違う。


何か違う。


これは・・・・・違う。



ホンの僅かの沈黙の後、意を決して木崎は口を開いた。
「なぁ・・・とっとと本題に入らねぇ?」
男の片眉が、心持ち上がる。
「こんな時に、わざわざ世間話しに来た訳じゃねぇだろ?」
男は直ぐに返事をせず、黙ったまま木崎を見詰め続けた。
木崎も真っ直ぐに男の視線を受け止める。
やがて視線を外したのは男の方だった。
咽喉元まで閉めてあった制服の襟元を心持ち緩め、大きく息を吐く。
余程言い辛い話なのだろうか?
言い知れぬ不安はやがて確信へと姿を変える。


思い当たるのは、たった一つ。


木崎は胃の腑の辺りに不快感を覚えた。
それが木崎の表情に出たのだろう。
木崎に視線を戻した男が、慌てて問い掛けた。
「気分が・・・?」
「え?あ、いや、大丈夫だ」
「本当に?」
「ああ・・・何でもない」
男の、生来の優しさが見え隠れする。
それでも心配げな表情のまま木崎を見ていた男が、
漸く今回の訪問の目的を話し始めた。



「艦を降りてから、どれ位?」
「・・・・・2・・・や、3年か・・・・・。
 そうか・・・・・もう3年も経ってたんだな・・・・・」
「貴方は・・・いや、もう聞かなくても充分に分かりますが・・・・・」
木崎は先を促す。
「今、幸せなんですね?」
躊躇する事無く、木崎は一つ頷く。
「戦時下で、軍人としての俺が、これだけ家族と一緒に居れただけ、
 それだけでも充分にありがたい事と思ってる。
 艦を降ろされたのは、潜水艦乗りとしては正直辛かったが、
 開戦前から職業軍人だった俺には、この3年間の家族との時間は
 何よりのものになった」
そこで木崎は一旦言葉を切った。
背後に広がる波の音が、草原を渡る風が、夏の盛りの蝉の声が・・・・・



一瞬、途切れた。



「出航だな」



一斉に、全ての音が戻ってくる。



波の音が、風が、夏の音の諸々が。



その声音は、もはや男の返事を待つものではなかった。
むしろ、肯定を促す声音。



応えるべく、制服の襟元整え、制帽を被り直し、
その手に手袋さえ嵌めて、男は静かに右手を敬礼の形に持っていった。
「軍令です」
男の動作同様、静かな声だった。
木崎も男に倣い敬礼を返す。
次の瞬間にはキビキビとした所作で敬礼を解き、直立不動から一礼。
頭を垂れ、微動だにせず続きの言葉を待った。
「日本帝国海軍大尉、木崎茂房。
 本日此れより、貴校を潜水艦伊507航海長に命じます。
 出頭期限は明後日、横須賀のドックへ」
一拍置いて、身の内の苦悩を微塵も滲ませる事無く男が続けた口上は、
その時代の殆ど全ての人々が、疑問に思う事さえ許されず、
むしろ当然の事として口にしていた言葉。
「天皇陛下の御為、御国の為、その身を捧げて下さい」
顔を上げた木崎は、その表情に微かな動揺も躊躇をも感じさせない。
「拝命致します」
再びの敬礼の後、木崎は言った。



遮るものもない草原で、二人は真夏の陽の光に晒されたまま立ち尽くしている。
来た時よりも目深に被った制帽と夏の盛りの陽の作り出す影の濃さに、
木崎には男の表情が見え辛い。
小首を傾げるように覗き込んだ木崎の目を避けるように、
男は更に俯いてその表情を隠す。
何かしら、声を掛けようと口を開きかけた木崎よりも早く、男が口を開いた。
「あの人も、還ってきますよ」
「!!」
「伊507の艦長は絹見少佐です」
「・・・・・そうか・・・・・」



3年前に艦を降りたきり、葉書の一つ交わさなかった上官の顔が浮かんだ。

                                         〜第6週〜