彼等]が誰を指しているのかに思い至った。
確認する様に上司に視線を遣れば、「当り」とでも言いそうな表情で返された。



「で?」
大湊が、甲太郎に問い掛ける。
「何がでしょう?」
それに対する甲太郎の何処かしら惚けた声音。
「テメェも変わったよなぁ。
 最初に会った頃の受け答えなんか、可愛いもんだったがなぁ」
確かに大湊の言うとおり、司令部の階段で
初めて大湊に声を掛けられた頃の甲太郎と今目の前に居る甲太郎では
大分余裕が出てきているように副官の中野にも感じられた。
僅か一月程前の事であったのに。
「いいじゃねぇか、教えろよ」
「だから、何をです?」
「その傷だよ、傷!!」
いい歳をした、スマートさが売りの帝国海軍の高級佐官が
まるで駄々っ子の其れで甲太郎に食い下がっているのを、
中野は目を丸くして眺めている。
「ですから・・・先程から木崎大尉にも申し上げたんですが、
 私の軍人としての不徳の致したところの結果です。
 難しい任務を遣り遂げて、気が緩み過ぎていたんでしょう」
「ぼ〜っとして壁にでもぶつけたってか?」
「はい」
甲太郎はしれっと応える。
「そうかい、そうかい。
 それが本当の事なら、お前さんの言う事は尤もだ。
 鍛錬し直さねぇとな、次の任務の差し支えにもなるかもしれんしな。
 ・・・・・って、おい!!」
一旦、大湊は話を途切れさす。
そうして少しドスの効いた声で改めて甲太郎に質問してきた。
「何時まで俺は、テメェのいい加減な話しに付き合わなきゃならねんだ?」
甲太郎に怯んだ様子は無い。
相変わらず、大湊と中野の足元に正座して控えていた。
「あ・・・あの・・・・・高宮さん」
気付けば、思わず中野の方がオロオロしながら甲太郎に話し掛けてしまった。
「しょ、正直にお話になった方が良くはありませんか?」
「正直にも何も、本当の事ですから」
如何あっても甲太郎には話すつもりは無いらしい。
正面を見据えたまま、後は黙ってしまった。
「バーロー!!」
遂に大湊は一声吼えると、踵を返して廊下を足音も高く歩み去る。
「え?!あっ?!
 す、すみません!!
 傷、お大事に!!」
突然の事にやっとの事でそれだけ言って、大慌てで甲太郎に一礼すると、
中野も大急ぎで上司の後を追い掛けた。
廊下を曲がって消える二人の姿を、変わらぬ姿勢のまま見送りつつ、
甲太郎は漸く大きな溜息を吐き出した。



座敷に帰る廊下を辿る、二つ目の角を曲がった所で
これまた唐突に上司が歩みを止めた。
転(まろ)ぶ様に大湊の後を追い掛けて来ていた中野は
止まりきれずに、その大き目の背中にぶつかった。
「も、申し訳ありません!!」
強かに打った鼻を押さえ、直立の姿勢で大湊に謝罪の言葉を差し出したが、
大湊は無言で立ち尽くしている。
これは一発位殴られるかなぁ・・・と考えて、
いつでも己が身に受ける覚悟を決め掛けていた中野を、
ゆっくりと振り向いた大湊の独り言めいた言葉が中断させた。
恐る恐る見上げた上官は、仁王立ちに腕組みという格好で
廊下の真ん中に立っている。
そうして目の前の中野の事など眼中に無いとでも言う様に
今来た廊下の何処かしらを見遣りながら言った。
「テメェの傷の出所位、知ってらぁ。
 知ってて、オメェの口から無理矢理言わすってのが面白ぇんじゃねぇか。
 ホント、可愛くねぇ野郎だぜ」
その口振りに、もしや視線の先に高宮が居るのかと見遣ったが、
其処に高宮の姿は無かった。
再び上司の方を振り返った中野は聞いた。
「ご存知だったんですか?!」
「何が?」
「だから・・・高宮中尉の怪我の・・・・・」
「ああ、真相か?」
「ご存知で?」
「知ってるさ、決まってるだろ。
 俺を誰だと思ってるんだ、貴様」
「え〜っ?!」
中野は声を上げた。
大湊が知っているのであれば、
しかもその事も甲太郎が知っているのであれば、
あの二人の先程の遣り取りは何だったのだろうか?
激しく疑問符を振りまく部下に、しょうがないとばかりに大湊が続きを話し出した。
「今度こそ喋んなって事だな。
 ま、平たく言やぁよ」
「でも私たちは本当に木崎大尉には話してませんよ、
 配置転換の経緯の事」
「そうかもしれんが、アイツにはそうは思われてねぇみたいだな」
「ですが!!」
「いや、アイツも俺達が話したとは思ってねぇさ。
 だがよ、木崎に気付かせてしまった時点で同等と思われたんだな。
 さっき、見たかよ?あの眼?
 『役立たず』とでも言いた気な眼だったぜ」
「そんな・・・」



