心の澱み中、焦燥感を伴った[餓え]は何時までも何時までも 木崎の内に存在し続けた。 結婚の翌年、娘が生まれた。 自分と妻の、血を、肉を、魂を、その身の糧として生まれた命。 それでも存在する[餓え]とは・・・まだ、足りないのか? 何が足りないのか? 解からないまま、日々は過ぎて行く。 足りないながらに、嘗て持った事の無い程の幸福な日々が。 親として、これに勝る喜びが有ろうか? 親としての答えは[是]。 人として、これ以上の幸せが有ろうか? 人としての幸せは[否]と・・・・・囁く自分が・・・・・在る。 軍靴の響きを耳にして久しいが、いよいよ世の中はきな臭く、 巷では軍人が肩で風を切り、我が物顔でのさばり歩いている。 「開戦は近い」。 真しやかに囁かれる噂。 生まれたばかりの赤子を手に、 妻も何かしら問いた気に木崎を見る事が多くなった。 不安で、恐ろしくて堪らないのだろう。 はっきりと、夫の口から噂の真実を告げられるのが。 軍人の妻としての避け様の無い運命の日が近付きつつある事を、 妻は気付いているのかもしれない。 自分の耳で聞くまでは・・・ 告げられた言葉を理解するまでは・・・ 今はまだ、噂で済ませられるから。 けれど気にせずには居られないのだ。 そうして気が付けば、夫に物問いた気な視線を送らずには居られない。 正直なところ、聞かれたとしても木崎には答えられなかった。 木崎程度の下士官には、 後の開戦決行の為の些細な情報さえ知らされている訳も無く、 有るのはただ、漠然とした予兆だけで、 不安に慄き震える妻に話して遣れる程の、 何程の物をも知ってはいなかったのだから。 昭和16年初頭。 木崎は配属移動を命じられた。 これまで乗艦していた潜水艦から他艦への移動。 絹見が艦長を務める艦への移動だった。 乗艦して直ぐに知る、絹見の海軍内に置いての評価の間違いの無さを。 これまで使えてきた艦長達との、明らかな操船技術の格差。 何より絹見は艦内の人心を掴む事に、木崎がこれまで仕えてきた 数人の艦長の中の誰よりもずば抜けて長けていた。 この人に、付いて行けば間違いは無いのだと思わせる 何かが有る人だった。 以来木崎は、盲目的に絹見を敬慕し続けてきた。 戦時下ではなくとも、実戦さながらの演習は日常茶飯事的に行われた。 その演習の模擬戦の度、勝ち続け、生き残り続け、 不敗を誇ってきた絹見率いる伊16。 模擬戦とは言え、戦いは戦いである。 木崎は戦いの度、絹見の傍らで航海長としての責務を果たしていたが、 指揮官としての才能と、戦いの合間でさえ垣間見せる人としての魅力を 誰よりも間近で体感した。 結果。 木崎は絹見に眼を奪われ、精神は高揚する。 挙句の果て、遂には口から賛美の言葉が溢れ出てしまう。 そうして、あの時・・・・・。 「艦長、今回も素晴らしい戦いでした」 いつもの様に演習の後の興奮を残したままの声で木崎が言う。 今終わったばかりの演習の総括を艦長室で行った後、 艦長と木崎自身の分の二人分のお茶を持ってきた時に掛けた 木崎の言葉に、これもいつもの様に絹見が返してきた。 「ああ、さっきのか。 アレはホラ、アレだ。 [運が良かった]ってやつだ。 たまたま[運が良かった]ってやつだな。 まぁ、しかし何だな。 [運も実力のうち]と言うからな、俺は結構凄いのかもしれんな? な、木崎、お前さんどう思う?」 いい歳をした大人の顔で、瞳だけは少年の其れで木崎に話し掛けてくる。 不自然なほど間近まで寄せられ、 覗き込んできたその瞳に見惚れそうになり、 気付いた木崎は柄にも無く動揺してしまっう。 半歩下がって如何にか間合いをとって、視線を逸らすのが精一杯だった。 「な、木崎?」 それでも追ってくる瞳に、居たたまれず手にしていた茶碗を口元に運び、 一気に煽る振りをして、視線を外した。 〜第9週〜 |
![]() |