その日。 夏の盛りにしては珍しく、程好い風の吹く日。 木崎は愛娘と共に、自宅の傍の、一面に海が望める高台へ来ていた。 踝まで伸びた、柔らかな草の広がる其処を、 今年、やっと5歳になったばかりの娘がはしゃぎながら駆けて行く。 転がりそうになりながらも楽しそうに笑う娘に、 木崎の目が眩しそうに細められた。 今のこの時代の中、余りにも現実離れした幸福感に、 木崎はふと、言いようの無い不安を感じた。 現在を生きている者ならば、誰もが持つであろう漠然とした、 それでいて逃れようの無い不安。 幸せだからこそ、その不安も大きくなってゆく気がする。 そうして其れは、今までの穏かさを吹き飛ばさんばかりの突風と共に姿を現した。 娘の走って行く先、其れよりも遙か先。 米粒ほどの黒い、小さな固まりを、船乗りとして鍛えた木崎の目が車だと認識するのに 然程の時間は必要なかった。 距離のせいで、まだエンジンの音も響いてはこない。 それでも其れは、確実にこちらへ向かっていて。 やがて娘も気付いたのか、父親と、向かってくる車の間で、 じっと立ち尽くして彼方を見詰めている。 見る間に大きく、いまやハッキリと車の形をした其れが、 かすかにエンジン音までが届くほどの距離まで近付いた所で、急に止まった。 最初、近付いてくるそれに気付いた場所からは大分近くなったとはいっても、 木崎の所からはまだまだ遠い位置で停車した車のドアが開いて閉じた。 一人の若者が、駆けて来る。 濃いキャメルの繋の襟元からは、真っ白なスカーフがたなびいている。 戦時中の若者らしく、鍛えられた身体で刻むストライドは大きく、 僅かな時間で木崎の娘の立ち尽くす隣を駆け抜け、木崎自身へと近付いてきた。 (特攻か・・・・・) 若者の、その見覚えのある服装に、小さな溜息が漏れた。 何度見ても、その姿に気が沈む。 遂に、木崎の目の前まで来た若者はカツリと踵を鳴らし、 改めて背筋を伸ばすと、木崎に向かって右手を挙げ敬礼した。 「失礼します!! 木崎茂房大尉であられますか!!」 敬礼の姿勢のまま、若者は木崎に尋ねた。 「いかにも、木崎だが・・・・・」 敬礼を返しながら、木崎は若者の指先を見詰めた。 指先の制帽には、海軍の錨のマーク。 錨のマークに特攻服。 思い至るのは唯一つ。 [人間魚雷]。 自分の元に何故?と思う間も無く思考が遮られる。 「おとうちゃま!」 声のする方、愛娘の方へと視線を動かす。 突風が、娘の麦藁帽子を巻き上げた。 舞い上がった先には真っ青な夏の空と白く湧き上がる入道雲。 帽子の赤いリボンがひらひらと揺れた。 その名の通り唐突に遣って来て、唐突に去る突風に、 気まぐれに吹き上げられた麦藁帽子は、 次の瞬間にはくるくると回りながら落ちてくるしかなかった。 (取ってやらなけりゃぁ・・・アレはうちの子のお気に入りなんだ・・・・・) 帽子を目で追いながら思いはするが、 地面に足を生やしたかのように立ち尽くしたまま、 木崎はその場でぼんやりその様を目で追う。 高く青い空の頂から、やがて帽子の落ち着いた先は、 白い制服に包まれ立っていた士官の手の中だった。 眩しさに眇めた目に、駆け寄る娘の後ろ姿が映る。 お気に入りの麦藁帽子を返してもらい、 見知らぬ人にはにかみながらも礼を言っているらしい。 二人が同時に木崎を見る。 自分譲りの真っ黒な大きな瞳と・・・・・陽を弾いて輝くトパーズの瞳。 先程までの程好い暑さは、今や眩暈がしそうな程のそれに変わっていた。 突風が・・・・・木崎を攫った。 〜第4週〜 |