ふいに前後左右、大湊が辺りに気を配った。
中野の背筋にも緊張が走る。
こういう所は、この二人、流石は情報部の人間だけの事はあった。
肝心の話しに入るのだと、大湊からの合図や説明は無くとも、
中野も上司の気配でしっかりと感じ取っていた。



「アレ(傷)やりやがったなぁ、横田だ」
「えっ?!」
思い掛けず廊下に響く自分の声に驚いて、
中野はまた自分の手で自分の口を押さえた。
そんな部下を、ジロリと一瞥して大湊は話を続ける。
「浅倉の野郎が面白がりやがって、部署も違うってのに
 何処で手に入れたんだか・・・・・。
 ワザとだろうよ。
 さっき話しの出てた[移動命令]を、
 選りにも選って高宮に持って行かせやがった」
それは・・・それはかなり不味いのではと中野は心の内で考える。
「その場では何事も無かったらしい。
 同室の、他の奴らが言ってた。
 だが高宮が退室してからだ、その後がいけなかった」
ゴクリと中野の咽喉が鳴る。
「実の所、強ち高宮の言っている事も嘘だとは言えなかったみてぇだな。
 浅倉も言ってやがった。
 さっきの『任務が終わってぼ〜っと』の件だ。
 確かに高宮は、今回の作戦で草臥れ果ててはいたらしい。
 じゃなきゃ、あの高宮が横田ごときに掠り傷程度だとしても、
 付けられると思うか?
 思わねぇだろ?」
大湊が中野に同意を求める。
部下は黙って一つ頷いた。
「例え疲れて果てていても、だ。
 それでも任務の終了の報告を終えるまでは任務中だ。
 だからこそ疲労困憊している身体に最後の喝を入れて
 司令部まで出て来たんだろう。
 そうして報告が終わって帰ろうとした高宮に、浅倉が寄越したんだそうだ。
 『数日休みをやろう、ゆっくり休みたまえ。
  次の任務まで、そう日は無いだろうから、
  英気を充分に養っていてもらわないといかんからな。
  そうだ、もう帰宅するのならば一つ、頼まれてはくれないか?
  なに、直ぐに終わる。
  この封筒を、届けてもらうだけでいいんだ。
  返事も要らない。
  ただ相手に、直に渡してくれればいい』
 そう言って、高宮のヤツに白い封筒を渡したらしい。
 表書きも無い、真っ白な封書をな。
 だから、流石の高宮も中身が何かなんて分かりはしなかっただろう。
 だだ、横田に渡せと言われて、
 多少なりとも引っ掛かるものは有ったかもしれんがな」
そりゃそうだろうと、中野はまたも心の中で呟いた。
届け先が横田少佐の所なんだからと。
「それで?」
少しの間、先を思い出すかの用に黙り込んだ上官に続きを促した。
「ん?ああ、それから・・・・・それからな・・・・・そうそう。
 高宮はとっとと横田達の所からズラかったらしい。
 当たり前だ。
 自分の上官の浅倉からは返事はいらねぇ、
 渡すだけでいいと言われてんだし、
 第一、横田達とは揉めてたらしいからな。
 長居は無用と思ってたんだろう」
中野も上司の言葉に、ウンウンと頷いてしまう。
「廊下を抜け、調度玄関に向かう最後の角を曲がった所で
 名を呼ばれ、振り向いたらしい。
 高宮といえども草臥れ果てていた所にもってきて、
 曲がりきった角が死角になったんだろうな。
 振り向きざまをバッサリよ」
「ヒッ?!」
自分でその場を想像したのだろう、中野が悲鳴を上げる。
「おいおい、妙な声出すなよ。
 情けねぇ野郎だな。
 心配すんな、さっきのアレ、見ただろう?
 まともにバッサリやられてたら、今頃こんなトコに居るかよ」
「あ、そうですね!!」
「バッサリはバッサリでも、相手も相当頭に血が上ってたんだろうな。
 いや、それとも最後の最後で踏み止まったかな?
 帝国海軍版『殿中松の廊下』は如何な横田でも避けたかったか?
 そんな事したら『移動命令』どころか『軍法会議』で
 『私闘』扱いされ、悪くすりゃ移動先は『あの世』って
 事にもなりかねないって事が、よくもあの短時間に考えられたな。
 うん、考えたんならスゲェや。
 そこんとこだけは誉めてやってもいいな。
 まぁとにかく、だ。
 幸運にも横田が握ってたのは軍刀じゃなかった。
 だから高宮は助かったんだな。
 横田が高宮に振り下ろしたのは乗馬用の鞭だ。
 至近距離から、力任せの一発だ。
 たとえ刃物でなくとも、まともに喰らってたら、
 場所が場所だ、完全に目はやられてたな。
 潰れてただろうよ。
 高宮だからこそ、何とかアレで済んだんだ。
 あと少しが避け切れずに左の眉のココんとこをやられたそうだ」
大湊は、自分の左眉の真ん中辺りを指先で突付いて見せた。
「それは・・・・・本当に、幸運でしたね。
 でも、その後横田少佐は?」
中野が大湊を見上げながら聞くと、何とも嫌そうに顔を歪めた。
「アイツが居たんだとさ。
 浅倉のヤツが。
 ちゃんと見ていて、何て言ったかほら、
 いつもアイツにくっ付いてるヤツがいるだろう?
 ちょいとゾッとする美青年がさ。
 アイツに止めさせたらしい」
「見てたって・・・高宮中尉が打たれるのを?」
「ああ・・・高宮が打たれるまで、黙って見てたらしい」
「そんな、お教えになれば中尉だって・・・!!」
「結局は浅倉も横田を良く思って無かったって事なんだろうが、
 [引導を渡す]のに自分の部下を妙な具合に使いやがったんだ。
 大事にならずに済んだから良かった様なものの、
 一歩間違ってたら、高宮の片目はおじゃんになってたんだ。
 とことん、俺はアイツが気に入らねぇ!!」
いつも口元に、微かな笑みを湛えた浅倉の顔が中野の頭の中に浮かび、
途端に中野の背筋をゾッと悪寒が走った。
目の前には口をへの字に曲げて唸り続ける上司がいたが、
それでも日頃を思い返せば、自分は何と恵まれているのかと、
思わずにはいられない中野であった。



そろそろ座敷に戻らないと、宴会が盛り上がりすぎて
手の付けられない状態になっていやしないかと、
流石に中野が思い始めたのと同時だった。
「キヒヒ♪」
ホンの少しだけ見直した上司が、妙な笑いを漏らした。
つい今し方まで口をへの字にした、不機嫌を全開にした顔をしていた筈が、
見るといつの間にかニヤニヤと笑っているではないか。
「ど、どうなさったんですか?」
恐る恐る聞いてみる。
「心配すんな、気が違った訳じゃねぇからよ。
 な〜に、ちょいと考えたのよ。
 そうしたら何だか楽しくなっちまってな」
そう言って、また「キヒヒ♪」と笑う。
その不気味さに、心持ち距離を置こうとした部下を
ガッチリと首に片手を廻して引き寄せた。
「オメェも気にならねぇか?」
「な、何がですか?」
「た・か・み・や」
「高宮中尉?」
「何だってアイツは、あそこまで木崎に拘るのか?」
「木崎大尉??」
「ふふん♪」
「え?え?ええっ?!」



廊下の角に在る目立たぬ引き戸の中には、
普段は余分な座布団やら煙草盆やらの細かな物が収められていた。
そこに、今は偶然にも、再び零れだした涙を誰にも見られたくなくて
ひっそりと閉じこもる小夜が居た。
けれども辺りを憚りながらも話を続ける大湊と中野は、
小夜が泣く事も忘れ、二人の会話に一生懸命に聞き耳を立てているとは、
露程も気付かずにいた。

                                       〜第31週〜